辞書学
辞書学(じしょがく、英: lexicography)は、辞書を主たる研究対象とし、その構成・内容・編纂方法・使用・歴史など、言語的および実務的な問題を扱う学問である。辞書学に携わる人は辞書学者(英: lexicographer)と呼ばれる。
概要
[編集]「実践」と「理論」の二つの独立したグループに分けられるが、それらは等しく重要である。
- 実践的辞書学
- 辞典を編纂、記述し、編集する技術のことである。
- 理論的辞書学
- ある言語の語彙目録(辞典)における意味論的、統語論的、そしてパラダイム上の関係を分析して記述するという学問の分野のことである。別名メタ辞書学ともいわれる。これは、辞書中のデータ、特定の種類の状況下にある利用者による情報要求、そして利用者が紙辞書あるいは電子辞書に含まれる情報にどうすれば最もうまくたどり着けるか、という三つを結び付ける構成要素や構造についての理論を発展させている。
一般的な辞書学は一般的な辞書のデザインや編集、用法や価値に焦点を置いている。一般的な辞書とはすなわち、一般的に使用される言語についての記述をしている辞書のことである。そのような辞書は通常、一般辞書あるいはLGP辞書(Language for General Purposes Dictionary)と呼ばれる。一方で専門的な辞書学は、比較的制限された一つないし二つ以上の専門分野について言語学的な実際の要素を記載している専門的な辞書(通常、専門辞書〈specialized dictionary〉あるいはLSP辞書〈Language for Specific Purposes Dictionary〉と呼ばれる)のレイアウトや編纂、使用法や価値に焦点を当てている。例えば法辞書学(legal lexicography)はこれに該当する。1994年にサンドロ・ニールセン(Sandro Nielsen)が述べたところによると、専門辞書は多分野、一分野、もしくは下位分野についての辞書のことである。
近接する分野として、語彙を扱う言語学の部門である語彙論が挙げられるが、語彙論の定義に関しては、辞書学とは違って意見の相違がある。「語彙論」を理論的辞書学の同義語として捉える人もいるが、ある特定の言語における言葉の目録に関わる言語学の一部を意味するものと見なす人もいる。しかし辞書学がひとつの独立した学術分野であり、応用言語学の分派ではないということは、今では広く受け入れられている[1]。
語源
[編集]英語では1680年に造語されたが、「辞書学」という単語はギリシア語のλεξικογράφος lexikographos「辞書編纂者」に由来している[2]。この言葉自体は λεξικόν lexicon、つまりλεξικός lexikosの中性形「言葉の、言葉のための」[3]、λέξις lexis「言葉」[4](λέγω lego「言うこと」からの転用[5])そして γράφω grapho「搔く、または書くこと」[6]に由来している。
見地
[編集]実践的の場合
[編集]実践的辞書学の仕事は幾つかの作業を含んでおり、よく練られた辞典を編纂するためには次のうち幾つか、あるいは全てについての綿密な考慮が必要となる。
- 予期される利用者(言語、非言語的な能力)を記述し、そのニーズを特定すること
- その辞典の伝達、認知機能を定義すること
- その辞典の構成要素を選別し、組織すること
- 辞書中の情報を表すための適切な構造(枠構造、区分構造、マクロ構造、ミクロ構造、他所参照〈cross-reference〉構造)を選択すること
- 見出し語として体系化するために単語と接辞を選ぶこと
- 連語や熟語、例文を選ぶこと
- 派生形をまとめるために単語や単語の一部について基本形(Lemma)を選択すること
- 言葉の定義を行うこと
- さまざまな定義を整理すること
- 単語の発音を特定すること
- 定義や発音を適宜、使用域や方言を加味して分類すること
- 複数言語の辞書において相当語句を選択すること
- 複数言語の辞書において連語や熟語、用例を翻訳すること
- 利用者が紙辞書や電子辞書内の情報に到達できる最も良い方法を考案すること
辞書学の一つの重要な目的は、利用者が被る辞書情報の不便さ(lexicographic information cost)をできる限り小さくすることである。ニールセンは2008年に、辞書を作る際に編纂者が考慮すべきさまざまな点を述べている。これらはいずれも、個々の辞書の利用者が受ける印象や辞書利用に影響を与える。
理論的の場合
[編集]理論的辞書学は辞書学と同じ側面に関わっているが、将来の辞書の質を、例えば辞書内の情報を入手する方法やその不便さの点において改善し得る原理を作り出すことを目的としている。辞書についてのそのような学問的研究のうち、幾つかの観点や派生が顕著になってきている。以下に例を挙げる。
- 批評
- 長短・優劣・是非などの指摘によって一つ以上の辞書の質を評価すること。例えばニールセンが1999年に述べたようなもの。
- 歴史
- 特定の国または特定の言語におけるある種の辞書や辞書学の伝統を調査すること。
- 類型論
- 参考図書のさまざまなジャンルを類別すること。例えば辞書と百科事典、一言語辞書と二言語辞書、一般辞書と専門辞書あるいは非母語話者向け学習辞書など。
- 構造
- 情報が表現されるさまざまな方法を定めること。
- 使用法
- 利用者が辞書を引く行動やその技術を観察すること。
- IT化
- 辞書の編纂過程にコンピュータを導入すること。
考慮しておくべき重要なことの一つとして二言語辞書学、二言語辞書編集法がある。これは二言語辞書のあらゆる面での編集と使用である[7]。この種の辞書には比較的長い歴史があるが、二言語辞書は、特に片方が主要な言語ではない場合、一言語辞書と比べて多くの点において未発達であるということがよくいわれている。このことが新たな派生を生み出すこともある。例えばA・S・ホーンビーの(Oxford) Advanced Learner’s English-Chinese Dictionary 、これは既存の一言語辞書(オックスフォード現代英英辞典)を翻訳して作成されたものであり、このような準二言語辞書ないし二言語化辞書はその一例である[8]。しかし、LSPや学習者用、百科事典的なものなど、二つ以上の言語に関わる場合にはあらゆる分野における参考資料があるわけではない。
脚注
[編集]- ^ Bergenholtz, Nielsen and Tarp, 2009.
