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安土桃山時代末期の天正18(1590)年、豊臣秀吉が関東の有力戦国大名・北条氏を滅ぼしたいわゆる「小田原征伐」の直後、秀吉が室町幕府将軍家の分家に当たる「関東足利氏」に送った書状が見つかった。北条氏亡き後、秀吉は東海地方で勢力を誇っていた徳川家康を関東に移封させたが、一方で分断状態にあった関東足利氏の統合に動いていた。室町幕府はすでになくなっていたが、家康を牽制(けんせい)するため「かつての権威」である足利氏を利用しようという意図があったことを示す、貴重な証拠といえそうだ。(橋本昌宗) かつての名家が“没落” 書状を展示している神奈川県立歴史博物館(横浜市中区)によると、書状は「豊臣秀吉朱印状(しゅいんじょう)」と呼ばれるもの。日付は天正18年7月17日で、秀吉から関東足利氏の末裔、足利頼淳(よりあつ、頼純=よりずみ=とも)に送られたものとされる。これまで書状の存在自体は知られていたが、現
7月に本堂など9棟が国重要文化財に指定された大田原市黒羽田町の大雄寺(だいおうじ)で11月4〜30日、宝物収蔵庫「集古館」が特別公開される。黒羽藩主、大関氏の家紋入り甲冑(かっちゅう)や鉄製仏具「雲版(うんぱん)」の拓本などが初公開される。由緒ある名刹(めいさつ)の歴史を知る貴重な機会だ。 (伊沢利幸) 大雄寺は応永11(1404)年に大関氏の旧居城の白旗城内(同市余瀬)に創建され、600年以上の歴史を持つ。天正4(1576)年に大関氏が黒羽城に移った際、寺も現在地に移転。以降、大関家の菩提(ぼだい)寺として興隆した。本堂、庫裏(くり)、総門、鐘楼などを茅葺(かやぶ)き屋根の回廊でつなぐ「七堂伽藍(がらん)」の構成で、禅宗寺院の様式を伝えている。 特別公開では甲冑の他、経蔵の棟札(国重文)、木版一切経(県指定文化財)の一部、紙本墨画「楊柳観音図」(同)、室町時代の雲版(千葉県指定文化材)の
麓の鳥居と標柱の間にある石碑に八幡山神社の略歴が記されている。 平成4年の建立で、祭神が応神天皇・神功皇后・玉依姫命であることのほか、以下の出来事が載っている。 天平宝字年間 勧請 中世 戦乱によって矢野へ遷る 永禄3年 尾崎神社(矢野)から渡子*1へ遷る その後 当地に遷る 天正4年 小早川隆景が再建 文化文政期 『藝藩通志』の記述「祠官の属十余家あり…」 以後 二・三回の改修 音戸町の前身は、東部の音戸瀬戸〜藤脇「瀬戸島村」と、北西部の早瀬瀬戸に面する「渡子島村」で、瀬戸島は中世には波多見島・波多見浦と呼ばれた。 島をめぐって矢野を拠点とする野間氏と竹原小早川氏が争ったこともあって、小早川氏の所領に落ち着くまでが明瞭でない。 『藝藩通志』(巻三十九 安藝國安藝郡四 祠廟)には 八幡宮 瀬戸島波多見村にあり、建久二年辛亥、勸請すと云、天正四年丙子、小早川隆景、再造、(略) と、細かなとこ
広島誓願寺の開祖である安楽庵策伝上人は、戦国時代の天文23年(1554)に美濃の国の金森定近(土岐可頼)公の子として誕生された。兄の金森長近公は初代の飛騨高山の城主である。 永禄3年(1560)7歳の頃、美濃浄音寺の策堂文叔上人について得度出家された。 幼い身で出家されたのは、上人のお母さんは金森定近公の正室の子でなく、側室の子だからとも言われている。 11歳の時に、京都東山の禅林寺(永観堂)で甫叔上人に師事して修行を積まれた。 学成って25歳 (天正6年)に山陽地方へ布教の旅に出られ、備前、備中、備後、安芸の各地で盛んな教化活動をされた。当時の旅の僧は布教活動だけでなく、各地を渡り歩いた情報を、それぞれの領主に提供しては子厚い供応に預かったようだ。それも並みの僧ではそれほどの供応も無いだろうが、策伝上人や安国寺恵瓊といった傑僧は大切に処遇されたに違いない。 こうして策伝上人は西方寺(広島
