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幅広く使われる「ケア」をどうとらえる?向坂くじらさん、吉田真一さんと考える | こここ

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【イラスト】ある人の部屋。その窓が合わせ鏡のように描かれており、さまざまな時間での、部屋の中の様子が描かれている。そこにはもう一人の登場人物の手が常に存在している【イラスト】ある人の部屋。その窓が合わせ鏡のように描かれており、さまざまな時間での、部屋の中の様子が描かれている。そこにはもう一人の登場人物の手が常に存在している

幅広く使われる「ケア」をどうとらえる?向坂くじらさん、吉田真一さんと考える “自分らしく生きる”を支えるしごと vol.24

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SNSをはじめさまざまな場所で、「セルフケア」の文字を見かけるようになった。暖かいお風呂に入ってみたり、心地よい香りに包まれてみたり、それらに書かれたことを試し、自分なりに心身をケアしてみる。たしかに効果はある。

一方で、自分一人でできる範囲は限られているとも思う。だからこそ、身近な人に支えてもらったり、支えたりすることが発生するのだろうし、専門的な知識や経験を持つ人によるケアも存在するのだろう。

そもそも「ケア」とは、なんなのだろうか。

おそらく答えがないだろう「ケア」について、訪問介護事業所を運営する株式会社でぃぐにてぃ代表の吉田真一さんと、詩人であり、国語教室ことぱ舎を運営する向坂くじらさんに伺った。

「ケア」をどうとらえていますか?

── いまの社会において、ケアの視点を持つ大切さが多く語られるようになりました。一方で「ケア」という言葉の使われ方によっては、本来、公的機関が積極的に取り組むべき問題や役割も、都合よく個人間のケアに押し付けられてしまう可能性もあるのではないかと感じています。

ケアという言葉から連想するものや距離感も人それぞれだからこそ、「ケアとはなにか」おふたりと考えてみたいです。

吉田真一さん(以下、吉田):よろしくお願いします。そうですね……。私にとってケアは「日常」なんです。毎日のこと。

私は19歳のときに頸髄損傷で四肢麻痺になり、電動車椅子を使いながら生活しています。ちょうど今日の朝もケアを受けてきましたし、帰宅したらトイレとお風呂のケアを受ける予定です。加えて、仕事も訪問介護事業所を運営していまして、今事務所にいるんですけど、まさにスタッフたちがケアをしに出かけたり、帰ってきたりしているところです。

障害を負っている当事者として受けるケアと、訪問介護事業所として提供するケアは、それぞれ違う側面があるんですが、日々の暮らしに深く関わっている事象、自分の人生と切っても切り離せないものだと思っています。

──このまま吉田さんの話を伺いたい気持ちもあるのですが、その前に、向坂さんにも今回の取材テーマをどう思ったのかお聞きしたいです。

向坂くじらさん(以下、向坂):わたし、学生の頃にグリーフケアの勉強をしていたんですけど、最近はケアについて勉強していたことを外に出すのを差し控えているんです。

それは、当時と比べて、ケアという言葉が使いづらくなっているなと思っていて。「ケア」をテーマにメディアで特集が組まれたり、誰かと話していても「ケア」という言葉が出てきたり、日常でよく見かけるようになって、単に「ケア」という言葉を使うときにはないような、意図しない文脈やいろんな人の思惑が、自分の預かり知らぬところで言葉にのってしまいやすい状態な気がしています。「ああ、流行っているアレのことね」と思われちゃうのがこわいというか。

吉田:「ケア」ってもともと広い言葉だと思うのですが、向坂さんは、どういうふうにとらえていますか?

