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「Call of History ー歴史の呼び声ー」は、歴史に関する様々な情報を紹介することで、歴史への理解を深め、あるいは歴史への興味を広げるきっかけになることを目的としたウェブサイトです。 人が歴史に興味を持つきっかけはさまざまです。映画、大河ドラマ、時代劇、歴史小説、ゲーム、漫画、あるいは地元の史跡を歩いたり海外旅行したり、学校の授業だったりしたことからかもしれません。そんな、多種多様な、歴史への興味の入り口をできる限り網羅して歴史上の人や事件、参考になる書籍へとリンクしていけるサイトが欲しいとずっと思っていました。 世界史・日本史に関する歴史記事カテゴリ、歴史に関する書籍、映画・小説・アニメ等の歴史エンタメ情報、各地の史跡や展覧会・イベント情報を紹介する歴史散歩の四種類のコンテンツから構成されています。 個人で運営していたブログ「Kousyoublog」の中から歴史関連記事を転用し
最近「鎖国」について調べている。少し簡単に鎖国体制について、「鎖国」という言葉についてメモ的にまとめておきたい。 江戸時代の外交関係に関する一般的な常識は、対外貿易を長崎の出島に限り、外交関係を閉ざし、人の行き来を制限して日本独自の社会を構築していく「鎖国」体制であったというものだ。これが幕末に「黒船」の登場によって「開国」し、明治維新を経て近代国家建設へと邁進する・・・しかし、このような「鎖国」観に代わって、現在では、国際関係の完全封鎖はなされず、貿易も長崎だけでなく薩摩、対馬、松前の四つの窓口を通じて積極的に貿易・外交が行われていたとする説が主流となっている。 「鎖国」は寛永一〇年(一六三三)から寛永一六年(一六三九)までに出された五つの禁令、通称「鎖国令」によって成立するが、キリスト教の布教禁止、日本人の海外往来禁止、貿易を幕府の管理下に置くことなどを内容としているものであって、『
一八六四年、皇帝ナポレオン三世治世下のフランス。弁護士モーリス・ジョリは「 マキャベリとモンテスキューの地獄での対話 」という著作を発表した。 『この著作は、モンテスキューとマキャベリという政治思想における著名人の対話という形式で、ナポレオン三世のフランス第二帝政を批判するために書かれたものである。モンテスキューが自由主義を擁護し、マキャベリがナポレオン三世側に立つ。後者が語るのは、政治はモラルと無縁だ、愚かな大衆には見せかけだけの民主制を与えて目を眩ませていればよい、といった主張である。』(辻隆太郎著「 世界の陰謀論を読み解く――ユダヤ・フリーメーソン・イルミナティ (講談社現代新書) 」P63) 自由主義擁護の立場から大衆迎合的な手法で専制君主にまで成り上がった政治家を皮肉たっぷりにあてこすった風刺本だったが、よほど出来が良かったのか半世紀とせずに著者の意図せざるかたちで装いを新たにし
アベノミクスは、江戸時代に一度「大失敗」していた!(河合 敦) | 現代ビジネス | 講談社(1/2) こんな記事を読んだので、 以前書いた記事 から享保の改革と徳川宗春についての部分を切り取って再掲しておこうかなと。比較してお読みいただければ幸いです。まぁあちらは仮にも歴史の先生、こちらはただの素人が趣味で書いたブログ記事なので温い目線で軽い気持ちでお読みください。 享保元年(1716)、徳川吉宗が将軍に就いたときの日本は転換点を迎えていた。十七世紀の大開発時代が終わり耕地面積は頭打ちとなり、人口も十七世紀の百年で二・五倍と急増したあと、十八世紀初頭から幕末までほぼ3200万人前後で横ばいに転じる。森林資源は枯渇して各地に禿山が見られ始め、元禄バブルを最後に経済成長の鈍化とともに幕府財政は急速に悪化し、「米価安の諸色高」とよばれる米の供給過剰と米以外の産品の供給不足による物価の乱高下で
