そこにいるか

個人的な体験、その他の雑感

「中国嫁の差別性」によせて

※追記:フォロー記事書きました

「中国嫁」の落穂ひろい(一年ぶり二度目)
http://d.hatena.ne.jp/islecape/20110810/yome

こちらのほうがいくぶんすっきりしています。文章量、はんぶん。


冒頭補記(2011.8.3 16:23)
こんにちは。この記事を書いて2日後のislecapeです。
そもそもこの記事では、回りくどくも「中国嫁」が「差別とは思わない」と言っているので、「中国嫁が差別とかなに考えてんだ」というような感想は送っていただかなくても結構です。ああ……タイトルが悪いんですね。"「中国嫁の差別」(という非難)によせて"とすればよかったんですね……(なんかこのパターンは前もあったような)

冒頭補記その2(2011.8.6 19:40)
こんにちは。この記事を書いて5日後のislecapeです。
この記事がいつのまにか「中国嫁」の検索でかなり上位になってしまって、まったく申し訳なく思います(なにも「中国嫁」に言及しなくても論を展開することはできたでしょうに。もしろん、それなしでこんな記事は書かなかったのですが)。少なくともAmazonの書籍販売ページそのものより上位だったりするのはどうにかならないものかと(一時的とは思いますが)。はたして査読なし初稿といえるこの文章をどの程度の方が読まれ(ようと試み)たか、読み進めるのも大変苦痛かとは思いますが、可能であればコメント欄の応対を最後まで読んでいただくと、僕のもともとの問題意識がどこにあったかが多少は明確になっていると思うので、そこまでお付き合いいただけると幸いです。

長い前置き

Twitterは、公開から六か月でアメリカ議会図書館アーカイブされているそうです。

あなたのつぶやきが永久保存される意味 - Newsweek日本語版
http://www.newsweekjapan.jp/stories/us/2010/04/post-1202.php

日本語ツイートもそうなのか ちょっとあやふやなところはありますが、Twitterの個々のツイートのステータスURLは国別を意識しているふうでもないので、たぶんすべての(Twitterを公開設定で使っている)利用者のログがアーカイブされるのだろうと思われます*1。「人はなぜ日記を晒すのか」どころではありません。Twitterにつぶやく人ほど自分の生活と自身の世界観を、全世界とこの先の未来にさらけ出していると言えます。一瞬で消え去る「現実世界」でのふるまいと違い、「電子的な仮想世界」のふるまいはログとして半永久的に残ります。「仮想世界」などと呼び習わされているため誤解もあるかもしれませんが、Webでの「ふるまい」は「情報・記録」として「現実世界」に還元されうる ある意味でたちの悪いものです。

かなり長い前置き

ちょっと昔の本を読むと、「この書籍には現代となっては不適切な語句・表現が見られますが、作品の時代性を鑑み……」といった断り書きがよくありますが、我々のつぶやきもおそらく、未来に見返されたとき「不適切」とみなされることはあるでしょう。将来ゴキブリが知的種族になって、今の我々のあまりにも残虐な殺虫器具を用いたふるまいに対し訴訟を起こすとか。

いきなり話が変な方向に飛びすぎた感がありますので戻しますが、「現代となっては不適切な……」といった類の断り書きのない最近の本を読んで首をかしげることだってあります。たとえば「母親が仕事に家を空けることは、寂しい思いをする子供にとってとても不幸なことです」というようなフレーズは まだ根強く聞かれるように思いますが、「では父親が家を空けることはいいのか」「母親が働かないでは経済的に支障をきたす社会状況になっているのではないか」「そもそも子供の不幸とはどういうことか」といったツッコミがありえます。現代社会では こうしたツッコミのほうが優勢になっていると僕自身は考えていますし、それは社会的に正しいことだと思っているのですが、今のところはまだ こうした「子供の不幸」言論に対し、「全くその通り」と思う人と「なに寝言いってるんだ」と思う人がいるように思われます。そして、そう思う度合いも様々です。「まったくその通りで母親が仕事に出るべきではない、母親の就業を規制すべきだ」とまでいう人もいれば、「母親が仕事に出るのは、まあ望ましくない」という人もいれば、「女性が仕事に出ていけないということはない」という人もいれば、「母親はすべからく仕事に出るべきで、子供が不幸などと考えるべきではない」という人もいるでしょう。僕はこれは「過渡期ゆえの衝突」であろうと思います。