向坂:そうですね、ケアは「弱さを頼りにして関係すること」なのかなと思っています。以前勉強していたことだったり、読んでいた本の内容をわたしなりの言葉にしたものなんですけど。

「いずれ<死んでしまう存在>どうしであるがゆえに、適切な聞き手になれる」というものに納得していて。これは、ナラティヴ・アプローチを研究されている宮坂道夫さんの『対話と承認のケア』という本にあった言葉です。

──ケアする側とされる側が同じ地平に立つための要件として、「人間の弱さ(vulnerabilitiy)」があるのではないかという仮説が書かれた章にある言葉ですね。

吉田:おもしろいですね。ちょうど先日、弱さでつながれることってあると感じた出来事がありまして。

千葉県の多古町で開催された「ナイスクロー大会」というイベントに誘われて参加してきたんですよ。どういうイベントかというと、多古町の商店街の人や住民、障害のある人などとにかくいろんな人が集まって、順番に苦労話をするんです。「入った会社が倒産してしまった」「友達から嫌われてしまった」とか。話者が話し終わったあと、周りのみんなで「ナイス苦労!」と声をかけるっていう。

なかには、ふつうに聞くとヘビーな話も出てくるんですよ。それこそ「離婚してしまった」とか。参加者のほとんどが初対面の人なのに、なぜかそういった話が出てくるのが興味深いなと思っていて。そのあとの交流でも「会社が倒産してしまった〇〇さんですよね」とお互いの弱みを知ってるからか、すごく話しやすかった。弱さを開くことが関係性のスタートになるアプローチが面白くて新鮮だなと。

向坂:なんか、人が経験していることや人生の中で起こっていることを聞くって、それだけでおもしろいものですよね。

わたし、詩の朗読のために一時期、不特定多数の方から思い出話の収集を趣味でやっていたことがあります。「なんでもいいから思い出を聞かせてほしい」とSNSで募集して、実際に話を聞いて録音して、その書き起こしをライブで朗読するパフォーマンスをしていました。そのとき聞かせてもらった話は、亡くなってしまった家族の話だったり、自傷行為のある友達と一晩ラブホテルに行った話だったり、痛みの混じった話であることが多かったんですよ。

わたしのしていたことはケアではなかったと思うし、当時自分でもケアをやるつもりは毛頭なかった。どこかにいた人が話したことを、わたしの声を通して出すことをやってみたかっただけで。その、ある種不純な動機をもつわたしに、そういう話をしてくれるのは不思議なものだなと無責任に思っていましたね。

吉田:なんていうか、弱さが心の中で澱のように溜まっている人が多いのかもしれないですね。「弱みを吐き出したい」と無意識に思っているのかもしれないというか。

経験上、「なぜ車椅子生活になったのか」「どうして障害のある身体になったのか」という私の話を、重くてセンシティブに受け止める人が多くて。私と相性の良い介護職は、何気ない話の1つとして「どうやって怪我されたんですか?」と聞いてくださる方もいて。相手はケアのための情報として知っておきたかっただけかもしれないけど、私にとっては話せたことがケアになってしまったというか。

向坂:「ケアになる」っておもしろいですね。「ケア」を「する」という語のつながりにピンときていないところがあって、「ケアになる」のほうが実態に近い感じがします。

関わりの中で暗に伝わる“見立て”に傷つく

向坂:ケアは「日常」と話していましたが、これはケアではないなと感じることはありますか?

吉田:あくまで自分に引き寄せた話なんですけど。

以前買い物同行をしてもらったときに、スーパーマーケットに行ったんです。そのお店は有人レジが1つあって、他は全部セルフレジ。それで、お会計のタイミングのときに同行者がスッと有人レジに向かったんですよ。彼としては良かれと思って有人レジに並んでくれたんですけど、私はキャッシュレスでピッと済ませたかったからセルフレジがよかった。

別の日は、魚を食べたくて、その準備をお願いしたときに、想像していたよりも小さく刻まれてしまったことがあって。「小さく刻んだ方がきっと食べやすい」という配慮があったはずなんですが、私は大きなものを一口で食べたいって願望があった。それゆえに、ケアでなくなってしまった感覚がありましたね。過剰な配慮によってケアから遠ざかってしまうことはあると思っていて。

あまり好きな言葉ではないですけど、私は「健常者」から、「障害者」とか「社会的弱者」に人生の途中でなりました。途端に、周囲からすごく配慮されるようになり、そのことを重たく感じる時期もありました。

向坂:吉田さんにとって、受け取りがたいケアがある?

吉田:そうですね。そんなにもらわなくても大丈夫ですっていう。

向坂:そうすると、ケアではなくなるってことなんですか?

