歩哨的資質について

2011-08-07 dimanche

毎日新聞社が高野山金剛峯寺で開いているセミナーで一席おうかがいしてきた。
「公共性の再構築」という演題だったのだが、それは3・11以前に出したものなので、もう少し踏み込んで「社会制度の作りなおし」というテーマで70分お話しする。
このところ繰り返し述べている「存在しないもの」と「存在するもの」のフロントラインにおけるふるまいということをまた申し上げる。

私たちの世界は「存在しないもの」に囲繞されている。
宇宙の起源を私たちは知らないし、宇宙の果てに何があるか(というより「何がないか」)も知らない。
時の始まりを知らず、時の終わりを知らない。
『ヨブ記』で主はヨブにこう問う。
「わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。
わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。
あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。
あなたは知っているか。
だれがその大きさを定め、
だれが測りなわをその上に張ったかを。
その台座は何の上にはめこまれたか。
その隅の石はだれが据えたか。
(・・・)
あなたは海の源まで行ったことがあるのか。
深い淵の奥底を歩き回ったことがあるのか。
死の門があなたの前に現れたことがあるのか。
あなたは死の陰の門を見たことがあるのか。
あなたは地の広さを見きわめたことがあるのか。
そのすべてを知っているなら、告げてみよ。」(『ヨブ記』 38:3-18)
ヨブはこの問いの前に絶句する。
私たちは私たちの生きているこの世界の「外部」についてはほとんど何も知らない。
私たちは私たちの手持ちの度量衡では考量できないもの、手持ちの言語では記述できないものに囲繞されている。
私たちが理解できる世界と、理解を超えた世界のあいだには目に見えない境界線がある。
「存在するもの」と「存在しないもの」のあいだには目に見えない、手で触れることもできない境界線がある。
けれども、その境界線を守護するのは、私たちが「人間の世界」で生きてゆくために必須の仕事なのである。
誰かが境界線を守護しなければならない。
『ヨブ記』においては主がその仕事を担っている。
主はこう言う。
「海がふき出て、胎内から流れ出たとき、
だれが戸でこれを閉じ込めたか。
(・・・)わたしはこれをくぎって境を定め、
かんぬきと戸を設けて、言った。
『ここまでは来てもよい。
しかし、これ以上はいけない。
あなたの高ぶる波はここでとどまれ』と。」(『ヨブ記』 38:8-11)

「存在しないもの」に向けて「ここまでは来てもよい。しかし、これ以上はいけない」と宣告する境界線がある。
高野山の奥の院に足を踏み入れたときにも「フロントライン」に近づいた感覚がした。
弘法大師がそこでとどめた「高ぶる波」の微かな波動が感知された。
聖域というのは、そこで完結している場所ではなく、何かとの「境」なのだ。
機能的には「かんぬきと戸」なのだ。
髑髏島の原住民たちがコングの人間界への侵襲を防ぐために建設した、あの巨大な「門」を想像してもらえればよろしいかと思う。
「かんぬきと戸」がしっかり機能している場所だと、私たちは「高ぶる波」のすぐ近くまで行くことができる。
聖人とは、「境を定め、かんぬきと戸をもって高ぶる波をおしとどめる」人のことである。
私たち全員がそのような仕事をしなければならないというわけではない。
けれども、ときどき、聖人が登場して、「かんぬきと戸」の点検をすることは私たちが人間的秩序のうちで生きてゆくためには必須のことなのである。