「重層と複合」、「分節構造」 江戸の身分制社会を解き明かす上で、その分析方法として注目されるのが身分的周縁論をリードする塚田孝氏の「重層と複合」論である。同氏は近世社会が「武士の家、百姓の村、町人の町、職人の共同組織、賤民の共同組織など」(吉田伸之2009 P12)の重層と複合から構成されているとする。「重層」とは「村々が組合村を形成したり、町々が組合町をつくったりという基礎的な社会集団が二次的三次的に集団を形成して行くような関係」であり、「複合」とは武士と町人、町人と賤民などの「異種の社会集団間の交流・関係」のことである。「近世の社会は、支配者から賤民までに及ぶ多数の社会集団が、相互に取り結ぶ無数の関係構造として全体の社会が形成される」(吉田伸之2009 P13) この塚田の「重層と複合」論を社会集団の関係構造を理解する基礎とし、吉田伸之はそこにもう一つの視点として権力秩序の「分節構造」
オフィスレイアウトの知られざる歴史 : ライフハッカー[日本版], 仕事も生活も上手くこなすライフハック情報満載のブログ・メディア ところで、オフィスレイアウトも、時代の流れに応じて、さまざまに変化してきたことをご存知でしたか? そういえば、日本のオフィスって個人別でパーテーションで区切る文化って根付いてないですよねー。大部屋主義。リンク先の例でいうと、テイラー主義とビューロランドシャフト主義の組み合わせで、ちょっと仕切りがある程度が主流なのはなぜかなー。スペース的な問題は確かにあるんだろうけど、基本的には区切らない方針ですよね。 コミュニケーションを重視したレイアウトという意味合いが強いのかもしれないけど、実はパーテーションで個室化する方がコミュニケーションが促進されるという話もありますよ。って前書いた(→「 インターネットが会社オフィスに創出した仮想空間の日米の違い 」)のを再引用
ダンジョン飯 1巻 (ビームコミックス(ハルタ)) ダンジョン飯 2巻 (ビームコミックス(ハルタ)) ファンタジー世界でおなじみの地下迷宮(ダンジョン)へと赴く命知らずの冒険者たち――ダンジョンの奥深くへと潜っていく彼らも人間(あるいは亜人間)であるから、当然ながらメシを食う。では、その食事とはどんなものなのだろう?そこに目をつけてモンスターを様々な手法で調理して、食って食って食いまくるアドベンチャーファンタジー×グルメ漫画に仕上げたアイデアが光る一作で、今大人気作品の一つになっている。 歩き茸と大サソリとスライムなどを使って水炊き作ったり、鶏と蛇が一体化した怪物バジリスクをローストチキン風の料理に仕上げたり、バジリスクの卵とマンドラゴラなどを使っていかにもヘルシーなオムレツにしてみたりと、幻想的な怪物が次々身近な料理になっていくのがとても面白い。正直、料理は現代風にきれいにアレンジさ
三つの支配者層 支配層として君臨するのが、 (1) 徳川将軍家を頂点として、独自の家政機構を備え封建領主として被支配層の統治を認められた大名と、幕府の行政機構において官僚としての職務を分担する旗本・御家人、および各大名の家臣団からなる武士。 (2) 幕府の権威づけや元号宣下、官位叙任、祈祷や諸宗派の統制などの宗教的機能を持ち、幕藩体制を将軍家とともに支える役割を担わされつつも、制度上徳川将軍家に従属し、封建領主として大名と並列にあった天皇・公家。 (3) 近世身分制社会を成立せしめる宗旨改め制度の管理運用、キリシタン禁制のチェック機能、被支配身分の人身同定機能を担い、寺院本末制度によって本山・本寺の地位を保障し各宗派の組織化を行って幕府の統制下で宗教社会を形成した寺社。 の三つである。公家貴族層と寺社領主層を長袖身分と呼んで区別する場合もあるが、公家貴族層は朝廷とその領地、後述する
