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ts jun-jun1965の日記

庄野潤三『クロッカスの花』(1970)

 庄野潤三の随筆集『クロッカスの花』をざっと読んだ。とにかくお坊ちゃん育ちの温厚な人だから、人を批判したりはしない。ところが実は、映画を観ても筋よりも細部が気になる、というようなことを書くと、筋を楽しみに映画を観る人は自分はいけないことをしているんだろうかというかすかな圧迫を感じる。佐藤春夫は新幹線に乗ると雑誌なんか読まないでずっと外の景色を見ていて、それで飽きない、とそのことが佐藤の偉さであるかのように書くと、新幹線ですぐ雑誌を開く人を圧迫する。誰も傷つけないようでも実は圧迫しているのだ、ということに気づいた。

 世間にはこういう書き方をする人はほかにもいる。攻撃的に書く人もいる。

トーナメントと宮澤賢治

「ミゼラブル・ハイスクール1978」に書かなかったのかなと思ったが、高校二年くらいの時、友人の大村と戯れに、近代日本の文学者で誰が一番偉いかトーナメント戦をやったことがある。文庫の後ろに載っている広告などを参考に人名をたくさん集めて、二人一組にして、私と大村で意見が一致したらそちらの勝ち、意見が割れたらそのへんにいる友達に、「どっちが偉いと思う?」と訊くという遊びだったが、「上田三四二」という名前を見て大笑いした高橋というやつが、それから二回くらい、訊くと「さん、よん、に!」などと叫んでいたから苦笑したものだ。

 結局、最終勝利者宮澤賢治だったのだが、賢治の最後の対戦相手が誰だったかも覚えていない。

43年目の「第三の男」

私がキャロル・リードの「第三の男」を観たのは、1982年7月11日の土曜日に、NHKでゴールデンタイムに、世紀の名画を放送という鳴り物入りで放送した時のことで、私は一浪して東大一年生になったばかりの19歳だった。見終わって、面白くないので憮然とした。しかし当時のことだから、世間で名画と言われている映画が分からなかったというので狼狽した。当時よく映画の話をした中学校の時からの友達は、オーソン・ウェルズが出てくるとたちまちジョゼフ・コットンを食っちゃうね、などと言っていたが、それも特に感じなかった。最後に、アリダ・ヴァリが道端で待っているジョゼフ・コットンを完全無視して行ってしまうところも、解説者の話を聞いて意味は分かり、こういうところでぐっと来るべきものなんだろうなと思った。

 さて、直井明という先ごろ死去したミステリー評論家の『本棚のスフィンクス』という本を読んでいたら「第三の男」を細かく分析した箇所があったので、アマゾンプライムを見たらあったので、43年ぶりに観てみた。結論から言うと、大して感想は変わらず、別に面白くはなかった。どちらかというと、これまた名曲とされているアントン・カラスの音楽がやたらうるさく感じられた。

 だいたい、この視点人物の西部劇作家は、ハリー・ライムと20年来の友達だと言っているが、どういう友達で、前はどういう男に見えていたのかというのがまるで分からない。ペニシリンを水で薄めて流していた犯罪者が、昔はまともな男だったのか。それに西部劇作家だから「意識の流れ」やジョイスが分からないというのも、ずいぶんへちゃこい「作家」だなと私には思える。アリダ・ヴァリにしても、映画がそう見せたがっているほど魅力的でもないし、だいたい犯罪者に愛情を感じる心理が理解できない。

 もっとも、これは若い頃から映画ファンに対して抱いている疑問で、なんで映画ファンというのは犯罪者とか殺人鬼とかが好きなのであろうか、といういつもの疑問を感じただけにとどまった。あと「スイス500年の平和が生み出したのは鳩時計だけだ」という、オーソン・ウェルズが入れたという有名なセリフも、今なら「ルソーを生んだだろう」と反論するところだ(ヴォルテールはダメ)。

小谷野敦

金素雲と川端康成

金素雲(1907-81)は韓国の詩人だが、日本の韓国領有中に日本の北原白秋に師事し、島田謹二とも親しくしたため、戦後、日帝協力詩人として韓国では評判が悪いが、日本では『朝鮮詩集』や『朝鮮民謡集』を岩波文庫から出している。息子の武井遵は北原綴の筆名で少女愛ロリコン)小説などを書いていたが、銃刀法違反などいくつかの犯罪で摘発されており、佐木隆三が『恩讐海峡』で武井の金素雲に対する愛憎を描いている。東大比較文学では金素雲の印税を授与されたことから金素雲賞を創設し、東アジアからの留学生に主として授与していた。