社会は母親も働ける方向に向かって進んでいますが、まだ十分ではありません。体制が追いついていないのです。あるいは、父親を妊娠させるような医学が発達した社会になれば「母が子を育てるべき」論も無意味になるでしょう。いっそのこと、人間から性がなくなれば、母親という概念がなくなれば、生殖システムが外付けになれば……。未来がどうなるかはまったくわかりませんが、ある面では「過渡期の衝突」にこそ未来を決定づける意味があります。その衝突が、どこに梯子をかけるかという決定の要因にもなります。

刑罰としての死刑に対して、社会はまだ態度を決めかねていますが、それと違って断頭台で首と胴体を切断する、ギロチンなる処刑方法に対しての社会の意見はほぼ一致しています。ましてやそれを見せものにするというようなことは、まったく考えられなくなりました(Wikipediaによると1939年まで)。ギロチンは被処刑者が苦しまずに済む人道的な装置として登場したと聞きます。当初は「よいもの」と受け入れられたのでしょう*2。しかし「他に、よりましな処刑方法があるのでは……」という社会の要請に押され、けっきょく刑罰のメインストリームからは姿を消すことになりました。もちろんそれでいいのだろうと思います。おそらく今後「やっぱり首を切断する処刑のほうがいいかな」としてギロチンの再導入を社会が決定することは、よほどのことがないかぎりないでしょう。

そして、日本でもようやく「死刑」そのものが検討課題にあげられてきました。僕は、死刑は文明が退化しないかぎり将来的には消え去る刑罰と考えていますが、それでもそうなるにはまだ時間がかかるでしょう。フランスがギロチンを処刑方法に取り入れたのが1792年、最後の死刑執行が1977年なので、180年くらいかかってます。「世も末」と嘆息することの多い我々は、もちろん末法の世を生きているわけではありません。このそれなりに長い歴史で、世界の破滅を見るとすれば ずいぶんな幸運……ではないですが、なかなかない機会を得たということになります。このさき人類の歴史は、まだ数百年は続くと思われます*3。時代が下れば世の中がよりよくなると単純に考えるとして、我々はもっともすぐれた時代を生きているわけではありません。そもそも我々自身、過去・未来と比較して最も見識に優れた市民というわけではなく、前例の(それほど)ないさまざまな状況を手探りで進み、次の世代の踏み台になる「過渡期」の産物でしかないのですから。

やっと本題(これがいちばん長い)

「中国嫁日記」という、エッセー4コマ漫画をメインコンテンツにしたブログがあります(と、ここで書くまでもなく有名ですが)。書いているのは井上純弌という人で、もとはテーブルトークRPGという、やたら自由度の高い人生ゲームみたいなものの業界で知られている人です。僕はTRPG経験者ではありませんが、たまたま関連書籍を読んで名前を知り、あと父と同じ名前なので(まったく関係ないファクターですが)それによっても頭に残りました。「中国嫁日記」自体は、ソーシャルメディア上のレコメンドでRSSフィードに(何度も)流れてくることもあり、ほぼすべて目を通しています。

父と同名と書きましたが、この人を中心に騒ぎが起きているとき聞こえてくるこの人の女性に関する発言がどうも父にかなり似ている感じがしていて、僕はその点でこの人に好感を抱いていません*4。ありていにいうと、いかにもおっさんくさいなあ、と思います。僕の父は極左にかなり近い人間でしたが、こと女性観に関しては旧態然とした考えの持ち主でした。もちろん「女性が大学に進学する必要がない」とか「管理職になる必要はない」とかいった考えがあったわけではなく、女性について語るときに意味もなく容姿について言及したり、一人の女性の短所を女性全体に帰す、というような意味で。*5

中国嫁日記」は書籍化も決まり、大きなメディアにも取り上げられることもあり、知名度もかなり上昇したのでしょう。また、本人もTwitterなどのソーシャルメディアを使いこなしているため、本来なら、井上純弌という人とはすれ違うこともないであろう人とニアミスを起こして周囲を巻き込んで大騒ぎしているのを時おり見かけます。

