「選択的夫婦別姓」反対派はなぜここまで他人の家族に介入するのか──連載:松岡宗嗣の時事コラム

選択的夫婦別姓が今国会で争点になっている。反対派がなぜ他人の家族に執拗に介入しようとするのか? ライターの松岡宗嗣が読み解く。
「選択的夫婦別姓」反対派はなぜここまで他人の家族に介入するのか──連載:松岡宗嗣の時事コラム
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約30年たなざらしにされてきた「選択的夫婦別姓」の議論が、今国会で大きな焦点となっている。

与党が衆議院の過半数を割るなか、立憲民主党は今国会で民法改正案を提出する方針だ。法案を議論する法務委員会では、立憲の西村智奈美議員が委員長に就任。もし採決で賛否が同数となった場合に可決を決裁できるなど、委員長は重大な権限を持つ。

議論が進む可能性が高まるなか、各党の党内議論が本格化している。自民党は賛否が割れており、反対派は野党案が通ることを危惧し旧姓の通称使用拡大の方向で着地させたい考えだ。

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他人の家族の名字を同じにさせたいか

「名前」はその人にとって重要なアイデンティティの一つであり、変更することはキャリアの断絶をはじめ、仕事や生活上でもさまざまな問題が発生することがある。

現状、名字を変更している割合は妻が9割と圧倒的だ。ジェンダーの不均衡は根深い。いざ変えてみて旧姓への思い入れがあったことを自覚したという声や、実家の姓を残したいという声もある。必ずどちらか一方の姓にしなければならないということは、どちらか一方は、自分のアイデンティティの一部を失わなければならないということだ。

運転免許証やマイナンバーカード、銀行口座、クレジットカード、生命保険、パスポートなど、煩雑な名義変更が必要になる。海外渡航時に、IDの名前が一致せず、ホテルのチェックインや公的施設の入館時にトラブルが起きたり、通称で口座やクレジットカードが作れなかったという人もいる。実務的な面でも夫婦同姓を強制することに弊害が生じている。

選択的夫婦別姓は、文字通り名字を同じにするか別にするかを選べるようにする制度だ。名字を一緒にしたいと思う人は、当然その選択が尊重される。

つまり、問われているのは「別姓も認めてあげるかどうか」ではなく、「強制的に他人の家族を同じ名字にさせたいかどうか」だ。

自民党内の反対派が提案する旧姓の通称使用拡大案は、別姓への賛成派・反対派の「間を取った案」ではない。あくまでも夫婦は同じ名字でなければならないと、他人の家族にもそれを強制することを前提にしていることに変わりはない。

子どもはかわいそうか

こう言うと「夫婦別姓を認めれば、強制的に子どもが親と違う名字にさせられる」という反論が起こる。「子どもが選べないのはかわいそうではないか」、「家族の一体感が薄れてしまうのではないか」と。

すでに事実婚や再婚夫婦、または国際結婚などの夫婦の子どもで親と名字が異なる人は多く存在している。はたして子どもたちはかわいそうなのだろうか。家族の一体感は薄れているのだろうか。親戚一同が集う場では、同じ家族でも名字が異なる人がざらにいるが、家族は壊れているのだろうか。

選択的夫婦別姓のことを「強制的親子別姓だ」と言われることもあるが、名字を変えた妻にも親がいて、その親との名前の繋がりを消してしまうことは良いのだろうか。

誰かの子どもをかわいそうという発想や、他の家族の一体感をジャッジしようとする目線こそが見直されるべきではないかと思う。同姓の家族も別姓の家族もいて、それで何も変わらないという社会の方が生きやすいのではないだろうか。

日本の伝統なのか

家族の絆、一体感、伝統ーー選択的夫婦別姓への反対論にはこうした観念的な言葉が続く。

特に「伝統」に関しては何度もその言葉の曖昧さが指摘されている。

つい先日も、朝日新聞の記事で、夫婦同姓は約130年前に生まれた「創られた伝統」に過ぎないことが指摘されていた。むしろ約150年前には、「妻は結婚後も以前の姓を名乗るべきだ」と、夫婦別姓制度が公式に通知されていたのだ。その後、20年が経ち、西洋の影響から明治民法によって夫婦同姓に変えられたのだという。

「強制的夫婦同姓なのは今や日本だけだ」というと、反対派からは「なんでも海外に合わせればいいわけじゃない。日本には日本の文化と伝統がある」と返ってくる。しかし、夫婦同姓は西洋の影響を受けた明治政府によって創られたものであって、日本の伝統とは言えないのではないだろうか。