兵農分離~太閤検地と刀狩り 近世の身分制度は兵農分離を軸としている。その土台は豊臣秀吉による太閤検地と刀狩りによってつくられた。太閤検地によって統一基準で算定された石高に基づき、秀吉から大名へ、大名から家臣へと領地が石高で与えられ、その知行の大きさに見合う軍役奉仕が義務付けられる。また、太閤検地によって百姓の耕作権が公認されるのとひきかえに、領主に対する貢租の納入が義務付けられる。支配者としての武士と被支配者としての百姓という構造が確立されていく。 この兵農分離に基づく身分構造の制度化として実施されたのが「刀狩り」である。「刀狩り」も、農民の武装解除という通俗的な理解が根深いが、そうではない。刀狩りは刀・脇差の所持ではなく帯刀を禁じることでの帯刀の有無を表象とした身分統制、すなわち『武士に奉公する者と、奉公しない百姓、戦う奉公人(兵)と戦わない百姓(農)の差別化』(藤木正志 「刀狩り」20
死んだら魂は新たな肉体に宿る、という「生まれ変わり」を信じている人は多い。それもただ信じているだけでなく肯定的に、こう死後生まれ変わりたいという願いとして持っているし、さらに今の自分が生前他の人物であったという前世も信じていることが多い。以前知り合いに、前世は中世イタリアの踊り子だったと真面目に信じている人がいた。「やべーな中世イタリアとか戦争と略奪と破壊と飢饉と疫病の終わらないサイクルで庶民が生きていくのは地獄じゃねーか」と言いたくなるキモ歴オタ特有の意地悪な気持ちはぐっとどっかに追いやり、自由で夢と希望にあふれたその人の前世についてとても面白く話を聞いていて、ああなるほど「生まれ変わり」信仰が今を生きるその人の存在意義を形作っているのだな、と思ったものだ。 そして、これは現代日本だけの傾向ではなく世界的な潮流である。様々な調査データが一様に「生まれ変わり」「輪廻転生」を信じている人の世
【江戸時代の身分制度論】士農工商から身分的周縁へ 「士農工商」とは何だったのか 江戸の身分制度研究略史 近世身分制社会の成立 近世身分制社会の構造~武士、朝廷、寺社、町人、百姓 近世身分制社会の社会的権力と身分的中間層 賤民制と身分的周縁を構成する社会集団 柔らかい身分理解という日本社会史の新視点 吉田勉「歴史/身分論から差別論・穢れ論・境界論・地域社会論へ―歴史学・民俗学・人類学・宗教学などの成果 前近代部落史研究の課題と展望」(2014)によれば戦後の賤民研究は次の四つの時期に分けられる。 (1)林屋辰三郎の散所論や、井上清・原田伴彦らがリードする近世政治起源説が主流だった時期(戦後~1970年代中頃) (2)卑賤観としての触穢論を軸として、林屋散所論に代わって、黒田俊雄・大山喬平・網野善彦らがリードする中世非人論が主流となり、また渡辺広・横井清らの問題提起を承けて、朝尾
【江戸時代の身分制度論】士農工商から身分的周縁へ 「士農工商」とは何だったのか 江戸の身分制度研究略史 近世身分制社会の成立 近世身分制社会の構造~武士、朝廷、寺社、町人、百姓 近世身分制社会の社会的権力と身分的中間層 賤民制と身分的周縁を構成する社会集団 柔らかい身分理解という日本社会史の新視点 支配者層としての武士、庶民層としての町人・百姓、その両者の間で支配体制の実務を担った身分的中間層・近世社会に事実上大きな影響力を行使しした社会的権力とみてきたが、彼らから排除され、あるいは賤視された多くの人々も、近世身分制社会に存在していた。それが賤民身分を含む、身分的周縁である。 塚田孝は身分的周縁を構成する社会集団を以下の三つに分類している。 (1) 賤民制にかかわるえた身分・非人身分や、猿飼・ささら(説教)・茶筅・おんぼう・鉢開きなど (2) 公家家職とつながる宗教者・芸
