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2008年05月17日16:55 東洋文庫清代史研究会:『内国史院档:崇徳三年』 カテゴリ東洋文庫清代史研究会学会・研究会情報 manju1635 Comment(0)Trackback(0) 参加者は7名。 七月十一日途中(279L1)から七月十六日途中(287L7)までの記事を読んだ。 内容は,①鑲紅副都統Ušan・Ubahaiの盗米案件,②太宗ホンタイジのうら盆会(収穫祭)の太廟(四祖[+武功郡王]・太祖と太后)・福陵(太祖と太后)での祭文,③アダリ郡王の嫁取り,④和碩豫親王ドドの通達2種,④太宗ホンタイジがムンガトゥの病状を気遣った記事,⑤ヨト貝勒の嫁取り。 特に「加筆」とみられる某記事は,その後の記事と関連しているとも考えられる。 また,④ドドが「髪を上に束ねるな,素足にするな」と通達した記事は,満洲人に言ったもので,これまた興味深い。 次回は,6月7日(土)10時から正午まで(
「朝鮮燕行使と朝鮮通信使」 -1811年金善臣の通信行と1826年申在植の燕行を中心に- 本研究科教授 東洋史学 夫馬 進 日本では江戸時代にあたる時代、朝鮮の外交使節が行き交うルートとしては、ソウルを基点として二つの国際線がのびていた。一つは日本の江戸へ向かうものであり、その使節は通信使と呼ばれる。もう一つは中国の北京へ向かうものであり、これを燕行使と呼ぶことにする。燕とは北京あるいは北京地域を示す雅名である。すなわち北京へ行く使節という意味である。 文献上で出てくる言葉としては、「燕行使」というのは普通ではない。むしろ正朝使や謝恩使などといった使節の目的を持って呼ばれることが普通であった。また汎称としては、「事大使」とか「赴京使」と呼ばれるのが普通であった。ただ、学術用語として現在、事大使なり赴京使なりを使うのが適当かどうかというと、恐らくは適当ではない。なぜなら現在および長い将来に
中国遼東地区の建州女直を統一したアイシンギョロ・ヌルハチ(1559〜1626)は、イェヘを除く他の女直諸部を征服すると、1616年、ハンの位に即位し国号を金(後金)と称した。明は当初はヌルハチに対して懐柔策をとっていたが、後金の勢力が増すにつれ両国の対立は激化する。1618年2月、ついにヌルハチは明に対する七大恨を天に告発し、明との戦争に突入した。 ヌルハチは自ら兵を率いて国境を越え、1618年4月15日に李永芳指揮する撫順城を攻略し、救援に駆け付けた張承胤率いる1万の明軍を壊滅させた。さらに7月22日にも再び明の領内に侵入し清河城を攻略して城内の約1万の明兵のほとんどを殺傷する。 この事態に対して明は人事を刷新し、文禄・慶長の役に経略として参戦した楊鍋(?〜1628)を兵部左侍郎・遼東経略に任命した。楊鍋は、1619年2月11日に遼陽で出陣式を行い、動員した10万の軍勢を4路に分け、
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