吉田:魚の例は、オーバーケアっていうんですかね。食べやすくしてくれたかもしれないけれど、私の心にはなにかダメージが残っている。意図せずケアの範疇を超えてしまうという……。つまり、介在するはずの私の意思が、ないがしろにされたと感じるんです。

向坂:わたしは、発達障害でADD(※注意欠陥障害)とASD(自閉スペクトラム症)があって、そのうえ喘息持ちなんです。喘息なので毎朝吸入器を使って薬を吸引しないといけないけど、ADDのもっている特性と非常に相性が悪くて。

※2025年2月時点、『DSM(精神障害の診断と統計マニュアル)』の改訂後、ADDはADHDという診断名に変更されている

「毎日同じことを忘れずにする」「吸入器をなくさないように保持しておく」ということがわたしには難しいんです。毎朝となると、旅行にも持っていかなきゃいけない、でもなくしちゃう。

そんなわたしを見兼ねた夫が、「吸入器はここに置こう」と家での置き場所を決めてくれたんですね。「君は決められたことはできるから、それをやっていこうね」と、置き場所を制定してくれた。だけど、それもあんまりできない……時にはできないわけです(笑)。

夫がなにかわたしに対して気遣いをしてくれたとき、「あなたをこういうふうに思っています」という“見立て”が伝わってくるじゃないですか。それに若干傷つくし、でもその心遣いを無下にしたくない気持ちもある。だけど、吸入器は同じ場所に戻るわけではない、みたいな。

何が言いたいのかというと、先ほどの吉田さんの話も、ケアの関係になるときに発生する“見立て”があって、暗に伝わってくるものに心が揺さぶられたりすることがあるんやないかなと思いました。 あくまでわたしの場合は、相手が夫で、基本的には、気持ちを受け取りたいとかいい関係で居続けたいという前提があるのでケースが違うかもしれないですが。

吉田:お話伺ってて、私がケアととらえるものって結構自分本位なのかもしれないと気づきました。私の役に立てばケアで、そうでないものはケアではない。ありがとうの矛先が「してくれて、ありがとう」ではなく「私のためになってくれてありがとう」みたいなところがあって。

ケアされると思ったことが言えなくなる?

向坂:わたしは「ケア」という言葉自体にプラス・マイナスのニュアンスを込めていなくて、ただケア的な関わり合いが、成功したり失敗したりすることがあるものだと思っているんですけど。

ただ家庭内だと、またちょっとややこしいというか。夫から障害のことについて面倒見てもらうのを、わたしはよろしいものばかりだとはとらえていないんですよね。夫を“ケアする人”にしてはいかんなと思っていて。

吉田:私の家も、結婚当初は「夫婦2人の時間を過ごそう」という話し合いのもと、週に数日はヘルパーさんを呼ばずに妻にケアをしてもらっていた時期がありました。だけど一緒に暮らしていたら、当然、喧嘩というか小競り合いがあるわけです。で、小競り合いで終わればいいんですけど、あるとき大競り合いになったときがありました。夜、私がベッドに横になるには介助が必要で、でも怒っている状態の妻がいて。私はどうしたってケアしてもらわないといけないから、「お願いします」と言って介助をしてもらいました。

そのことがあって、「これは良くないね」とお互い話したんです。妻から「あなたのケアをするがゆえに思ったことが言えなくなってしまって、喧嘩もできなくなってしまう」と言われましたし、私も言い返したいけど「ケアしてもらうから」と遠慮して、言いたいことを言えないストレスを抱えることになる。であれば、訪問介護の専門職に入ってもらって、夫婦としての関係を維持していこうとなって、今がある。

もし、その判断をしていなかったら結構危うかったと思うんですよね。「ふたりで過ごす時間を大切にしたかったから、ふたりはバラバラに成り果てましたとさ」と。

大切な人にケアしてもらわないほうが、私の人生にとってケアになったというか。ケアを他者に委ねることで、家族全体がケアされたと言えるかもしれないです。

向坂:ケアは基本的にはする側とされる側がいて、不均衡な関係なんだと思うんです。対等がベースにあるものではない。そのカウンターとしてケアの関係が対等であることが注目されているけれど、本来ケアが持っているであろう不均衡性を、見て見ぬフリしてはいかんなと思いますね。