2016年五月の初頭ごろだったか、Twitterで士農工商という表記が教科書から無くなっているという話が話題になっていた。そう。もう江戸時代の身分制を「士農工商」として表記することは退けられて久しいのだ。少なくとも一九七〇年代初頭に疑問が呈され、九〇年代にほぼ否定され、その結果として二〇〇〇年代半ば以降、教科書から消えはじめた。 かねてから近世身分制社会について個人的にまとめたいと思っていたので、いい機会と思い改めて研究書籍や論文を読み直したり、新規に関連文献を読んだりして一気にブログ記事としてまとめてみようと思いたったのが運の尽き。なんだかんだで書き終えるまで三か月ほどかかってしまい、かつ三万三千文字オーバーの超長文記事となってしまった。誰が読むんだ。 というわけで、長文を読みたくない人のための簡単なまとめ ・士農工商は職能分担を表す言葉で、社会通念として身分体系を意味するようになるの
「士農工商」の由来と受容 「士農工商」という言葉と社会を構成する人々を四民に分ける分類は古代中国の古典に由来する。「春秋穀粱伝」に「古者有四民,有士民,有商民,有農民,有工民。」とあり、「漢書」には「士農工商,四民有業。學以居位曰士,闢土殖穀曰農,作巧成器曰工,通財鬻貨曰商。」、「管子」にも「士農工商四民者,國之石民也。」とある。いずれも士農工商に身分的序列の意味はなく、職能から社会を構成する人々を分類する意味でつかわれていた。 いつごろ士農工商の分類が日本に伝わったかは定かではないが、「続日本紀」の「霊亀元年(七一五)五月辛巳朔」に「四民之徒。各有其業」とあり、十四世紀に成立した「神皇正統記」にも「凡男夫は稼穡をつとめておのれも食し、人にもあたへて、飢ざらしめ、女子は紡績をこととしてみづからもき、人をしてあたゝかにならしむ。賎に似たれども人倫の大本也。天の時にしたがひ、地の利によれり。此
【江戸時代の身分制度論】士農工商から身分的周縁へ 「士農工商」とは何だったのか 江戸の身分制度研究略史 近世身分制社会の成立 近世身分制社会の構造~武士、朝廷、寺社、町人、百姓 近世身分制社会の社会的権力と身分的中間層 賤民制と身分的周縁を構成する社会集団 柔らかい身分理解という日本社会史の新視点 以上、長々とみてきたように、「士農工商えた非人」の認識から大きくかけ離れた江戸時代の身分制社会像が明らかになってきている。これは身分的周縁研究の成果が大きいが、一方で身分的周縁研究が下からの積み上げゆえの、俯瞰的視点での全体像把握という点で弱さを持っている。様々な社会集団の重層と複合の上にある分節構造としての把握という視点では確かに同時代の個別関係が見えてくるが、では、江戸時代の身分制社会はどのような社会であったのか端的に説明することは難しい。また、男女の間でも明確な身分差があった
建久九年(一一九八)一二月二七日、源頼朝は相模川で行われた橋供養からの帰りに体調を崩し、翌建久一〇年(一一九九)一月一三日、五三年の生涯を閉じた。一説には落馬とも呼ばれるが確かではなく、その死因は不明とされている。頼朝は彼が政務を執った大倉幕府の裏手にあたる高台に葬られ、その上に法華堂が建てられた。 白旗神社(旧法華堂) 頼朝の遺骨が埋葬された法華堂跡に建てられた神社。生前、頼朝が乳母からもらった観音像を祀った持仏堂が建てられ、死後はその遺骨が埋葬されて法華堂となった。頼朝の墓所ということで誰も手を出せないことから、頼朝死後の内紛に際してはたびたび一族の避難場所となったが、宝治元年(一二四七)、執権北条氏に対して反旗を翻した三浦一族が立て籠もり、一族と家臣ら五〇〇余名がここで自刃した。明治維新後の廃仏毀釈・神仏分離令によって法華堂は取り壊され、新たに源頼朝を祭神とする白旗神社が建立されて現
●相手の野良猫が動きたいことを察知し、それを野良猫が動けるように放置してあげる。 ●野良猫が何をしたいかは、その野良猫自身が気づいていない。これを野良猫自身よりも先に気づいてあげても無意味だ。 ●野良猫の動作の辻褄や一貫性は敢えて無視する。論理的に正しいことではなく、野良猫が楽しい気分になるように自身を空気にする。 ●野良猫は一方的に写真を撮る男は気にしない。写真を撮っている最中も野良猫の表情を注意深く観察し、少しでも退屈していたら、撮影の途中でも敏感に自身の存在感を空気化させる。 ●野良猫は、抜け目のないだけの男は嫌い。野良猫にあっさりやられてくれるような、どこか抜けたところのある、おおらかで人のいい男が好き。 ●野良猫は、頭で考える男も腹やハートで考える男もどっちでもいい。 ●野良猫は、単に明るいだけの夏場の道路は嫌い。暑さも寒さもヒゲを濡らしながら感じ取り、逃げて裏庭面か
