先週読んだ、「眠いと思うから眠いんです。眠いと認めなければ、いくらでも時間がうまれてきます。」という文章がなかなか忘れられず、以下のようにはてなブックマークを書いた後も反芻してしまっていた。
これは、恐ろしく、深く、重要なお話だと思いました。 できる人は限られているし万人に勧められるわけがない、生存バイアスな話でもある。でもできる人はやってのけるでしょう。 / “眠いと思うから眠いんです。眠いと認めなければ、いくらでも時間がうまれてきます。” https://t.co/03b8sP1lvq
— p_shirokuma(熊代亨) (@twit_shirokuma) 2025年2月19日
あんまり反芻してしまうものだから、上のコメントにおさまりきらなかった気持ちまで書いてしまいたい。
睡眠時間を削ってもてなす人物談に、複数の「恐ろしさ」を感じる
くだんの文章には、風邪を風邪とも思わないような商売人や、身体を削って人をもてなし、圧倒的信頼を獲得する士官が登場する。そうした人物が架空とは思えない。私もそういう人々に出会ったことがあるからだ。
そうした人々を見た時、私は複数の「恐ろしさ」を感じずにいられない。
「恐ろしい」と思うことその1。
まず世の中に、そういう異常に頑丈な人間が存在するということ。
遭遇率は低いが、世の中には、とてつもなくバイタリティがあり免疫力にも優れているらしく、精力的な活動を続けている人物がいる。彼らは絶えず仕事や事業や研究に邁進している様子で、いつ休養を取っているのか傍目にはわからない。が、そうした人々は休養を挟むのが上手いのだろう。そういう人たちの内実は「まったく休んでいない人」ではなく「普通の人があまり休めない時間や場所でも休める素養のある人」だと私は踏んでいる。前にも書いたことがあるが、ロケバスで熟睡できること、研究室の硬い床の上でもしっかり休めることはそうした才能のうちだ。だから、
新幹線で寝ずに仕事ができる人類全員尊敬してしまう、本当に新幹線や長時間バスで寝ずに乗れた試しがありません……こんなに新幹線乗ってるのに……🚅
— 三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』 (@m3_myk) 2025年2月21日
三宅香帆さんのこのXの投稿は、短所というより長所だと思う。新書大賞を受賞し、現在、殺人的にお忙しいはずの三宅さんを支えているのは「新幹線や長距離バスで寝てしまえる→多少なりとも回復できる」能力だと思う。うらやましい! もっとも、あれだけ忙しければそれでも不十分かもしれないから、ご自愛下さいと思わずにいられない。
「恐ろしい」と思うことその2。
世の中には、とてつもなくバイタリティがあり免疫力にも優れているらしく、精力的な活動を続けている……ようにみえるがそうではない人物もいる。表向きはその1の人と変わらない。昼間は猛烈に活動し、夜も繁華街で飲み歩いたり猛勉強していたりする。
ところが、そういう人が突然死んでしまったり病気に倒れたりすることは珍しくない。たとえばメディア業界で大車輪の活躍をみせていた人がついに倒れた。倒れてみると、やれ狭心症だ、やれ脳梗塞だと、身体の内側がボロボロになっていたりする。医療に従事していると、この、「ある時期までは無敵の体力のように見えて、実際には健康が損なわれていた」人に結構出会う。あるいは20~30代の頃のライフスタイルを中年になっても続けようとして続けられず、それが身体だけでなく精神的・アイデンティティ的にも耐えきれなくなってしまう人にも時々出会う。
ということはだ、その1の人間とその2の人間を区別するのは本当は簡単じゃないのだ。もちろん後知恵ではなんとでも言える。だが高齢になるまで派手に活躍し続けてきた人のその活動には再現性は乏しく、すべては生存バイアスでしかない……のかもしれない。
それでも、本当に異常に頑丈な人間か、見かけ上は頑丈でも命を削っている人間かを区別するヒントは存在する。それは睡眠時間や血圧や食生活などを確認し、健診のたぐいを受けてみることだ。本当に異常に頑丈な人間は、常軌を逸した活動をしているようにみえても高血圧や高血糖といった問題が表面化することがまずない。逆に、見せかけだけ頑丈な人間は健診であちこち引っかかり、医師からライフスタイルや食生活の見直しを迫られていることが多い。というより、見せかけだけ頑丈な人間はしばしば健診をきちんと受けず、自分自身の健康に目をつむっていることがままある。
月並みな提言で恐縮だが、人並み以上に働いている人や活躍している人こそ、自分自身の健康をよくモニタリングし、心身に無理が生じていないか見張っておくべきなのだと思う。もし、データ的に悪化の兆しがあるなら「自分は異常に頑丈な人間ではなかった」と認めたうえで、命を削っているであろう現在のライフスタイルやワークスタイルを見直したほうがきっといい。
世の中には、身体を潰してでも勝負してくる人間がいる
だが私が一番「恐ろしい」と感じるのは、その1・その2で挙げたような人々が世の中にはウヨウヨしていること、そして競争相手として立ちはだかるかもしれないことだ。
今日では厚労省が「働き方改革」を主導している。この制度改革のおかげで、一般的な労働者が過労死してしまうリスクはたぶん減っているだろう。
でも、それは一般的な賃金労働者の話、それも、終業後に働いたり勉強したりしない人々の話でしかない。賃金労働だけですべてが完結する人は「働き方改革」で過労死しなくなったかもしれないが、そうでない働き方や生き方をしている人にはあまり関係のない話だ。
世の中には、管理職や経営者と定義される立場の人もいる。管理職や経営者は、「働き方改革」におさまらない部分がある。でもって、本当に激しく競争しているのは彼らだ。彼らの労働には際限がなく、彼らはしばしば人に会わなければならない立場にもある。管理職や経営者にとって、異常に頑丈な身体は天性の素養というほかない。頑丈さによってもたらされる豊富な手持ち時間を仕事や会合やアップデートに割り当ててくる人に打ち勝つことは、凡夫に可能だろうか?
