Content-Length: 366760 | pFad | http://b.hatena.ne.jp/kanototori/g%E5%A4%A9%E5%B9%B3/
毎年4月1日のブログには馬鹿話を書くのが恒例だった。今年も結局そんなことになるだろう。 さて、新元号が決まった。蓋が開いてみれば、なるほどという思いと、意外という思いがあいなかばというところだった。 予想していたかというと、予想できなかった。新元号名はローマ字でKで始まる音から選ばれるとして絞り込んでしまったのが、敗因というか、失敗だった。明治・大正・昭和・平成としてM・T・S・Hなので、濁音は嫌うだろうし、Nは紛らわしいので、KかRだろうと予想したが、Rは日本語になじまないだろうと思ってしまった。 まったく予想できなかったかというと、蓋を開けてみればわかるが、出典に万葉集が来ることは予想可能だった。3月19日朝日新聞『新元号、初めて日本の古典由来に? 漢籍とのダブル説も』のような誘導はあった。 今回の改元で政府は、複数の国書の専門家に内々の考案を依頼。政府が数案に絞り込む前の段階の20案
月額550円から有料記事が読める 初月無料・いつでも解約可能 広告がなくなり快適閲覧(一部除く) 国内・国際ニュースも読み放題 有料会員向けのプレゼント応募が可能 上位プランで紙面宅配や紙面ビューアも
メインコンテンツに移動 検索 すべて 本文あり 詳細検索 タイトル 内容記述 著者名 著者所属 著者ID 出版者 刊行物名 日付 巻 号 開始ページ 終了ページ DOI 各種ID 資源タイプ 出版タイプ 助成機関名 プログラム情報 機関 学位授与機関 学位授与番号 検索 並び替え
日本で墓誌を副葬する風は飛鳥時代から奈良時代(7世紀末から8世紀末のおよそ100年間)にかけて盛行したと見られており、考古学や歴史学の貴重な資料としてのみでなく、書跡としての美術的な価値を含め、広く古代の文化や社会を考える上での重要な指標ともされるが[1]、盛行したと思われる割に現存する遺品は少ない(僅か18例が知られるのみ[2])。 楊貴氏の墓誌は享保13年(1728年)に大和国宇智郡大沢村(現奈良県五條市大沢町)の農家の敷地内で発見された火葬墓と推定される古墓から蔵骨器と推定される壺とともに出土した塼(せん)の1枚であったといい[3]、そこには右の7行43字で以下の内容が刻まれていた。 天平11年(739年)8月12日という日付は造墓時のそれであると思われるが[4]、銘文に見える真備の「下道朝臣」という氏姓や「従五位上」という位階、「右衛士督」や「中宮亮」という官職、「守(しゅ)」、「
729~731年に伐採された木材が使用されていたことが分かった東大寺法華堂の内部=2010年2月、共同 奈良市の東大寺・法華堂(三月堂)で、本尊の不空羂索(ふくうけんさく)観音像が乗る基壇と法華堂に使われた木材が729~731年に伐採されたことが9日、東大寺と総合地球環境学研究所の光谷拓実客員教授の調査で分かった。 平安時代に編さんされた「東大寺要録」に法華堂は733(天平5)年創建と記されているが、瓦の研究などから740年以降の天平時代後半に建てられたとする説が有力だった。 今回の発見は、信ぴょう性が低いとされてきた東大寺要録の記録を裏付ける結果で、学説の再考が求められそうだ。 9日、東京国立博物館で東大寺の森本公誠長老が講演、年代を明らかにした。森本長老は「観音像も729年以前に造られたものだろう」と話し、法華堂や観音像は728年に幼くして亡くなった聖武天皇の皇子・基王のために造られた
File Not Found. 該当ページが見つかりません。URLをご確認下さい。 お知らせ 事件・事故のジャンルを除き、過去6年分の主な記事は、インターネットの会員制データベース・サービスの「京都新聞データベース plus 日経テレコン」(http://telecom.nikkei.co.jp/public/guide/kyoto/)もしくは「日経テレコン」(本社・東京 http://telecom.nikkei.co.jp/)、「ジー・サーチ」(本社・東京、 http://www.gsh.co.jp)のいずれでも見ることができます。また、登録したジャンルの記事を毎日、ネット経由で会員に届ける会員制データベース・サービス「スカラコミュニケーションズ」(本社・東京、http://scala-com.jp/brain/) も利用できます。閲読はともに有料です。 購読申し込みは下記のページから
出土した「天平二年」と紀年銘のある木簡=下関市教委提供 奈良時代に流通した国内最古級の貨幣「和同開珎(わどうかいちん)」の造幣所の一つ、長門鋳銭(じゅぜん)所跡(国指定史跡、山口県下関市)の隣接地から、造幣所の稼働時期を裏付ける年代が記された木簡が出土した。同市教委の発表によると、木簡が鋳銭遺物とともに見つかるのは全国でも初めてで、文献でしかわからなかった造幣所の場所と稼働時期を裏付ける資料として、専門家は「日本の貨幣史上では画期的」としている。 市教委によると、木簡は全長220.5ミリ、最大幅10ミリで、「天平二年五月四日主□□部車万呂」(□は判読不能)と推定できるという。地表下85〜140センチの地層で縦に割れた状態で見つかった。同じ地層には貨幣を造る際に使った鋳型などもあったことから、市教委の担当者は「730(天平2)年時点にこの場所で鋳造されていたと確証づけられる」と話す。