直近に見たのはこれでした。

中国嫁日記」の差別性が自覚できない奴は差別主義者!…(゚Д゚)ハァ?
http://togetter.com/li/166146

僕自身としては、「嫁」は あまりいい言葉ではないと思っています。タクシーの運転手を「駕籠かき」「雲助」と読んで訴えられた芸人がいたそうですが、「嫁」と呼ばれた人たちが歴史に置かれてきた立場に思いをいたすとどうでしょうかね。タクシー運転手の中には「いやあ、私は雲助でいいですよ」という人もいるかもしれません。「嫁」は「雲助」よりは日常使われていますし、「嫁でいいですよ」という女性は もちろんいるでしょう。が、その女性の存在をもって「嫁」という言葉が免罪となるわけではありません。そもそもある特定の状況にある女性を「嫁」なる属性に帰してしまうことはしないほうがいいと思います。むしろこうした属性を表す言葉が出てきたときは、その属性でもって呼ばれる個人を尊重するよう努めるべきでしょう(その結果本人が「嫁」でよいというなら、もうそれはそれで)。そういう意味では「中国嫁」は、いきなり「中国」で「嫁」なので、難易度が高いタイトルだなあ、とは思います。そうした「日常」を離れれば、漫画のタイトルとしては成功しているとも言えるでしょう。

で、内容のほうですが、これに関しては「読んでないけど」と批判する人もいるので、そこはさっぴいて考える必要があると思います(タイトルのセンスは全体を表現しているかもしれませんが、タイトルがこうだから中身もこうだろうというのは、批判としては大雑把すぎるので)。以下、一応読んでいる僕としてはどう考えているかを書きます。井上さんは最初あのブログを本人に内緒で描いてたそうです。物書きとしては当たり前すぎる行動ですが、文化ギャップなどをテーマにして誇張した面白おかしい描き方は、本人は愛情表現のつもりでも通じなかったかもしれません(「ダメと言われたらやめるかも」というようなことを初期に書いていました。)。これが実は「よかれと思って」「嫌がるとは思わなかった」だったとしたら、セクハラと同じ構図になってしまいますよ*6。また、現実がどうかはともかく漫画は井上さんが創造主なので配偶者の人*7は(漫画の中で)いいように遊ばれているという側面があり、女性をあまりにも「子供扱い」しているようにも見え、男性と女性の関係としては気にかからなくもありません。もちろんそれは成人し平等な婚姻関係にある男女の関係性に依拠する事柄なので、他者が口をはさむ問題ではありません。井上さんの配偶者が「嫁」と呼ばれることに抵抗を感じているかどうかは、我々には知る由もありません(今はそうでなくても、もしかしたら将来ラディカルフェミニストの闘士になったりするかもしれませんけど)。しかし、そこからブログやTwitterによって公にされた「関係性」は、本人が望むと望まざるとにかかわらず「中国嫁」というキャッチーなフレーズとともに流通してとどまることはないでしょう。そうした状況を前に、それが善なる影響をもたらすか、それとも逆か、またその影響の如何はどの程度か、作品の芸術的観点(漫画としての娯楽性なども含む)はいったん脇に置いて十分検討し、個々で判断し、それに近似した状況に直面した時の行為材料にでもする事柄のように思います。まあ僕だったら「中国嫁」なんていうタイトルはやめておきますね……

しかしそれにしても、前述のTogetterの ものの役に立たなさはどうしたことでしょうか。「これが差別なんて、なにを考えているのか」という自身の感覚の披瀝や、「こういう人は他人を差別するために機先を制して自分が差別と言っているだけ」という主張に熱心な人が多いのですが、それは「この作品が差別であるというレッテルが張られてしまうことを恐れて」のことかとは思いますけれども、かえってその大合唱が見る人を引かせ、あるいは目くらましになってしまうこともあるように思います。だいたい未来にむけて記録すべき思考の痕跡とも思えません。「当時」の大衆の程度を知る材料にはなりますかね。