選択的夫婦別姓制度が導入されても、実際に別姓を選択する人は多数派ではないかもしれない。たとえマイノリティであっても、それを求めている人がいる場合、選択肢を保障することは政治の重要な役割だ。

しかし、法制化の議論が進むと必ずといっていいほど、「そんなに議論を急ぐ必要があるテーマだろうか、それよりもっと重要なテーマがあるのでは」といった声が上がってくる。

こうした発言が出てくるのは、多くの場合「当然自分が名字を変えることはない」という前提に立つ人だろう。強制的夫婦別姓によって生じる本人のアイデンティティや実務的な困難を「たいしたことはない」と決めることは問題の矮小化でしかない。

実際、急ぐもなにももう30年も棚に上げにされてきた問題だ。もしこの問題を「どっちでも良い」「たいした問題じゃない」と思うのであれば、今すぐにでも法案を成立させて、別の“重要なテーマ”を議論したら良いのではないかと思う。

なぜ家族に介入するのか

選択的夫婦別姓に反対する保守派は、どうしてそこまで他人の家のあり方に介入したいのか。

先日の東京新聞の取材に答えた旧安倍派議員の言葉が象徴している。

「選択的夫婦別姓制度導入のために民法や戸籍法を改正していけば、最終的に皇室典範の改正につながりかねない」「『守り』は厚い方がいい」

これまでも選択的夫婦別姓への反対を中心的に担ってきたのは、神社本庁などの宗教団体や右派団体の参加する日本会議だ。自民党内をはじめ、強硬に反対する議員の背後にはこうした支持組織がある。

選択的夫婦別姓に反対していた元国会議員の亀井静香は、NHKの取材に「日本は天皇の国。みんな天皇の子だから」と語っていた。天皇は国民の家長であり、それを国民が家族単位で支える。それぞれの家族は、父親を家長とし女こどもはそこに付き従う。こうしたイメージが共有されていると言えるだろう。この天皇をトップとした「国体」を表しているものが戸籍制度であり、それを変えることは許されないのだ。

日本会議の政策委員長・百地章も、選択的夫婦別姓に関するTBSの取材に「我が国の皇室は大事です。皇室を支えているのは伝統的には家族というものがある。個人じゃなく家族なんですね」と語っている。

実際にはほとんどの人が天皇のために結婚するわけではないし、選択的夫婦別姓を求めてる人の多くが戸籍制度をどうにかしたいと思っているわけでもないだろう。ただアイデンティティや生活のために、同姓にするか別姓にするかをそれぞれの家族で選択できるようにしてほしいということだけだ。

それでも、反対派にはこうした強固な考え方があることは知っておく必要がある。「同性婚」をめぐる議論でも、反対派は選択的夫婦別姓とほとんど同じロジックで反対してくる。その意味で選択的夫婦別姓の問題は、多様な性や家族のあり方をめぐる日本の未来の試金石と言える。

家父長制からの脱却

戦後、憲法24条で結婚は「両性の合意のみ」によって決められると明記された。それまでのように、親から決められた相手と結婚するのではなく、自分たちでお互いに決めた相手と結婚できる。この条文が示す重要な意義は「家父長制からの脱却」だ。

現在の強制的夫婦同姓制度では、夫側・妻側どちらの名字も選べるとしつつ、実際には9割が女性が変えている。男系の氏の継承という名残は今なお染み付いていて、結婚すると新しい戸籍をつくるのに、未だ「入籍」という言葉が使われる。はたして憲法が示すように家父長制から脱却していると言えるだろうか。

家族のあり方は国が押し付けるものではない。個人が尊重された上で、多様な家族のあり方を最大限サポートするのが国の役割のはずだ。法制審議会による選択的夫婦別姓導入の答申から30年、そろそろこの問題に決着をつけ、戦後80年越しの「家父長制からの脱却」を示すべきではないだろうか。

松岡宗嗣(まつおか そうし)

ライター、一般社団法人fair代表理事

1994年、愛知県生まれ。政策や法制度を中心とした性的マイノリティに関する情報を発信する「一般社団法人fair」代表理事。ゲイであることをオープンにしながらライターとして活動。教育機関や企業、自治体等で多様な性のあり方に関する研修・講演なども行っている。単著『あいつゲイだって アウティングはなぜ問題なのか?』(柏書房)、共著『LGBTとハラスメント』(集英社新書)など。

文・松岡宗嗣
編集・神谷 晃(GQ)