創造的労働者の悲哀

2006-12-19 mardi

興味深い記事を読んだ。
12月18日毎日新聞夕刊に東大で行われた学生実態調査の報告についての短信である。
学部学生3534人(回答者は1367人)対象のアンケートで「自分はニートやフリーターになるように思う」と答えた学生が7.4%、「ニートにはならないが、フリーターになるかもしれない」と答えた学生が20.9%。
あわせて28.3%の東大生がいずれニートかフリーターになる可能性を感じている。
この数値の経年変化にも興味があるところだが、記事では触れられていない。
個人的予測を述べさせてもらえれば、数値はこの後も増え続けるだろうと思う。
東大生が就職にきわめて有利なポジションにいることはどなたでもご存じである。
だから、彼らがそれでも「ニートかフリーターになるかもしれない」と思っているのは、「就職できない」からではない。
新卒でちゃんと一流企業や官庁に就職はするのである。
オフィスにばりっとしたスーツを着て通勤し、きびきびと働くであろうということは確実に予測されているのである。
でも、ある日、不意に仕事に行く気がしなくなり、通勤電車のいつもとは逆方向の車両に乗ってそのまま「海を見に行って」しまったり、朝だるくて起きられず、そのままずるずると休み続けているうちに会社に行く気分がなくなってしまう自分の姿が妙にリアルに想像されるのである。
どうして、「不意にやる気がなくなる」のか、その理由はわからない。
でも、「不意にやる気がなくなる自分」には鮮やかなリアリティが感じられる。
たぶん、そういうことではないかと思う。
だから「ニートかフリーターになるかもしれない」という不安を彼らは払拭できないのである。
私はこの「不安」は構造的なものであると考えている。
ニート・フリーター問題についての本を書いたが、その中で「労働は憲法に定められた国民の義務だから働け」ということを書いた。
たぶん、若い読者のほとんどはその意味がわからないだろう。
「ふざけたことを言うな」と激怒する人もいるかも知れない。
「働きたいけれど働く先がないのだ。これは個人の決断や趣味嗜好の問題ではなく、アンフェアな社会構造のもたらす問題である」というのがニート・フリーター問題における「政治的に正しい」回答である。
申し訳ないけれど、私はこの考え方の「働きたいけれど」という部分に実は留保を加えている。
働きたいのになかなか仕事に就けない若者は「自分に向いた仕事、自分の適性や能力を発揮できる、クリエイティブで、見栄えがよくて、できれば賃金の高い仕事で」働きたいという条件に呪縛されているからである。
残念ながら、若い人に提供される就職口の中で、そのような条件を満たすものは1%もない。
99%の就労者は「自分に向かない仕事、適性や能力を生かせない仕事、創造性のない仕事、見栄えの悪い仕事、賃金の安い仕事」のどれかまたはすべての条件を満たす仕事を選択しなければならない。
だから、彼らがある日ふと「もう会社行きたくないな」と思ってしまうのは当たり前田のクラッカーなのである。
仕事を彼らは「自己表現」のようなものだと考えている。
だから、気むずかしい芸術家が途中まで仕上げたキャンバスを「こんなものは私の作品じゃない」といってばりばりと引き裂くように、「こんなものは私の仕事じゃない」といって蹴飛ばすことが当然だろうと信じてしまうのである。
なるほど、労働が自己表現であるならば、そのようなふるまいはたいへんつきづきしいものである。
しかし、残念ながら、労働は自己表現でもないし、芸術的創造でもない。
とりあえず労働は義務である。
現に、「すべて国民は、すぐれた芸術作品を創造する権利を有し義務を負う」という規定は日本国憲法のどこにもないが、「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う」ということは憲法27条に明記してある。
労働は国民の義務なのである。
「条件が揃っていれば働いてもいい」というような贅沢を言える筋の話ではないのである。
「とにかく、いいから黙って働け」というのが世の中の決まりなのである。
なぜなら、人間はなぜ労働するのかということの意味それ自体が労働を通じてしか理解されないからである。
これについてはヘーゲルの理説を引くのが捷径であろう。

「人間が人間として客観的に実現されるのは、労働によって、ただ労働によってだけである。人間自身が現実に、客観的に自然的存在者以上のものであり、それと異なったものであるのは人為的対象を作り出した後であり、人間が自己の人間的かつ主観的な実在性を真に自覚するのは、ただこの実在する客観的な所産においてである。(…) 労働することによって人間は精神を『体現』し、歴史的な『世界』となり、『客観化された』歴史となるのである。」(アレクサンドル・コヴェーヴ、『ヘーゲル読解入門』)

別にむずかしい話ではない。
小説を書かない作家、音楽を演奏しない音楽家というのが論理矛盾であることは誰にでもわかる。
「いいから、まずなんか書いて見せてよ」とあなただって言うだろう。
「それを読んで、どの程度の作家だか判定するから」
労働だってその点では同じである。
「いいから、まずなんか仕事をしてみなよ」と私たちは若者たちに告げねばならない。
「それを見て、君がどの程度の人間だか判定するから」
人間の適性や能力や召命は、労働する人間が「主観的にそうありたい」と願うことによってではなく、いかなる「実在する客観的な所産」をこの世に生み出したかによって事後的に決定される。
能力や適性は仕事の「前」にあるのではなく「後」に発見されるのである。
それに、自己表現としての芸術創造よりも、労働の方がずっと達成度についての判定は「甘い」。
だって、芸術の場合は「他人と同じこと」をしたら、それがどれほど高度の技術や熟練や努力の成果であったとしても「無価値」と判定されるからだ。
でも、労働の場合は「他人と同じこと」をしても、それが客観的に有用なものを生み出している限り、高い評価を得ることができる。
麻雀の用語を用いていうなばら、芸術は「アタマハネ」であるが、労働は「ダブロンあり」なのである。
労働は達成感を容易に得ることができる。
芸術はそれに比してはるかに要求が苛烈である。
そして、まことに不思議なことに、今の若い人々は労働を「義務」だと考えることを忌避し、それがまるで自ら進んで自己実現のために行う「創造」でなければならないと信じ込んでいるようなのである。
それではたしかに、ご本人にとっては苦しいことであろう。
「義務」を果たしている人に周囲は優しい(いやなことに耐えているわけだから)。
「創造」に苦悩している人に周囲は冷たい(頼まれてもいないことに血道を上げているわけだから)。
久しく労働は(主観的には楽しくても、制度的には)義務であり苦役であった。
しかし今、労働は創造となった。
そのせいで仕事をする人々はその定義上、仕事をつうじて絶えず自己実現の愉悦と満足にうちふるえていなければならなくなった。
苛酷な条件である。
絶えず創造し続け、絶えず快楽にうちふるえていなければならないという重圧に耐えかねた創造的労働者たちの中から「自分らしい作品ができないくらいなら・・・」と沈黙と無為の道を選ぶようになる者が出てきても怪しむに足りない。
ニートやフリーターはこの「創造的労働者」の末路である。
東大生たちはあるいは「創造的労働者であること」「余人を以て代え難い唯一無二の労働者であること」により強い動機づけをなされているのかも知れない。
そうだとすれば、彼ら自身が不安に思っているように、遠からず東大卒がニートやフリーターになる可能性は予測される30%に限りなく接近することになるだろう。
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