◇8世紀前半 利府町教育委員会は1日、硯沢(すずりさわ)窯跡遺跡(同町春日)から出土した8世紀前半の土器に「宮城郡」の文字を確認し、同町郷土資料館で調査報告会を開いた。宮城郡は、文献では「続日本紀」の766(天平神護2)年の項目が初見とされるが、それより数十年さかのぼる最古の記載とみられ、同町教委は「多賀城の創建(724年)のころには宮城郡も成立していたことを推定させる貴重な資料」としている。 宮城郡の文字は、窯跡の灰原(失敗製品の捨て場)から出土した3点の須恵器の坏(つき)(茶碗)の底やふたに確認された。いずれも08年度の発掘調査で、文字の一部が刻まれた破片が見つかっていたが、その後、数万点の破片を整理し接合作業を重ねた結果、宮城郡の3文字がつながった。 郡は律令制の国の下に位置する地方行政区画で、8世紀になると陸奥国、出羽国にも次々と設置された。宮城郡は、「続日本紀」の中で766年11
茨城県石岡市部原の「瓦塚窯跡(かわらづかかまあと)遺跡」(県指定文化財)で、谷を挟んだ南北地域から計5基の窯跡が確認された。特に、南側の窯跡の灰原(はいばら)からは聖武(しょうむ)天皇の命により天平(てんぴょう)13(741)年に全国で建立された国分寺(こくぶんじ)の創建期までさかのぼる瓦片が出土。窯跡は国分寺の補修用の瓦が焼成されていたとする従来の定説を覆し、創建期から本格的に操業が行われていたことが判明した。 市文化振興課によると、窯跡の範囲は谷の北側にあると推定されていたが、今年度調査で南側から窯跡2基が確認され、遺跡の範囲が広がった。南側の窯跡で採集された瓦片の出土で、約50年ほど時代がさかのぼるとみられる。 同課の小杉山大輔学芸員は「南側からの窯跡の存在はまったく予想がつかなかった。また、北側の窯跡の灰原から出土した文様(もんよう)のついた瓦片(常陸国分寺軒丸瓦(のきまるがわら)
トップ > 滋賀 > 3月5日の記事一覧 > 記事 【滋賀】 甲賀・宮町遺跡で建物跡と塀跡出土 紫香楽宮変遷の手掛かり 2009年3月5日 宮町遺跡から新たに見つかった建物跡と塀跡=甲賀市信楽町宮町で 聖武天皇が奈良時代に造営した紫香楽宮(しがらきのみや)(742−745年)跡とされる甲賀市の宮町遺跡で、掘っ立て柱建物跡2棟と塀跡が出土し、4日に市教育委員会が発表した。建物と塀は近接していることなどから、同時に存在した可能性は低く、宮の変遷を探る上で手掛かりになるという。 ◆市教委「広範囲で計画変更?」 天皇が政務を行う「朝堂地区」北側の850平方メートルを調査。建物跡は南北に7・5メートルの間隔で確認。北側は東西12メートル以上、南北6メートル、南側が東西15メートル、南北6メートルでほぼ同じ規模という。2棟は東の辺をそろえるなどし、一体的な施設とみられる。柱の太さから、南
想いにかたちはありません。 それでも確かに存在して、人と世界を動かします。 お客さまの想いをくみ取り、解決策を提案する。 多彩なアイディアと技術を駆使して、効果をもたらすまで実行する。 私たちの取組みで、お客さまの想いをあまねく伝える。 伝わる想いで、人と世界を彩り豊かに変えていく。 「明日を今日よりあざやかに」 それがQTmediaの想いです。
考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。 聖武天皇東国行幸都市サミットに出かけてみようと思ったら・・・ (こんな冊子ができました。余分がありませんので当日中になくなると思います。参加できない方のために少し内容をご紹介していきます) 今回のシンポジウムでは近年の発掘調査によって明らかになった河口、赤坂、朝明、石占、禾津の頓宮及びその出発点となった平城京、到着点となった恭仁京の発掘調査に関わる関係教育・研究機関からパネラーをお呼びし、聖武東国行幸の謎に迫ろうと考えています。既にこの様に立派な資料集も刷り上がり開会を待つばかりですが、その内容の一部をご紹介しておきたいと思います。 第1回は私の拙文による全体像の提示です。 (総カラー24頁の資料集です。) 聖武東国行幸の謎に迫る 山中 章 天平十二(740)年十月二十
琵琶湖畔で行われた第27回「全国豊かな海づくり大会」出席のため滋賀県入りしていた天皇、皇后両陛下は12日、陶磁器「信楽焼」で知られる同県甲賀市信楽町の宮町遺跡を視察された。 宮町遺跡は、奈良時代の聖武天皇が742(天平14)年から離宮として築き、745(同17)年には一時、都と定められた紫香楽宮(しがらきのみや)の跡地とされている。 甲賀市教育委員会の宮木道雄教育長らから発掘品の説明を受けると、天皇陛下は「紫香楽宮は何年間使われたの」「造営の途中だったの」などと熱心に質問されていた。 また、発掘現場で働く人たちには「どうもご苦労さま」「寒いけど大丈夫ですか」とねぎらいの声を掛けられた。 これに先立ち、両陛下は同市内の県立陶芸の森をご訪問。信楽焼が造られる工程を見学された。
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く
Fetched URL: http://b.hatena.ne.jp/kanototori/g%E5%A4%A9%E5%B9%B3/
Alternative Proxies: