悲劇の都営三田線 大手町駅が「大手町」にない理由
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東京・大手町には地下鉄の駅が5つある。うち4駅は住所も大手町。しかし都営三田線だけは、住所が大手町ではなく丸の内になっている。どうしてなのか。その理由を調べていくと、駅設置を巡る暗闘が見えてきた。駅の位置や直通運転の相手など、誤算続きの三田線の歴史を探った。
千代田線との場所取り合戦に敗れる
まずは各駅の住所を見てみよう。
東京メトロによると、丸ノ内線・千代田線・半蔵門線の大手町駅の住所は「大手町1-6-1」、東西線は「大手町2-1-1」だ。これに対して三田線は「丸の内1-3-1先」。三田線だけは、道路を挟んで丸の内側に位置しているのだ。
ちなみにこの住所、メトロは駅事務所の位置、都営地下鉄はホームの中心地点に最も近い出口付近の住所だという。出口が道路上の場合、住所がないため最後に「先」が付く。
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乗り換え距離も長い。ホーム上の表示を確認したところ、丸ノ内線から三田線に乗り換える場合、最大595メートルも離れている。これは東京の地下鉄で、同じ駅名間の乗り換えとしては最も長い。
なぜ、三田線大手町駅だけ「丸の内」なのか。一駅だけ離れているのか。「今だから話せる都営地下鉄の秘密」(洋泉社)の著者で、東京都交通局で40年間、地下鉄に関わってきた篠原力さんに裏話を聞いた。
「実は、東京都としては三田線の大手町駅をもっと北側に造りたかったんです。でも千代田線との場所取り合戦に敗れてしまった」
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千代田線と三田線は同時期にまとめて工事が行われた。日比谷通りの地下に並んで走っている。駅の配置はどうやって決まったのか。
手始めに東京メトロの前身、帝都高速度交通営団が1983年にまとめた「東京地下鉄道千代田線建設史」を調べた。大手町駅の場所について、こんな記述があった。
「駅の配置は両線の駅を並列に設置することが便利であるが、日比谷通りの道路幅員の関係により交互に設置する計画とし、約2kmの並行区間に約500m間隔で5駅設置することとした」
日比谷通りの幅がネックに
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当時、東京都交通局にいた篠原さんによると、問題となったのは大手町駅ホームの形状と、地下鉄の上を走る日比谷通りの幅だ。
朝夕のラッシュが激しい大手町駅は、ホームをなるべく広く造る必要がある。ホームの形状は「島式」と呼ぶ、ホームの両側に電車が発着するタイプが適しているという。
地下鉄は通常、道路など公共用地の地下に造る。ビルなど民有地の地下だと買収や補償など費用がかさむからだ。このため、地上にある道路の幅を超えないよう設計する必要がある。千代田線と三田線の上にある日比谷通りの幅は、島式ホームを横に2駅分並べるほど広くはなかった。
篠原さんは語る。「都としては、本当は今の千代田線大手町駅、二重橋前駅、日比谷駅がある場所にそれぞれ駅を配置したかった。でも大手町では先に東西線の場所が決まっていたので、同じ営団の千代田線が優先されてしまった。千代田線大手町駅のさらに北側には、駅を造るだけのスペースがなかった」
結局、都が譲歩する形で決着。大手町から日比谷までの間に、三田線は2駅しか設置できなかった。「私は当時、直接の担当ではなかったのですが、担当していた先輩は本当に悔しがっていました」。そう語る篠原さんもまた、悔しそうだった。
「悲劇の路線」 直通にらみレール幅を変更したものの…
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大手町駅だけではない。三田線は譲歩、譲歩の連続で、時に「悲劇の路線」ともいわれる。どこを走るか、どの私鉄路線と直通運転を行うのか、二転三転したのだ。
6号線と呼ばれていた三田線は、5号線(現・東西線)の支線として浮上した。大手町駅から分岐して、神保町、白山、巣鴨を通り、板橋に向かうルートだ。
62年、これを6号線として独立させることが決まり、1号線(現・浅草線)と同じレール幅(1435ミリ)が採用された。転機はその直後。北は東武東上線、南は東急池上線に乗り入れることになり、レール幅を両社に合わせて1067ミリに変更したのだ。都交通局がまとめた「都営地下鉄建設史―1号線―」は直通について、「両社から要請があった」としている。
東急は「多摩田園都市開発35年の記録」で率直にこう記す。
「当社がこの路線に注目したのは、桐が谷(品川区西五反田)で池上線と結び、同時に旗の台(品川区旗の台)付近で大井町線と池上線の線路を接続すれば、懸案となっている大井町線延長線すなわち田園都市線の建設にともなう都心乗り入れ問題が解決できると踏んだためである」
東京都と東急、三田線の工事巡り対立