僕個人の考えとして「中国嫁日記」が社会に害悪をもたらす差別的作品とまで言えるかどうかを述べると、(作者のもつ「現代日本社会の比較的男性主義的な感覚」をあらかじめ予断として持って鑑賞しても)ことさらを超えて差別的であるとまでは感じられませんでした。今の夫婦のだいたいなんてこんなものだろうかね、といったような。エッセイ漫画ということもありますが、実際に存在する彼らが政治的に正しい理想的な夫婦である必要はないのです*8。公に出版されたものの責任という点に関しては、留保付きでまあいいんじゃないの、くらい。というわけで、いわゆる「ふつう」の作品と言えるのではないでしょうか。要するに「社会正義に思いをいたすための読み方は想定していない作品」(していたらごめんなさい)であり、その限りにおいて、様々な知見を動員した結果「この作品も(他にあまたある作品と同様に)差別性をにおわせる」という留保がついたとして、この作品を鑑賞することそれ自体がただちに差別への過大な加担になるとは考えられません(ただし、「ふつうの多数派による、ごくふつうの行動」が往々にして少数者に対する圧迫になったりすることを考えると程度問題ではあります)。

もし万が一、「中国嫁日記」が実は後世からすれば(我々には知る由もない理由で持って)とんでもない差別性を帯びた作品であり、これを鑑賞できるということは鑑賞者の差別性の暴露に他ならない、とかいうようなことになったとしたら、そしてそれが合理的であると納得しうるものなら、お墓の下か、あるいは千の風になった状態で反省するしかないでしょう。そして一方で、そうした価値観の転換は「この書籍には現代となっては不適切な語句・表現が見られますが……」といった注釈がつけられる後世ではなく、我々が耄碌した程度のころに訪れるかもしれません。ギロチンを当たり前の処刑方法としか思えない我々が、あるいは死刑制度そのものを受け入れている我々が、ある日いきなり誤っていると指弾されるのです。

「そう指摘しようという人からすれば、なにをしても差別と言われるのではないか」という人もいると思いますが、それはまったく本当にその通りで、「どうしても差別をしたくない、差別していることを指摘されたくない」というのであれば、もう死ぬしかないのではないかと思います*9。我々は日常において差別したり、生得的な特権にあぐらをかいたりしていることに気づきません。「(とくに無自覚に)差別してしまうこと」を恐れるのではなく、それに気づいたときに「そういうものだからしかたない」で済ませてしまうことを恐れるべきです*10。「差別を指摘する人は、自分を高い位置においてそうする」という人も多いのですが、差別を指摘する人がどうなのか、ということは重大ではありません。「差別的・特権的」と言われることを恥じるのではなく、他ならぬ自分自身が「差別的・特権的であることから目をそむけ、耳をふさぐこと」を恥じるべきです。


すでに答えは書いていますが、僕は「中国嫁」はただちに差別とは思いません。「書籍として出版するなら改題すべき」とも思えず(すでに「中国嫁日記」として広まった知名度をそろばんにかけての経済合理性もあわせて)。

しかし、

彼とその周辺の政治性は、「しなづま日記」を忌避し、しかし「中国出身配偶者日記」にはせず「中国嫁日記」で良しとする感覚であり*11、僕個人には違和感があるので、その点言うだけは言っておきます。


また、もうひとつ言及しておくとすれば、

最初は50Pカラーマンガを予定していたのですが、デザイナーの、よつばスタジオ里見サンの「50Pもカラーマンガ読むと、読者疲れますよ」という、もっともな意見で白黒マンガになったのです

というのですが、

つまり、いま我々が生きているのは、「50Pのカラー漫画を読んで(脳が)疲れる読者には配慮するけれども、"嫁"という言葉に引っかかって(精神が)疲れる読者のことは顧慮しない社会」ということです。それを例えば、「それは、気にする人の数の多寡のためだろう」で済ませてしまうことには大きな危険があると思います。

我々は、この社会のバイアスに慣らされてしまっているのですから。


誰かが我々の差別性を指摘することは、「世界の終わりを見る可能性」よりはよほど遭遇する可能性のある、ちょうどよい機会ととらえるべきでしょう。

人類は、しばらくの間、様々な相違に目をふれないことになれているならば、速かに、このような相違を想像することもできなくなるのである。

J.S.Mill『自由論』三章*12

何かを見て批判するのは自由なんですがね、批判の程度というものがね、というお話でした。


今日はここまで。


実際のところ、「中国嫁日記」ぜんぜん関係ないような気がするのは気のせいです。(マンガで夫婦二組を書きたかっただけちゃうか)