先日紹介した 鐙摺城址 から渚橋交差点方向へ数百メートル、葉山町を抜けて逗子市に入った切通しの道の脇に天然記念物「鐙摺の不整合を示す露頭」がある。 地層は様々な堆積物が年代ごとに順に溜まっていくことで形成される。年代ごとに堆積物の成分から違いがみられるが、その堆積の仕方によって、重なる二つの地層間に著しい時間隙がなく概ね連続的な状態を「整合」、隆起して削られた上に新規に堆積するなど地層間に相当の時間間隙があるものを「不整合」と呼ぶ。通常、地層は水中にあるなど観察することは難しいが、それが観察できる場所を「露頭」と呼ぶ。 その不整合な地層を観察できる露頭として有名な個所の一つがこの逗子葉山間の境界付近にある「鐙摺の不整合を示す露頭」で、神奈川県指定の天然記念物になっている。 画像は逗子市指定天然記念物一覧より。 三浦半島の地層は古いものから順に鴨川層、葉山層・三浦層群、上総層群・相模層群に
逗子駅から海岸回りで十五分ほど歩いた田越川に面した高台、仙元山の麓付近に六代御前の墓がある。 六代とは、平維盛の嫡男、平清盛の曾孫にあたる人物で、平正盛、忠盛、清盛、重盛、維盛と続く伊勢平氏の直系の六代目に当たることから幼名として六代と名付けられた。承安三年(一一七三)生まれ。平高清とも呼ばれるが、高清を名乗ったかどうかは確かではない。 平家の栄華を支える後継者として成長するはずだったが、治承四年(一一八〇)、以仁王の挙兵に始まる怒涛の戦乱は平家の滅亡と鎌倉政権の樹立によって幕を閉じ、平家滅亡後の文治元年(一一八五)、母新大納言局(藤原成親の娘)とともに京都偏照寺の奥、大覚寺の北、菖蒲谷とよばれる一帯に潜んでいたところを北条時政によって捕縛される。時政によって殺害されるところだったが、頼朝の強い協力者で平家打倒に暗躍していた僧侶文覚が頼朝に六代は自分の弟子であるとして助命を嘆願、赦されて文
序章 修行者食行身禄 世界文化遺産にも登録され、さらなる注目を集める富士山は文字通り「日本」を象徴する山となっているが、歴史上、いかにして富士山は日本のシンボルとなってきたのか? 富士信仰拡大の契機として十八世紀の富士修行者 食行身禄 (じきぎょう・みろく:1671-1733)の入定(修行として山中で断食死すること)があった。彼の劇的な死が人々を熱狂的に富士山へと向かわせ、民間信仰である冨士講を勃興させることになる。そして、人々の間に広がった富士山への熱狂的な崇拝観念が、近代、「日本人のアイデンティティ」へと昇華されていく。食行身禄の死を取り巻く様々なエピソードを横軸に、富士山を取り巻く中世から近代までの信仰・文化・政治そして近代登山の誕生とナショナリズムの台頭までの流れを縦軸にして富士山の文化宗教史を大まかに描いてみる、という記事。 食行身禄こと伊藤伊兵衛は、寛文十一年(1671)、伊勢
1994年、アメリカ合衆国議会中間選挙。民主党、歴史的大敗。 2010/11/5 2015/3/14 アメリカ政治 1994年、アメリカ中間選挙で上院下院とも共和党が過半数の議席を制し、40年もの間続いた民主党の下院支配は終わりを告げ、就任2年弱にしてクリントン民主党政権は苦しい政権運営を強いられることになった。 当時、クリントンブームの熱気が醒めやらぬ中で共和党の圧勝をもたらしたものはなんだったか。それはクリントンの大統領就任をまず振り返る必要がある。 ■クリントン大統領誕生 1991年、ジョージ・H・W・ブッシュ政権は米ソ冷戦の終結や湾岸戦争での勝利など対外的成功で90%近い支持率を誇っていた。まさか、そのわずか一年半後に大統領選に敗れるなど夢にも思わなかっただろう。 同年5月、無名の若い州知事だった ビル・クリントン は1989年に設立された民主党の改革を訴え、新しい政策を模索する