 その金素雲の『近く遙かな国から』(新潮社、1979)に、1943年8月ころの戦争中に鎌倉の川端康成を訪ねた時のことが書いてある。だが金は何の用事で訪ねたのかすっかり忘れていて、その時川端の部屋に碁盤があるのを見て、今度一局囲みましょうなどと話をして、川端・武田麟太郎・間宮茂輔編『日本小説代表作全集』の11巻(小山書店)がちょうど出たばかりなので「金素雲様」と署名してもらい、帰宅したら川端の「名人」が載っていたので読んでいたら、これはどうやら囲碁もかなり強いらしいと人に訊いたら実際強いらしいと分かって川端と囲碁をやるのはやめにした、と書いてある。

 金素雲という人は温厚な人のように見えて、いかにも韓国人らしい激しさがあるらしく、あとのほうで、角川書店の『短歌』が1961年ころに企画した木俣修との北原白秋についての対談がボツになった(というか、金素雲がボツにした)話などは恐ろしい。対談場所となった料亭に編集長が遅れてきて、その間に仲居が料理を持ってきて襖の外から声をかけるのだが、角川の女性記者二人は何も言わないから金が「どうぞ」と答えるということが繰り返されるうち金が癇癪を起こし、編集長がやってきてニコニコしながら中腰で「では始めてください」と言ったのも気に入らず、対談は終わったのだがゲラが来ても返送もせず、半年一年と放置していたという話で、これは日本人には何がそんなに問題なのかというのと、木俣に罪はないではないかという感想を持つだろうが、いかにも礼儀に厳しい韓国人という感じがしてぞうっと背筋が寒くなる。

小谷野敦

百川敬仁氏のこと

百川敬仁氏(1947-)が死去したらしい。まだ正確にいつのことか分からないが、昨年か一昨年くらいだろう。

 私は1990年6月に修士論文を補正した『八犬伝綺想』を刊行して、8月にはカナダのヴァンクーヴァーにあるブリティッシュ・コロンビア大学へ留学したのだが、その翌年ほどなくだったか、日本文学協会という左翼的な学会が出している『日本文学』という月刊学術雑誌の近世特集に寄稿するよう百川氏から依頼されたような気がする。もちろんメールなどない当時だから手紙だったのか。それで書いたのが「江戸の二重王権」という『八犬伝』論で、すると91年の暮れに一時帰国した際、高田衛に呼ばれているというので、私と百川氏と、やはり寄稿した櫻井進氏とで、雑司ヶ谷の日文協事務所へ行ったのだが、風間誠史という、当時高校教師で、今は相模女子大の理事長になっている人が「高田側」の人物としていて、「今度の論文は面白かったです」などと言っていた。

 その時百川さんは色々話したが、「なんでそんなに暗いんですか」などと言われていた。百川氏は旧姓を桑野といい、東大国文科から大学院をへて東大助手となり、国文学研究資料館から明治大学教授になっていたが、夫人が長く病気だったらしい。87年に『内なる宣長』、90年に『物語としての異界』という論文集を出していて、あとから思えばポストモダン風の、文藝評論じみた書き方をする人だった。櫻井という人も当時『江戸の無意識』というバリバリのポモ新書を出しており、名古屋大助教授だったが、どういうわけかその後南山大教授になり、交通事故で死んでしまった。

 92年夏に私は日本へ帰ってきた。カナダではアメリカ人教員のポリコレな振る舞いと合わず、博士論文執筆資格もとれずに帰国したのだが、当時東大本郷で百川氏が非常勤で教えていたのでそこへ会いに行ったら、「俵万智なんてのは天皇制です」というような話をしていた。終わってから教壇へ数人の学生が寄ってきて、女子学生が、そうですよ俵万智なんて、天皇制ですよと言っているのを、直感で適当なことを言っているなと思った。その時私は無精ひげを生やしていたので、百川氏は私に気がつかず、少ししてから「あっ、小谷野さん!」と気づいてくれた。

 それから本郷の正門前の喫茶店の二階で話していたら、あとから上がってきた30代の男性に会釈して、「長島(弘明)」と言ったのが、今度東大国文科の近世の専任になった人であったのを覚えている。百川氏は私のヴァンクーヴァーでの師匠だった鶴田欣也先生のところへ研究員で行っていたことがあるが、鶴田先生に聞いたら、デリダなどを引用するので自分が禁止したら大変不幸だったということであった。

 その後も何かと相談をしたりしていたが、94年に私は大阪大学へ行き、その夏に「甘え」をめぐる会議で東京へ来た時、東大の大澤吉博という、以前百川氏と同時に駒場の助手をしていた人(この人も若くして死んだ)から、百川夫人が死んだという話を聞いた。

 99年に私は阪大を辞めて東京へ帰ってきた。2000年に百川氏はちくま新書から『日本のエロティシズム』を出したのだが、これを近世文学の板坂則子さんが激しく批判していたが、公にはならなかった。その翌年に明治大学公開講座「江戸文学の明暗」というのをやり、私と百川氏、三田村雅子などがそれぞれ講演をした。2004年に百川氏が岩波から出した『夢野久作』が最後の単著になったが、贈られて読んで私には何が何だか分からなかった。すでに私はポモに批判的になっていて、さほど百川氏の仕事を評価していなかったのである。 