頑丈さが見せかけだけの、本当は命を削って働いている人々だって十分に恐ろしい。長いスパンでみれば、本当は命を削って働いている人はいずれ健康を損ねて退場するだろう。だけどその時が明日なのか、1年後なのか、10年後なのかは誰にもわからない。命を削っているようにみえて、実は、本当に頑丈な人間なのかもしれないのだ。
健診の結果などを知らない部外者からすれば、目の前で異常なほど働いている管理職や経営者がその1に該当するのか、その2に該当するのかは区別がしづらい。よしんば区別がつけられ、「ああ、この人はじきに健康を損ねて退場するな」と推測できたとしても、彼/彼女が実際に退場するまでは手強いライバルのままだ。短期的にみるなら、そのような働き方ができる人を相手取って競争し、打ち勝つのはやっぱり大変だと思う。
で、そういうのは管理職や経営者だけじゃない。
動画配信する者、小説を書く者、漫画を描く者、等々の創作活動をする者はみんな、どれだけ創作に打ち込めるのか、どれだけインプットしアウトプットできるのか、どれだけ資料集めや研究に時間と体力を費やせるのかが切実に問われている。もちろん、素養の高低や要領の良しあし、AIやウェブや図書館を活用できる度合いも問われるだろう。だが、第一に問われるのはバイタリティ、そして集中力の保たれた状態で活動できる時間だ。体力は、活動時間だけでなく活動のクオリティにも直結する。創作そのものだけでなく、(たとえば編集者のような)アウトプットに際してコミュニケートしなければならない人とのコミュニケーションの質をも左右するだろう。
その1(異常に頑丈な人間)や、その2(本当は命を削って働いている人間)に該当する人は、ライバルたちよりもずっと活動限界が遠く、長く・集中して活動できるのだ! 最強じゃないか! と思わずにいられない。
実際の創作者や表現者の寿命をみていると、その1に該当している人はそれほどおらず、実際には心身を削りながら創作に打ち込んでいる人の割合が多いように思う。ぶっちゃけると、その1とその2の境界なんて本当は誰にもわからないし、くっきりと区別できるものでもない。創作する者は皆、多かれ少なかれ心身を削っているだろうし逆にどこか頑丈でもあるのだろう。が、中期的であれ長期的であれ、人並み外れた頑丈さと人並み外れた活動量を発揮できる創作者は、そうでない創作者にはできないことをやってのける。創作活動に人並外れた時間と体力と集中力を投下し続けられる人は、ちょっとぐらいの素養の差ぐらい、インプットやアウトプットの物量で圧倒してしまう。
そういう人々と互角に戦えるか?
だから私にとって、冒頭リンク先の商売人や自衛官の話は「不健康だな」という印象よりも、「でもうらやましいよね」という思いと「こういう人間をライバルとしなければならない戦場は過酷だ」という印象が勝る。
昭和時代に比べて、トータルの労働時間が短くなったとされていて、統計的には管理職などでも労働時間は減っているとされている。また退勤後に業務について勉強したらそれは労働時間の一部だ、という声も聞こえる。それらを字句どおりに受け止めるなら、日本社会では労働者同士の過当競争はなくなった……ように聞こえる。
しかし現実はそうではないと思う。まったく、そうではない。管理職や経営者のような立場の人もいるし、創作活動については時間制限は無い。体力や精神力に抜きんでた人・自分の命を削っている人はげんに存在する。そうした、異常に働いたり創作したりする人々の寿命があと1年なのか、10年なのか、50年なのかは誰にもわからない。わからないが、とにかくそういう人々が存在し、そういう人々と戦わなければならないフィールドがあるのは事実である。そして、そうした人々の仕事や創作への熱意を「働き方改革」のように画一的に制限することはたぶんできないだろう。
異常に頑丈な人間と、実際には命を削って異様に活動している人間は、これからも世にはばかるだろう。というより、世の中のある部分は彼/彼女らの異常な活躍や活動に支えられている。そういう、命の蝋燭の太い人間や命の蝋燭を盛んに燃焼させてくる人々と同じフィールドで戦わなければならないことを思うたびに、私は戦慄する。