先日書いた 東京湾の範囲 問題などもろもろ調べている過程で見つけた、1590年当時の東京湾(江戸内海)を中心とした原地形図。鈴木 理生 編著「 図説 江戸・東京の川と水辺の事典 」より。江戸前島半島の左沿岸、日比谷入江という表記の「江」の字と丁度平行な位置あたりが今の新橋駅、その対岸の高台に愛宕神社がある感じの位置関係ですね。また、古川は現在の渋谷川。 色々説明し出すと非常に様々な点に触れることになることもあって、それも今の理解ではなかなか難しいところではあるのだが、図の引用だけで終わらせるのも適切ではないので、簡単に触れると、前回の記事でも説明したように、三浦半島の走水から房総半島の富津洲へと横断航路が古代から発達していたが、それと交差するように、太平洋から東京湾への銃弾航路と、武蔵野台地の各河口に登場した湊(ミナト)同士を繋ぐ航路、さらに湊から河口を上る輸送路が古くから発達していた。
鎌倉はどこまでが鎌倉か?以下松尾剛次著「 鎌倉 古寺を歩く―宗教都市の風景 (歴史文化ライブラリー) 」より。 鎌倉時代、首都的な機能を備えていた都市鎌倉には鎌倉とそれ以外とではっきりとした違いがあった。例えば平安京が洛中と呼ばれたように鎌倉とされる地域一帯は「鎌倉中」と呼ばれ、まず行政単位として鎌倉中は保、鎌倉外は里という制度が敷かれ、各保には保奉行人という責任者が置かれていた。 鎌倉中の内と外との明確な区切りは、中世の境界がグラデーション的な観念であったことを反映して、当然のことながら曖昧ではあるが、鎌倉中の境として、東は六浦(現在の横浜市金沢区六浦)、西は稲村ヶ崎(鎌倉市)、南は小坪(逗子市小坪、北は山内(鎌倉市山ノ内)、または稲村ケ崎に変えて片瀬川(藤沢市片瀬地区)であったとされる。鎌倉時代を通して定期的に鎌倉中と外とを聖別し、悪鬼を鎌倉の外に追い払う祭礼「四境祭」が執り行われてお
先日読んだ「 暮らしの中の文化人類学 平成版 」によると、一定の年齢に至った老人を山に棄てるという棄老、俗に言う姥捨てなど「 制度化された老人の遺棄はないと考えられている。 」とあって、へぇ~と思いました。理由は以下の四つ。 1)棄老伝説は「かつては老人を捨てる風習があったが何かのきっかけで今はやっていない」という形式であること 伝説が歴史的事実を語ることもあるが、しかし単純に事実を語ることはまれであり、むしろ様々な屈折を経た表現で語られる。棄老伝説が人々に語る内容は、「かつては老人を捨てたが、ある出来事をきっかけに老人の持つ知恵や知識に助けられることが多大であることを悟り、労働力として役に立つことが少ないという理由で老人を捨てることの愚を知って、棄老の習慣をやめた。したがって今は老人を大切にする」、という形を取ることが多い。このような話は実は逆のこと、つまり過去においても決して老人を捨
「忠臣三浦胤義遺孤碑」~なぜ彼は承久の乱で鎌倉幕府を裏切ったのか? 2013/1/5 2015/4/3 逗子・葉山・三浦半島散歩 忠臣三浦胤義遺孤碑 承久三年(一二二一)の 承久の乱 で、後鳥羽院方に付いて敗死した 三浦胤義 の遺児たちが田越川河畔で処刑されたとする故事に従って、大正二年(一九一三)に地元の有志によって建てられた三浦胤義の遺児たちを弔った慰霊碑。京浜急行新逗子駅裏、田越川のほとりの駐車場の一角にひっそりと佇んでいる。設置当時の皇国史観が広がっていた社会を反映して天皇についた忠臣とされている。 胤義は鎌倉政権で北条氏に次ぐ勢力を誇った三浦氏の一族で当主義村の弟にあたり、稀代の謀略家として知られた義村の右腕として畠山重忠の乱、牧氏の変、和田合戦など数々の合戦や政略に力を発揮した人物である。建保六年(一二一八)からは検非違使尉として京都の治安維持の責任者の地位にあった。かつて