追記:
(ちなみに僕のPC感覚は、イラストの「ダーリンが外国人」コンビのほうで夫に薄いグリーン、妻に濃いピンクのシャツを無自覚に着せ、記事投稿の際に「あ、失敗した」と思ったものの、このように弁解の追記を書いて、修正まではしない、といった具合です。それからついでに言うと、このイラストにはもともと別の意味あいをもたせるつもりでした。僕が好感を抱かなかった井上さんのツイート https://twitter.com/#!/KEUMAYA/status/14529968444809217 の理由のひとつとして、「自分の意見を述べる夫、黙って聞く妻」という、NHKニュース9かよ、というような構図がありますが*13、この語学オタクの夫と漫画家の妻も冷静に見ると構図は同じであり、ではそこでこれらをどのように評価するべきか、という項を入れようとしたのですが、話がずれる上に長くなりすぎていつまでたっても書き終わらないので削りました)



追記その2:
読み返したら、「Twitterのつぶやきはアメリカの図書館でアーカイブされる」という「前置き」に対応する文章が本論にありませんでした。井上さんが映画版の宇宙戦艦ヤマトを見た時に「しょせん女」的なことを言って、それを批判するTogetterがまとめられたとき「冗談で言ったことで差別者にされてしまった。不快にさせてお詫びします」みたいなことをコメントに書かれていたのですが、それに関して対応する段落を作るつもりでした。ただ問題のTogetterを見失ったので宙ぶらりんに。あとはまあ、要するに我々は記録をこうやって残しているわけですが、脊髄反射的に怒ってもしょうがないよ、21世紀人が瞬間湯沸かし器だったことを後世に伝える論量にはなるかもしれないけど。というようなことをどこかの段落に入れるつもりでした、ってことで……)

*1:他にも ログを公に保存する機能としては「インターネットアーカイブ」や「Web魚拓」などがありますが、インターネットアーカイブに保存されるWebサイトは限られているし、Web魚拓は「記録しよう」という利用者の意志が介在しなればなにもしません。網羅的かつ直接的にログを収集するシステムとして、TwitterGoogle以上でしょう

*2:実際に「よい」かどうかはともかく、そう感じられた。

*3:数百年経てば人類の「次」が来る、来ないようであれば もうそんな文明に先はないだろう、といった感じの意味で。

*4:たとえば このツイート https://twitter.com/#!/KEUMAYA/status/14529968444809217 は、僕がこの人に賛同しがたい面をあますことなく表現しているような感じがあります。

*5:追記:なんでこんなことを書いたかというと、「この記事の筆者にはそういうバイアスがかかってますよ」という通告のつもりでした。

*6:……痛っ、そういえば僕も妹を面白おかしくして書いてました。

*7:PC的表現

*8:ただししつこく前述したように著者の井上さんは かなーり女性に対する感覚やふるまいが危うい感じがあります。むしろ嫁日記のほうが抑え気味で、Twitterのほうが以下略

*9:死んだら死んだで、「あいつはどうしようもない差別主義者で……」と言われでも反省も弁解も釈明もできませんけど。いやまあさっき墓の下か千の風になって反省とか書きましたけど。

*10:しかし、僕は先日、典型的なアメリカ軍ばんざい映画シリーズ完結編 http://d.hatena.ne.jp/islecape/20110729/tf を見てきたところですが、この映画シリーズは米軍からレンタルで兵器を借り受けているそうなので、客観的には(僕のチケット代は銃弾一発分にもならないでしょうが)単に日本の納税者であるというだけよりもうちょっとアメリカ軍に加担していると見なされることでしょう。アメリカ軍に復讐心を抱く人に狙われたら、いったい僕はどうすればいいんでしょうね?

*11:「中国出身配偶者日記」は売れないだろうなあ……

*12:岩波文庫塩尻公明・木村健康訳、1998年9月25日第43刷149-150頁

*13:シチュエーションが厳密には違うと http://d.hatena.ne.jp/islecape/20110801/yome#c1312497604 コメントで指摘されたのですが、僕の認識による大雑把な括りかたでした。

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