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傅増湘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
傅増湘
プロフィール
出生: 1872年10月9日
同治11年9月初8日)
死去: 1949年10月20日
中華人民共和国北京市
出身地: 清の旗 四川省瀘州江安県
職業: 政治家・学者
各種表記
繁体字 傅增湘
簡体字 傅增湘
拼音 Fù Zēngxiāng
ラテン字 Fu tseng-hsiang
和名表記: ふ ぞうしょう
発音転記: フー ゾンシャン
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傅 増湘(ふ ぞうしょう)は清末民初の政治家・学者。北京政府の要人。沅叔潤叔。号は薑庵。晩号は蔵園老人蔵園居士

事績

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傅増湘別影
Who's Who in China 3rd ed. (1925)

1888年光緒14年)、挙人となる。1898年(光緒24年)、戊戌科進士となり、翰林院編輯の位を授かった。以後、貴州学政、直隷道員を歴任する。

日本へ教育事業の視察を行った後、直隷提学使に任じられた。1908年(光緒34年)、公立北京女子師範伝習所所長となる。同年10月、同伝習所総理となった。1911年宣統3年)6月、中央教育会議副会長に選任されている。

辛亥革命後、唐紹儀に随従して南北和平交渉のために上海へ赴いている。1914年民国3年)1月、北京政府約法会議議員となる。同年8月、粛政庁粛政使に転じた。

1917年(民国6年)12月、王士珍臨時内閣において教育総長として任用される。続く段祺瑞内閣、銭能訓内閣でも任用された。翌年10月には、大総統徐世昌の下で総統府顧問に招聘されている。1919年(民国8年)5月、教育総長を辞任した。

1922年(民国11年)5月、内外短債委員会会長に選任された。1927年(民国16年)10月、故宮博物院の管理委員会委員兼図書館館長に任じられている。1930年(民国19年)、清華大学研究院で教鞭をとる。

日中戦争(抗日戦争)勃発後は北平に留まり、積極的に親日政府への協力は行わなかったが、一定の学芸活動には従事した。例えば、『綏遠通志』を編修したり、あるいは東亜文化協会副会長などの職に就いたりした。日中戦争終結後は、完全に隠居し、蔵書や版本の目録整理により日々をすごしている。1949年10月20日、北京にて死去。享年78(満77歳)。

参考文献

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  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 

外部リンク

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 中華民国の旗 中華民国北京政府
先代
范源濂
教育総長
1917年12月 - 1919年5月
次代
袁希濤








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