── 親と子、教師と生徒、医療従事者と患者、介護職と利用者など、担う役割や必要とするケアがあり、それゆえに立場が固定される。またケアする側の方が、その役割から降りる選択をしやすい。実際には、もっと複雑に絡み合っているとは思うのですが、ケアする側がもてている権力性については、忘れてはいけないような気がしています。

「対等な関係を望むこと」と、「ケアが必要である」は矛盾する

吉田:訪問介護事業所を運営していて、いろんな人の話を聞くと家族介護の難しさを感じるんです。

認知症の症状がある方や、介護を必要としている方を受け入れられないのは、実は一番近くにいる方であることが多いんですよ。たとえば息子さんだったり、娘さんだったり、配偶者だったり。

それはやっぱり、「健常で元気だった」ときの姿を知っていて、近くにいる人が望む「あってほしい姿」があるから受け入れがたい。だけど、でぃぐにてぃで働くスタッフたちは、仕事として今の「お客様」と出会う。

その中で、お客様への介助はもちろん、身近にいる人の支援もやっていかねばと思っていて。頼まれているわけではないけど、そうしないとお客様が過ごしている環境が改善されないという認識でいるからです。でもこれがケアなのか、どこまでしていいのか、しない方がいいのか常に悩みながらやっています。

──ここまで、身近な人同士で行われるケアの話と、職業として行うケアの話などさまざまな視点が交差しながらお話いただいたと思います。「ケア」を考えるうえで、専門的な知識や技術を持つ職業としてのケアのあり方と、そうではないケアの違いを知っておくことも重要な気がしているのですが、そのあたりはどう考えていますか?

吉田:どうなんでしょうね。たしかに、家族や身近な人が行うケアと、介護の専門職が行うケアは立場も目的も、具体的な行為としても異なります。でも、どれも「ケア」と呼ばれている。

私自身は分けて考える必要性はあまり感じていないんですけど、家族や身近な人だからできることと、専門的な知識や技術があるからできることの棲み分けができている方がうまくいくことは多い気がします。

ご本人のこれまでを知っているのは、やっぱり本人であり、身近にいる人。でも今のご本人の状態によっては、身近な人のケアが届かない場合がある。それをどう伝えるかは、繊細さが必要で難しいところなんですけど。

向坂:門外漢として、もっと多くの人が専門的なケアを受けてみたらいいのになと思いますね。介護もそうですし、発達障害にしても、精神的な疾患にしても、地域の福祉とつながるとか。

先ほども話しましたが、親しい関係だからできないケアは多いような気がしていて。ケアの関係ってやっぱり対等ではないと思うので、「対等な関係を望むこと」と、「ケアが必要である」って、喰い合うような、矛盾し合うような。ケアの関係の中に適切な尊重はもちろんあるはずなんですが、それとは別の話で。

だから、それらを一つの関係の中で両立させようとしなくていいんじゃないか。もっと専門家を頼ったらいいって思いますし、仕事の中でもそういう話をしたりします。

「理想は介護がいらない社会」への違和感

吉田:思い出したことがあって。

介護の業界にいると、時折「私の理想は介護がいらない社会だ」と掲げている方にお会いするんですよね。

おそらく、地域・社会全体が親切心にあふれ、特定の職種や人が介護しなくても、ケアを必要とする人、障害のある人や認知症の症状がある人が不自由なく暮らしていける社会であった方がいい、という意味だとは思うんです。

だけどそれを聞いたときに、当事者である私は「介護を受ける立場の人がいないほうがいい」と言われている気がしてしまって。私にとって介護は日々必要で、なくてはならないもの。それを「なくてもいい」と言われるのは、めっちゃきついこと言われてるな……うん、きつい言葉なんですよ。だけど、相手に悪意があるようにも見えないから、なんだこれって。ずっと引っかかってるんです。

向坂:ありとあらゆる痛みがないほうが良いっていう前提がありそうですよね。

吉田:そう、そうなんですよ。なんというか……誰も痛まない社会が必要っていうことでもないじゃないですか。

向坂:それこそ、乱暴かもしれませんが「そっちだっていつか絶対死ぬくせに」って思っちゃいますよね。年齢を重ねれば確実に身体は老いて、痛む。その先には誰しも、死があるし。