しかし、計画はすんなりとは進まなかった。
問題となったのは、1号線(浅草線)と6号線(三田線)が並走する「泉岳寺(港区高輪)~桐ケ谷」間の工事だった。同区間は1号線は都、6号線は東急が工事を担当することになっていたが、同一区間のため同時に工事を行う必要があった。両者とも直通には合意したものの、建設時期を巡って考えが違っていた。
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都としては、とにかく1号線を早く開通させたい。そのため6号線ともども、工事を急ぎたかった。これに対して東急は、周辺開発などが進んでいない段階での6号線建設に及び腰だった。結果的に、1号線も含めて工事はなるべく遅らせたかった。
どちらに責任があるのか。両者の言い分は少し異なる。東急が80年に発行した「新玉川線建設史」にはこうある。
「当社にしてみれば、当初から早期着工の見通しの付かない立場にあった」「結局、東京都はこの桐ケ谷~泉岳寺間における両線工事の同時施行を取りやめ、昭和40年2月15日付で、1号線単独施工による早期着工を当社に通告したのち、翌昭和41年6月には同区間工事に着手した」
「信義にもとる」 東京都、東急に厳重抗議
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一方、都の「都営地下鉄建設史」に収録された都と東急の文書のやり取りを見ると、違った側面が見えてくる。
都が東急に単独着工を通告する半月前の1月26日、東急は都に1号線と6号線の同時施工には同意できないと伝えている。
都はこれに激しくかみつく。
東急は需要がないうちに多額の先行投資をするのは耐えられないことを理由に挙げたが、都は「先行投資は覚書締結当初より当然わかっていたこと」と反論。「数十回の協議を重ね、既に着工の段階に来ております今日、このような申し入れをされますことはまことに信義にもとる」と強く抗議している。
当時、都交通局で6号線の基本計画に携わっていた篠原さんは、一連のやりとりをよく覚えているという。「一番困ったのは、明確な返答がないままずるずると引っ張られたこと」だという。都の「建設史」も「3年余を空費した」と記している。都にしてみれば、向こうから持ちかけられ、レール幅を変更してまで対応した直通計画が一方的に破棄されたと映った。
東急は88年に編さんした「多摩田園都市 開発35年の記録」では表現を変えている。
「八方ふさがりの状態に追い込まれた当社は、6号線の建設をあきらめると同時に…」
東急としては、需要との見合いや他の路線との優先度の違いなどを考慮した結果、企業としてシビアな判断を下した、ということだろう。
結局、都は1号線の単独工事に踏み切り、6号線の三田から先の延伸は白紙となった。
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東武東上線への乗り入れは輸送量が障害に
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東武東上線との直通計画も頓挫した。こちらは輸送量がネックとなった。
6号線は車両の長さが18メートルで、8両編成を検討していた。1号線の規格に合わせたためだ。これに対し東武東上線は20メートルの車両を考えていた。将来的には8両から10両編成に増やすことも検討していたという。輸送量増強を見込む東武にとっては、都の計画は力不足と映った。必要となるホームの長さも違う。
さらには「東武の主要ターミナルである池袋を通らないルート設定も、同社の慎重姿勢の背景にあったと思います」。これは篠原さんの推測だ。
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大宮、横浜・港北ニュータウンへの延伸構想も
東急、東武との直通が破談となった三田線は、その後も迷走を続ける。北側では都が単独で大宮方面へ延伸する構想があった。東京都営なのに埼玉県を走るというのだ。篠原さんは実際に埼玉まで下調べに行ったという。だが当の埼玉県が慎重姿勢で、実現には至らなかった。
南側では横浜市の港北ニュータウンに乗り入れることが検討された。実際、72年の都市交通審議会答申で三田~白金高輪~港北ニュータウンという延伸計画が打ち出された。横浜市が検討していた地下鉄に接続する構想だった。
なぜ実現しなかったのか。草町義和著「鉄道計画は変わる。」(交通新聞社)はオイルショック後の低成長時代に入り、「港北ニュータウンに3本もの鉄道路線を整備するのは過剰ではないかという考えが支配的になっていた」と指摘する。またもやタイミングが悪かった。
光が差したのは85年。都市交通審議会が三田線と南北線、東急目黒線との直通構想をまとめたのだ。都はこれを受け入れ、00年にようやく直通が実現した。計画浮上から40年。迷走に終止符が打たれた瞬間だった。(河尻定)
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