話題になった宝塚歌劇・月組公演・ロマン・トラジック『桜嵐記』は、南北朝時代に活躍した楠木正成の3人の息子たちの物語だ。実は、兵庫県加西市に南帝御首塚があるというが、それはどういうものだろうか? この話には、嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱で、いったん滅亡した播磨などの守護赤松氏の旧臣も大いに関わっている点に注意したい。 ■「南帝御首塚」とは? 現在の兵庫県加西市中野町には、浄土宗寺院の清慶寺がある。この寺には、「南帝御首塚」として伝わる墓が存在する。それはどういうものなのだろうか。 首塚の碑文を見ると、「後醍醐天皇御曾孫 仁尊親王御陵 吉野御所奉禰南帝」と記されている。残念なことに、仁尊親王については不明である。 近世に成立した『嘉吉軍記』(赤松氏が滅亡した嘉吉の乱を描いた軍記物語)には、次のように伝えられている(要約)。 南帝の首を播磨に持ち帰った河合茂賢は、庭にしばらく首を掛け置いていた
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