愛知県清須市には「清洲」との住所表示があったり、「清須市立清洲小学校」「清須市立清洲中学校」があったりして、「清須」と「清洲」が併存している。両方とも「きよす」と読むが漢字表記が違っている。「清須」と「清洲」の違いについて、前回に続いて、織豊期研究を専門とする中京大の播磨良紀教授とともに古文書を調べてみた。(岡本公樹) 清須市と言えば、桶狭間の戦い(1560年)の頃、織田信長が居城を構えた地だ。信長死後の政権のあり方が議論された「清須会議」(1582年)が行われ、徳川家康によって尾張の中心が清須から名古屋へ移った「清須越し」などで知られている。 自治体名は現在、「清須市」だが、2005年に西枇杷島町・新川町と合併(その後、春日町も合併)する前の旧町名は「清洲町」だった。今、同市の観光の目玉の一つとなっている平成(1989年)になってできた新しい建物の名前は「清洲城」。 須と洲は字の意味が異
文化財の宝庫だったのに―。24日起きた岡山市北区金山寺、天台宗の金山寺の火災は、国指定重要文化財の本堂が全焼、岡山県指定重要文化財・木造阿弥陀(あみだ)如来坐像(ざぞう)も焼失したとみられる。岡山市出身で日本臨済宗の宗祖栄西(1141〜1215年)も一時修行したと伝わる古刹(こさつ)の災厄に、関係者には驚きとショックが広がった。 同寺の正式名は、銘金山観音寺遍照院。室町時代末期の成立とされる「金山寺縁起」によると、749年に孝謙天皇の勅令で報恩大師が創建したと伝わる。16世紀、戦国武将松田氏の命を拒絶したため、堂塔すべてを兵火に焼かれた。本堂は岡山城主宇喜多直家の援助で1575年に再建。桃山時代初期の貴重な建築として、早く1923年に国指定を受けていた。 午後9時ごろ現場に駆け付けた乗岡実岡山市教委文化財課長は「柱が何本か残っているだけで、焼け落ちた屋根や部材が散らばっている無残な状態。国
◇豊臣政権の朝鮮出兵への考察にも 唐津市教委は25日、唐津城跡の本丸文化財調査で、中段広場の天守台下から、築城以前のものとみられる石垣が見つかったと発表した。築城以前の状態を示す遺構が発見されたのは初めて。近くでは、文禄・慶長の役(1592~1598年)のため名護屋城に布陣した豊臣秀吉が家臣らにしか使用を許さなかった金箔(きんぱく)瓦の破片4点が出土しており、市教委は櫓(やぐら)や御殿など、秀吉が関係する重要建築物があった可能性があるとみている。 市教委によると、石垣は地下1・5メートルで8月下旬に見つかった。残っていたのは高さ3・5メートル、延長5・7メートルで、50センチ~1メートルの石20個を確認した。 これまでに見つかった最古の石垣は唐津城築城(1602年)時期のものだったが、今回の石垣は1591年の名護屋城築城から唐津城築城までの間に造られたとみられる。 文禄・慶長の役では、周辺
大友宗麟が製造 最古の国産大砲か? ロシアの博物館に展示 2011年9月29日 20:31 カテゴリー:社会 九州 > 大分 ロシア・サンクトペテルブルクの国立軍事史博物館に展示されている大砲が、戦国時代の豊後国(大分県)のキリシタン大名・大友宗麟(1530―87年)が、日本で初めて量産化に成功した国内最古の大砲「ファルコン砲」(石火矢(いしびや))とみられることが29日までに、東京大史料編(へん)纂(さん)所の調査で分かった。 同編纂所が9月に実施した現地調査に参加した豊後中世砲史研究会(大分県)の神田高士代表(45)=同県臼杵市教委職員=によると、大砲は青銅製で、口径80ミリ、全長264センチ。砲身に「FRCO」と刻まれている。 宗麟は、キリスト教の洗礼を受けた1578年以降、洗礼名「フランシスコ」を図案化した印章を手紙などに刻印していた。調査団は、この形と砲身の印章が一致すること
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