三井高明
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(三井養之助から転送)
三井 高明(みつい たかあき、1856年4月26日(安政3年3月22日) - 1921年(大正10年)8月8日)は、日本の実業家。大蔵少輔、三井物産社長、東神倉庫社長などを務めた。別名に養之助、宗明、不二斎。三井の本村町家初代[1]。
人物・経歴
[編集]京都出身。三井高喜の三男。1872年大蔵少輔[2][3][4]。1876年三井物産社主[5]。1877年本村町家初代当主[2][3][4]。1878年には深川亮蔵、渋沢栄一、三井高尚、益田孝、三野村利助、小室信夫、木村正幹、小松彰、福地源一郎、渋沢喜作とともに東京株式取引所の創立にあたった[6][7]。1893年三井物産社長[4][2][3]。1898年三井銀行監査役[8]。1902年鐘淵紡績会長[9]。1915年東神倉庫社長[10]。1920年三井物産社長[11]。
親族
[編集]- 曽祖父・三井高業(1747-1799) - 三井家南家第4代当主で、浄瑠璃作者、狂歌師の紀上太郎(狂名は仙果亭嘉栗)。50歳のとき三井家内紛の罪をかぶり、江戸重追放となった。別名に長次郎,八五郎,次郎右衛門,家原長次郎,公勤,仙果亭,由甲斎,和春,三津環。[12][13]
- 祖父・三井高英(1767-1847) - 高業の長男(庶子)で三井家南家第5代当主、俳人。別名に三井嘉菊、三井次郎右衛門、仙渓亭、陶白居、後楽園、宗雅,長五郎,次郎右衛門,清蔵,信三郎,八郎次郎,八郎兵衛,伯又,四明居,駿雅,處月庵,松月庵,僊溪,家原政尚。「けしの花」など多くの地歌の作詞を手掛けた。[14][13]
- 父・三井高喜(1823-1894) - 三井高英の8男。小石川三井家6代当主・三井高益(1800-1858)の養子となり、家督を継いで小石川三井家7代当主となり、京都両替店の代表名三郎助を襲名。28歳のときに、2歳の広岡浅子(養父高益の庶子)を義妹として入籍、浅子の妹・春を養女として入籍した。維新期には三井高福(三井八郎右衛門13代)に協力して新政府側の軍資金を調達、1876年の三井銀行創業時に重役となり、1885年総長となる。別名に宗喜,八十助,樹徳堂。[15][13]
- 兄・三井高景(1850-1912) - 小石川三井家7代当主で、三郎助を襲名。三井鉱山社長。前妻の益子は高益の娘、後妻のステは大阪の両替商・高木五兵衛の娘で広岡浅子夫妻の養女。子に高修、高達など。別名に宗景,弁蔵,出雲斎,敬々斎。[16][17][18][19][13]
- 妻・エイ(1870年生) - 外山平七郎の三女[22]
脚注
[編集]- ^ 三井高明コトバンク
- ^ a b c 「三井高明(読み)みつい たかあき」デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
- ^ a b c 「三井養之助 (男性)」人事興信録第4版 [大正4(1915)年1月](名古屋大学)
- ^ a b c 「三井 高明(読み)ミツイ タカアキラ」20世紀日本人名事典の解説
- ^ 「旧三井物産の創立」三井広報委員会
- ^ 東証Arrows見学日本取引所グループ
- ^ 東京証券取引所『東京証券取引所20年史』(1974.04)渋沢社史データベース
- ^ 「(株)三井銀行『三井銀行五十年史』(1926.09)」渋沢社史データベース
- ^ 鐘紡(株)『鐘紡百年史』(1988.10)渋沢社史データベース
- ^ 「三井倉庫(株)『三井倉庫五十年史』(1961.03)」渋沢社史データベース
- ^ 「三井物産(株)『挑戦と創造 : 三井物産一〇〇年のあゆみ』(1976.07)」渋沢社史データベース
- ^ 紀上太郎(読み)きの じょうたろうコトバンク
- ^ 三井嘉菊(読み)みつい かきくコトバンク
- ^ 三井高喜コトバンク
- ^ a b c d 三井高修『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
- ^ 広岡浅子家系図近現代系図ワールド
- ^ 会社案内株式会社平野屋
- ^ 宮本又郎「明治初期の企業と企業家:-蓬莱社の場合-」『経営史学』第4巻第3号、経営史学会、1969年、85-107頁、doi:10.5029/bhsj.4.85、ISSN 0386-9113、NAID 130001595019。
- ^ 三井家(三井小石川家)みんなの系図
- ^ 帝国生命保険(株)『帝国生命保険株式会社五十年史』(1939.10)渋沢社史データベース
- ^ a b c d e f 三井辨藏『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
- ^ 拾た槌が出世の基 槌屋の屋号も茲に発す=老舗中の老舗たる田中四郎左衛門商店万朝報 1919.5.10
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