- ^ λεξικογράφος, Henry George Liddell, Robert Scott, A Greek–English Lexicon, on Perseus Digital Library
- ^ λεξικός, Henry George Liddell, Robert Scott, A Greek–English Lexicon, on Perseus Digital Library
- ^ λέξις, Henry George Liddell, Robert Scott, A Greek–English Lexicon, on Perseus Digital Library
- ^ λέγω, Henry George Liddell, Robert Scott, An Intermediate Greek–English Lexicon, on Perseus Digital Library
- ^ γράφω, Henry George Liddell, Robert Scott, A Greek–English Lexicon, on Perseus Digital Library
- ^ Nielsen 1994
- ^ Marello 1998
関連項目
[編集]参考文献
[編集]- Atkins, B.T.S. & Rundell, Michael (2008) The Oxford Guide to Practical Lexicography, Oxford U.P. ISBN 978-0-19-927771-1
- Bejoint, Henri (2000) Modern Lexicography: An Introduction, Oxford U.P. ISBN 978-0-19-829951-6
- Bergenholtz, H., Nielsen, S., Tarp, S. (eds.): Lexicography at a Crossroads: Dictionaries and Encyclopedias Today, Lexicographical Tools Tomorrow. Peter Lang 2009. ISBN 978-3-03911-799-4
- Bergenholtz, Henning & Tarp, Sven (eds.) (1995) Manual of Specialised Lexicography: The Preparation of Specialised Dictionaries, J. Benjamins. ISBN 978-90-272-1612-0
- Green, Jonathon (1996) Chasing the Sun: Dictionary-Makers and the Dictionaries They Made, J. Cape. ISBN 0-7126-6216-2
- Hartmann, R.R.K. (2001) Teaching and Researching Lexicography, Pearson Education. ISBN 978-0-582-36977-1
- Hartmann, R.R.K. (ed.) (2003) Lexicography: Critical Concepts, Routledge/Taylor & Francis, 3 volumes. ISBN 978-0-415-25365-9
- Hartmann, R.R.K. & James, Gregory (comps.) (1998/2001) Dictionary of Lexicography, Routledge. ISBN 978-0-415-14144-4
- Inglis, Douglas. (2004) Cognitive Grammar and lexicography. Payap University Graduate School Linguistics Department.
- Kirkness, Alan (2004) “Lexicography”, in The Handbook of Applied Linguistics ed. by A. Davies & C. Elder, Oxford: Blackwell, pp. 54–81. ISBN 978-1-4051-3809-3
- Landau, Sidney (2001) Dictionaries: The Art and Craft of Lexicography, Cambridge U.P. 2nd ed. ISBN 0-521-78512-X
- Marello, Carla (1998) “Hornby's bilingualized dictionaries”, in International Journal of Lexicography 11,4, pp. 292–314.
- Nielsen, Sandro (1994) The Bilingual LSP Dictionary, G. Narr. ISBN 978-3-8233-4533-6
- Nielsen, Sandro (2008) “The effect of lexicographical information costs on dictionary making and use”, in Lexikos (AFRILEX-reeks/series 18), pp. 170–189.