「会社の生命は永遠です。その永遠のために、私たちは奉仕すべきです」 2012/5/15 2014/12/17 労働法・労働問題 社員の皆さま 日商岩井の皆さん。男は堂々とあるべき。会社の生命は永遠です。その永遠のために、私たちは奉仕すべきです。 私たちの勤務はわずか二十年か三十年でも、会社の生命は永遠です。それを守るために、男として堂々とあるべきです。今回の疑惑、会社のイメージダウン、本当に申し訳なく思います。責任とります。 社員の皆さま と書かれていた遺書の全文 今日まで、気の張りつめでした。頑張る、頑張る、でやってきました。家族をギセイにし、家をギセイにして、そして、でも、日本一の航空機部を作りました。誰が追随できるでせうか。 決して、決して、政治家の力を借りた訳ではないのです。つきあいはありました。でも、その力を借りるという事は、期待できますでせうか。それはない。自分の力、それ
先日、人気アニメのネットラジオ「 咲らじ 」の最新回(最終回)を聴いていると、番組中(48分33秒あたりから)で、「どちらにしようかな」という何かを選ぶときの「選択の唱え言葉」について、奈良県生駒市や川上村では「ごんべえさんの言う通り~」という歌詞だという話をしていて、僕(1972年生まれ、福岡県福岡市出身)が子どものころ(1970年代後半~80年代前半)だと「天の神様の言う通り~」だったので、へぇと思った。 ちょっと軽くググってみると、天の神様、裏の神様、神様、天神様、大黒様、ごんべえさん、裏のごんべえさんなど地域によって色々種類があるようだ。ネット上のいくつかのサイトからごんべえ(権兵衛、ごんべ)さんと唱っている地域を抜き出してみると http://homepage3.nifty.com/docchi/docchi-p.htm 大阪府岸和田市、大阪府大阪市阿倍野区、奈良県生駒市、奈良
十五世紀末から十六世紀初頭、宗教改革前夜のドイツ社会についてはそれほど明らかになっているわけではないらしい。何せ民衆のほとんどが文字を書くことができず、日記など資料となるものががほとんど残っていないせいだ。それでも活版印刷の普及によってそれ以前の時代よりは遥かに”まし”だという。当時の社会の信仰について宗教改革研究の第一人者スクリブナーは著書「ドイツ宗教改革」で既存の四つの説を比較検討しつつこのように描写している。 『もっとも基本的な信仰は、自然界がその維持と安寧を聖なる力に依存しているというものだった。キリスト教は、神が森羅万象を維持する唯一の超自然的存在であることを強く主張していた。しかし中世の人々は、超自然的力をふるうことができる多数の他の存在が活動していると考えていた。それは悪魔、天使のような霊と悪霊の双方、そして聖なる力を所有していると考えられた数多くの「神聖な」人物たちである。
先日紹介した民俗学者赤坂憲雄の著書「 境界の発生 (講談社学術文庫) 」に「人身御供譚の構造」という生贄・供犠のメカニズムが分析されている章がある。それによると、まず人柱など神話や伝承などで語られる人身御供譚の定型は以下の通りだという。(P230) (A)毎年、人身御供をもとめる邪神がいる。 (E)邪神・イケニエ・異人は神となる。 ヤマタノオロチ伝説などに見られるように、大蛇など異形の怪物の姿をした邪神への生贄として未婚の美しい娘が捧げられるが、その救済者として神的英雄や旅の僧侶、都よりの貴種など異人が登場して邪神を退治し、異人はその娘と結婚して人身御供の風習は止み、邪神や生贄となった娘・異人は神として祀られることになる、というのが大方の人身御供譚の定型となる。 様々な伝承で語られる人間を生贄として殺害する人身御供の風習については、そもそも伝承であって実際は行われていなかったとする説や、最
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