 百川氏は、目が悪くなったと言うようになり、それは緑内障だったらしいのだが、次第に音沙汰もなくなったが、2009年ころ、妻が明大和泉校舎で事務の仕事を始めたので、無理に勧めて百川氏に会わせたが、全然違う顔になっていたと言っていた。娘さんがいたが、アメリカで音楽大学に行っているとかいう話だった。これより前だが、日本人には天皇は必要だ、というようなことを言うので驚いたことがあるが、最初に会った時も、ハイデッガーを深読みしていて、あそこまで考えたらナチスになるのも分かるというような不穏なことを言っていた。

 メールも読めなくなっていたようなので遠慮していたが、かといって電話をするほどに距離は近くなくなっていた。最後にメールしたのは2019年、妻が交通事故に遭い、私が入院して大腸ポリープを切ったあとのことだった。

 そういえばまだ桑野姓だったころ、大学紀要に論文を載せたのを、谷沢永一から藤井貞和とともに批判されたこともあったというが、当人は藤井「じょうわ」と音読みして言っていた。私はその時、つい「(藤井貞和と一緒なら)いいじゃないですか」と言ってしまい、いやこれはまずいことを言ったかな、と思ったのを覚えている。

 そういえば筑摩書房の社長だった山野浩一さんは『もてない男』の担当編集者だが、百川さんと一緒に針治療を受けたことがあると言っていた。

小谷野敦

村山由佳『PRIZE』書評補遺

 村山由佳の、直木賞を主題にした小説『PRIZE』の書評を『週刊読書人』に書いた。大変面白い小説だったが、二箇所疑問点があった。一つは作中人物の会話に出てくる川端康成の『雪国』に関する部分(185p)で、あの小説には島村という川端当人を思わせる男が越後湯沢の芸者駒子に久しぶりに会って、「この指だけが君を覚えていたよ」という嫌らしい場面がある。これは指が膣内の感覚を覚えていたという意味だが、村山はそこを記憶違いしたらしく、ほかの女の匂いのことを書いている、と発言させているのだが、匂いとは一言も書かれていない。

 

 

吉村昭『法師蝉』

 私は吉村昭のファンだが、あまりに著書数が多いので、まだ全部は読み切れない。2018年の夏ごろ、図書館から借りてきて大分読んだつもりだが、まだまだである。今回は短編集『法師蝉』を読んだ。1993年7月、新潮社の刊行で、のち文庫になり、森まゆみが解説を書いている。

 新潮文庫は昔から、初出を書かない。解説の中で初出が記されることもあるが、これにはなかった。なので調べた。

「海猫」『文藝春秋』1989年1月

チロリアンハット」『新潮』同

「手鏡」『新潮』1990年1月

「幻」『新潮』1991年1月

「秋の旅」『新潮』1992年1月

「或る町の出来事」『小説新潮』1992年1月

「果実の女」『小説新潮』1992年9月

「法師蝉」『文學界』1992年11月

「銀狐」『新潮』1993年1月

 今でも少し名残はあるが、昔は文藝雑誌の一月号は大御所作家の顔見世みたいに短編がずらりと並んだものだ。吉村も89年から93年まで、62歳から66歳まで『新潮』一月号に載せた短編を中心にしているが、総題「法師蝉」を『文學界』掲載のものからとったのは、単にこの題名がいいからだろう。文藝誌に載ったのと、中間小説誌『小説新潮』に載ったもので違いがあるかというと、確かに中間小説誌のほうが派手めな事件が起きてはいるが、さして違わない。

 この短編集の主人公は、みな定年を迎えた男で、人生が空虚に感じられたりしており、「秋の旅」などは、昔、歌舞伎役者の市川團蔵が86歳で引退したあと、小豆島からの船から入水自殺した宿屋を一人で訪ねているから、この人も入水するんじゃないかと思った。

 若い頃の結核や戦後の様子など、吉村自身をモデルにしているものもあるが、現在の職業は違っている。最後の「銀狐」だけは、主人公が和船研究をしている大学教授なので、まだ定年になっていない。当時は東大の定年が60歳、私立大は65か70歳だった。

 しかし吉村自身は、当時はまだまだ人気作家で、『吉村昭自選作品集』全15巻が新潮社から出ているし、『桜田門外ノ変』なども書いている。つまり吉村自身には、もちろん体の衰えは感じられたとしても、普通の勤め人のように、ぽっかりと空白になったりはしていない。その、安全な地点から同年輩の普通の男たちを描いているという、ちょっと嫌な感じも、この短編集にはある。

 しかし作家といっても、吉村はえらく精力的な人気作家だからそうなので、作家でも年をとったら小説が出してもらえなくなり索漠たる「定年後」になってしまう人もいる。そういう意味でもちょっと嫌味である。

小谷野敦

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