吉田:うんうん。必ず老いるよねって。さも自分が老いないような、介護やケアをされる側になる前提が抜け落ちてしまっているというか。……あ、そうかもしれない。今すごくストンと腑におちました。それらが感じられないことが引っかかっていたんだろうな。

私から見ると、そう言っている方は私がいる場所から見て、川の対岸にいるんですよね。すごく近くに立っているように見えるんだけど、絶対私のいる岸には渡ってこない。どれだけ手を伸ばしても届かないように感じるというか。

向坂:きっと、介護のしごとに携わる中で、いろんな人の痛みに共感して、「こんな思いしないほうがいい」って考えることもあると思うんですよね。対峙する人のことを大事に思えば思うほど、その人の痛みを受け入れられなくなっていくことがあるわけじゃないですか。

でも、そうではなくて「痛みがある」ことを前提にして、どのようにケアが成り立つのかってことを考えてみたいと思っています。

最終的には「痛みはないほうがいいのか?」っていう問題になるような気がしていて。セルフケアの文脈も含め、いかにして弱さをなくすか、いかにして痛みを回避するかという方法論じゃなくて、弱さがある自分、痛みを抱えている自分とどう付き合っていけばいいかが必要なんやないかと。

吉田:弱っている、痛んでいる状態=すべて悪い、ってわけでもないですよね。

私は傍から見れば、弱っているし痛んでいる。だけど、人生すべての時間が不幸かと言われるとそうではない。不便だけど、不幸じゃないっていうのかな。その不便な点を誰かにケアしてもらうことは、思ったよりも楽しいよってことを伝えていきたい。

「セルフケア」には矛盾がはらんでいる

吉田:なんでしょうね、いまの社会は生老病死を忌み嫌っているような感覚があります。なるべく死に向き合わないようにしていて、なるべく人目のない場所にケアの場が追いやられ、ひっそりと行われるような。要するに、「死」が切り離された社会ですよね。

向坂:その視点は、すごく本質的な気がします。

教育におけるケアの倫理を体系的に論じた、教育学者のネル・ノディングズの本に「自己をケアすることの役割は、人生の諸段階と生および死の理解を深めること」と書いてあって。教育における健康管理の流れで出てくるんですけど、個人的にはしっくりきています。

自分を大切にすること、セルフケアをすることが、今あまりにも良いものとされすぎている気がして。キラキラしたものになっているというか。セルフケアの先にあるものが「自分の機嫌は自分でとって、明日もがんばって働いてくださいね」となるのが、わたしはやっぱり寂しい。ケアを通じて「自分が最終的には、死ぬ」みたいなことも含めた、もっと大きなものがつながっていくこともあるんやないかな。そういう意味で、教育者としては、「死」が無菌化されてしまわない教育をしたいなと思っています。

吉田:自分含めて、どんなにケアしても行き着く先は「死」ですもんね。どんなにケアしても死ぬぞっていう、その必然的な結末についてわかっていたほうが、生きる中でより良い選択ができる気がしますね。

結局、「セルフケア」も矛盾をはらんだ言葉なんですよ。どんなに自分を労わって大切にして、ケアしたとしても、死につながっている。そう思うと「ナイスクロー大会」のように、人が持つ弱さや痛み、死を露わにしても良いと思うんですけどね。ケアする人、ケアされる人が混じっている社会になったら。

向坂:本人はそうとは思っていないし、気がついていないけれど、実はケアを必要としている人もたくさんいると思います。身体のことに限らず、精神的な側面でも、いろんなケアの知識や技術に触れることで、暮らしやすく生きやすくなる人ってきっと多い気がします。

吉田:そうかもしれない。もうちょっと気軽に、専門的なケアに触れて良いと私も思います。たとえば、気が滅入ってしまうタイミングにカウンセリングを受けてみるとか。一人でご飯を食べるのは心もとないから、大人も行ける子ども食堂に行ってみようとか。

実は身近なところでケアの場が開かれているから、そこにアクセスできると良いですよね。

向坂:ほんとに。

わたしは地域のフリースクールで学習支援のお手伝いもしていて、そこのスタッフは多くが福祉関係者です。また、地域の医療機関と連携していて、医療的なケアを必要とする子どもはそこへつなげられるような仕組みを作っていて、それはいい取り組みだなあと思います。


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