私はかつてそのような仕事のことを「歩哨」(sentinelle)と呼んだことがある。
私たちの社会制度のさまざまな箇所で「ほころび」が生じている理由を私は端的に「歩哨」の絶対数が減ったことだと思っている。
福島の原発事故は「恐るべき力」を制御するための「かんぬきと戸」の整備と点検の仕事がほとんど配慮されていなかったことを示した。
そこには会社の収益や、マニュアル通りの業務や、自身の組織内の立場を優先的に配慮する人間たちはいたが、「あなたの高ぶる波はここでとどまれ」と告げる「歩哨」仕事を自分に託された召命だと思っている人間はいなかった。
「境を守る」ことを本務とする人間を「戸」の近くに配備しなければならないという人類学的な「常識」を私たちはだいぶ前に忘れてしまった。
戦争もテロも飢餓も恐慌もない、豊かで安全な生活が半世紀続いただけで、日本人はその常識を忘れてしまった。
私たちの生きているこの狭く、脆い世界は「境を守るもの」たちの無言の、日常的な、献身的な努力によってかろうじて支えられているのだということを忘れてしまった。
崩れかけたこの社会の再構築のための急務は、「歩哨」の備給である。
「境」における歩哨のふるまいには定型的なマニュアルもガイドラインもない。
もちろん、一般的な「傾向」はあるが(それは神話や恐怖譚として繰り返し語られている)、「存在しないもの」の侵襲はどのようなかたちをとるのかを私たちは正確には予測できない。
だから、歩哨たちには「どうふるまってよいかわからないときに、どうふるまえばよいかがわかる」能力が必要なのである。
その「センサー」を研ぎ澄ますために経験的に効果的な方法が存在する。宗教的な修業や武道の稽古は本来そのためのものである。
たしかに、そういうセンサーがきちんと機能している人がいる。
WTCへのテロのとき、「なんとなく外に出た方がいいような気がして」ビルを出て難を避けた人がいた。
その日に限って、「ふだんと違う行動をとって生き延びた人」がどれくらいの数いたのか、誰かが統計を取り、その人たちに共通する「生き方の傾向」を吟味するというのは興味深い研究主題だと私は思うが、たぶん「非科学的」と一蹴されることだろう。
でも、「わかる人はわかる」というのはほんとうである。
先日、こんな記事を読んだ。
大阪京都両府警の捜査官が広域事件について打ち合わせしたとき、京都府警の刑事が「こういう事件もあるんです」と、ある空き巣事件の容疑者の写真を大阪の刑事に示した。打ち合わせが終わって外へ出て10分後に大阪府警の刑事は近くの競艇場外発売所近くでその容疑者を発見した。
この捜査員は雑踏の中から指名手配犯などをみつける「見当たり捜査」の専門家だったそうである。
「そういうものだ」と思う。
彼らは警察官の視野から逃れようとする人々が発する微細なオーラを感知する能力を備えている。
「職務質問」というのは組織的にやるものではなく、「挙動不審」な人間をピンポイントして行うものである。
「挙動不審」というのは、チェックリストがあって、そのスコアが高い場合にそう判断するというものではない。
遠くにいる人間の、わずかな眼の動きや呼吸や心拍数の変化のようなものが「際だって感知される」場合にそう言われるのである。
そういう能力を持っている人が警察官になるべきであり、これまではなってきた。
警察という制度はそのような能力を勘定に入れて制度設計されている。
私たちは刑事ドラマを見ているときに、刑事たちが街中であまりにも容易に挙動不審な容疑者と偶然遭遇するのを「ご都合主義」だと嗤うことがあるけれども、警察の捜査というのは、もともと「そういうもの」なのである。
だが、挙動不審な人間を感知する能力や嘘をついている人間とほんとうのことを言っている人間を直感的に見分ける能力などは、その有無や良否をエビデンスによって示すことができない。
本来は捜査員の採用のときには、「そのようなエビデンスをもっては示すことのできない能力」の有無を基準に採否を決すべきなのである。
でも、エビデンスをもっては示すことのできない能力の有無の判定にはエビデンスがないので(当たり前だが)、現在の公務員採用規定ではこれを適用できない。
そのせいで、わが国の司法システムは劣化したのだと私は思っている。
冤罪事件が多発するのは、司法システムが「嘘をついている人間と真実を述べている人間を直感的に識別できる能力」を備えた司法官が一定数存在することを前提に制度設計されているからである。
司法官の少なくとも一定数は物証がなくとも、自供がなくとも、証言の真偽を直感する力を備えていると想定されている。
「裁判官の心証形成」という不思議な法律用語があるが、これは裁判官が「複数の解釈可能性のうち、ある解釈を優先的に採択したくなる気分」のことである。
「気分」に法律的な力が認められているのは、司法官(の少なくとも一部)には、「証言の真偽を直感的に判定する力が備わっている」ということが司法界では広く信じられていたからである。
そのような能力を備えた人間が一定数存在することを前提にしてつくられた制度が、まったくそのような能力を持たない人間によって運用されるから冤罪事件が起きるのである。
シャーロック・ホームズのモデルになったエジンバラ大学医学部教授ジョーゼフ・ベルは患者を一瞥しただけで、出身地や職業や疾病歴を「言い当てる」ことができた。
医師(の少なくとも一部は)そのような能力を有しているということを勘定に入れて医療制度は設計されている。
司法や医療や教育はひろく社会的共通資本の中の「制度資本」にカテゴライズされるけれど、これらはいずれも「わからないはずのことが、わかる」という人間の潜在能力を勘定に入れて設計された制度である。
これらはいずれも「存在しないもの」とのフロントラインに位置する「歩哨的制度」である。
人間の世界の内部では「存在することが明証的であるものだけが存在する」「存在することのエビデンスの示されないものは、存在しない」というルールが適用されている。
「内部」はそれでよい。
でも、「存在しないものとのフロントライン」では、そのルールは通用しない。
そこはまさに「存在しないはずのもの」が「存在するもの」にかたちを変える、生成の場だからである。
そのような場にどのようにして「歩哨的資質」を持った人々を配することができるか。
子どもたちのうちから、そのような「歩哨的資質」を備えたものをどうやって見出し、その能力を選択的に育成してゆくのか。
これは原理問題ではなく、純粋に技術的な問題である。



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