「たとえば、全宇宙が1個のバケツだと考えてみたらどうだろう?」
「猫のかわりに人間を入れてみたらどうだろう?」
空間、重力、量子、確率……
目に見えず、手でも触れない未知のものに囲まれている人類は
とりあえずどこかに歩きはじめるため思考実験によってその正体の見当をつけてきた
思考実験とは
自然を拷問にかけ、極限まで追い込んで隠れた真理を「白状」させる行為だ。
仮説をどう立てるかも、設定をどう変えるかも、頭の中では自由自在。
だから思考実験は奇想天外で面白い。
人生の岐路でも役に立つその手法を思考実験の「名作」を通して学ぼう
*本記事は、工学博士でありながら家業の旅館の経営者(現在は旅館の経営は引退)という異色のキャリアをお持ちの榛葉豊氏の著書『思考実験 科学が生まれるとき』(講談社ブルーバックス)を抜粋、編集したものです。
トロッコ問題
ここまで紹介してきた思考実験はおもに、ある原理や法則が本当に成り立つかどうかを検討するものでした。しかし、そのように一つの原理や法則を突きつめていくのではなく、複数ある考え方を俎上にのせて大局的に比較し、判断や解釈をするための思考実験もよくみられます。
たとえばある問題について、人にはどのような判断基準がありうるのか、複数の並立する基準を挙げて、それらの関係を明らかにしていくことで判断基準の本質を浮き彫りにする、といった思考実験で、倫理学、社会心理学、政治学、公衆衛生学、因果と責任……など、いわゆる文系的な分野に多くみられるタイプです。
哲学者のフィリッパ・ルース・フット(1920~2010)が1967年に提出した「トロッコ問題」(あるいは「トロリー問題」とも)は、その典型として有名です。
"突進しているブレーキの利かないトロッコの前方に、5人の線路作業員がいる。このままでは、5人は轢(ひ)き殺されてしまう。しかし、それを見ているあなたの目の前には分岐ポイントがあって、それを切り替えればトロッコは引き込み線に導かれ、5人は助かる。だがそうすると、引き込み線にいる一人の作業員は死んでしまう。この状況にあなたがいるとしたら、5人を助けるためにポイントを切り替えるだろうか? それとも、何もしないでいるだろうか?"
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一人の命につき1の価値を与える、いわゆる「幸福算術」によって幸福を計量して代数和を求め、それを最大化するよう行動すべきであるというイギリスの哲学者ジェレミー・ベンサム(1748~1832)に始まる「功利主義」について考える思考実験です。
【仮説】
"功利主義は正しい。"
【仮説からの演繹】
"より多くの人が助かる選択をすべきである。"
【操作法的な演繹】
"ポイントを切り替えるのはためらわれる。"
【結論】
"功利主義が採用されるべきかどうかは、状況によって、また個人によって異なる。"
「功利主義」という原理にしたがうならば、ポイントを切り替えるべきでしょう。しかし、この原理だけでは判断できない状況は、さまざまに考えられます。
たとえば、かわりに犠牲になる一人が、5人のように線路の作業をすることで収入を得ている線路作業員ではなく、たまたま線路にいただけだったらどうでしょうか。あなたの判断で、ことさらに死ぬ人々を変更する必要があるのか。あなたにそのようなことをする資格があるのか。放置すれば5人ではなく、10人が死ぬとしたらどうだろうか。考えていくと、いろいろなほかの基準とバッティングしてきそうです。