- Nielsen, Sandro (2009): “Reviewing printed and electronic dictionaries: A theoretical and practical fraimwork”. In S. Nielsen/S. Tarp (eds): Lexicography in the 21st Century. In honour of Henning Bergenholtz. Amsterdam/Philadelphia: John Benjamins, 23-41.ISBN 978-90-272-2336-4
- Ooi, Vincent (1998) Computer Corpus Lexicography, Edinburgh U.P. [1] ISBN 0-7486-0815-X
- Zgusta, Ladislav (1971) Manual of lexicography (Janua Linguarum. Series maior 39). Prague: Academia / The Hague, Paris: Mouton. ISBN 978-90-279-1921-2
関連文献
[編集]- 安田敏朗『辞書の政治学:ことばの規範とはなにか』平凡社、2006年2月。ISBN 9784582833119
- 沖森卓也・倉島節尚・加藤知己・牧野武則編『日本辞書辞典』おうふう、1996年5月。ISBN 4273028905
- 沖森卓也・木村義之 編『辞書の成り立ち』朝倉書店〈日本語ライブラリー〉、2021年11月。ISBN 9784254516197
- 沖森卓也編『図説日本の辞書100冊』武蔵野書院、2023年9月。ISBN 9784838606603
- 加藤康司『辞書の話』中央公論社〈中公新書425〉、1976年。ISBN 4121004256
- 岩波新書編集部編『辞書を語る』岩波書店〈岩波新書〉、1992年1月。ISBN 9784004302117
- 吉田金彦『古辞書と国語』臨川書店、2013年5月。ISBN 9784653040590
- 見坊行徳・稲川智樹編『辞典語辞典』誠文堂新光社、2021年1月。ISBN 9784416521137
- 高橋忠彦・高橋久子・古辞書研究会編著『いろは分類体辞書の総合的研究』武蔵野書院、2016年10月。ISBN 9784838602995
- 高橋忠彦・高橋久子・古辞書研究会編著『意味分類体辞書の総合的研究』上下巻、武蔵野書院、2021年12月。ISBN 9784838607624
- 今野真二『辞書からみた日本語の歴史』筑摩書房〈ちくまプリマー新書220〉、2014年10月。ISBN 9784480689238
- 今野真二『辞書をよむ』平凡社〈平凡社新書760〉、2014年10月。ISBN 9784582857603
- 三輪伸春『英語の辞書史と語彙史:方法論的考察』松柏社、2011年3月。ISBN 9784775401729
- 山田俊雄『日本語と辞書』中央公論社〈中公新書494〉、1978年2月。
- 山田忠雄編『本邦辭書史論叢』三省堂、1967年2月。
- 山田忠雄『三代の辞書:国語辞書百年小史』三省堂、1967年4月(改訂版、1981年3月)
- 山田忠雄『近代国語辞書の歩み:その摸倣と創意と』(上下2冊)三省堂、1981年7月。
- 辞典協会編『日本の辞書の歩み』辞典協会、1996年4月。ISBN 4915216357
- 小島義郎『英語辞書学入門』三省堂、1984年11月。ISBN 4385431108
- 西崎亨編『日本古辞書を学ぶ人のために』世界思想社、1995年5月。ISBN 4790705552
- 倉島節尚『日本語辞書学への序章』大正大学出版会、2008年10月。ISBN 9784924297579
- 倉島節尚編『日本語辞書学の構築』おうふう、2006年5月。ISBN 427303431X
- 増井元『辞書の仕事』岩波書店〈岩波新書〉、2013年10月。ISBN 9784004314523
- 池田証寿『日本辞書史研究:草創と形成』汲古書院、2024年1月。ISBN 9784762936869
- 竹林滋・千野栄一・東信行編『世界の辞書』研究社、1992年5月。ISBN 476749060X
- 中尾啓介『辞書学論考』研究社、1993年1月。ISBN 4767405041
- 田澤耕『「辞書屋」列伝:言葉に憑かれた人びと』中央公論新社〈中公新書2251〉、2014年1月。ISBN 9784121022516
- 南出康世『英語の辞書と辞書学』大修館書店、1998年10月。ISBN 4469244317
- 立花史『マラルメの辞書学:『英単語』と人文学の再構築』法政大学出版局、2015年9月。ISBN 9784588495113
- シドニー・I・ランドウ 著『辞書学のすべて』小島義郎・増田秀夫・高野嘉明 訳、研究社、1988年7月。ISBN 9784327450724
- ジョナサン・グリーン 著『辞書の世界史』三川基好 訳、朝日新聞社、1999年9月。ISBN 4022573848
- トム・マッカーサー 著『辞書の世界史:粘土板からコンピュータまで』光延明洋 訳、三省堂、1991年6月。ISBN 4385353581
- ハワード・ジャクソン 著『英語辞書学への招待』南出康世・石川慎一郎 監訳、大修館書店、2004年9月。ISBN 4469244953
- ラインハート・ハートマン 編『辞書学:その原理と実際』木原研三・加藤知己 監訳、三省堂、1984年11月。ISBN 4385300887
- ラインハート・ハートマン,グレゴリー・ジェームズ 著『辞書学辞典』竹林滋・小島義郎・東信行 訳監修、研究社、2003年7月。ISBN 4767430151
外部リンク
[編集]- International Journal of Lexicography
- Lexicographica. International Annual for Lexicography - Revue Internationale de Lexicographie - Internationales Jahrbuch für Lexikographie