田沼意次の汚職は冤罪か?

呉座 勇一

現在(2025年)放送中のNHK大河ドラマ「べらぼう」の主人公は、喜多川歌麿・東洲斎写楽などをプロデュースした江戸の出版人、蔦谷重三郎である。重三郎が活躍した時代は、老中の田沼意次が江戸幕府の政治を牛耳っていた。

田沼意次(1719~88年)は戦前戦後を通じて、賄賂を好む汚職政治家として、たいへん評判が悪かった。こうした田沼意次像を鮮やかに転換したのが、歴史学者の大石慎三郎氏が1991年に発表した『田沼意次の時代』(岩波書店)である。

大石氏は、田沼意次が金権政治家であったことを示すとされてきた史料のほとんどは、意次失脚後、世間に流れた噂話の類を書き留めたものであると論じた。そして大石氏は意次の政策を再評価し、「すぐれた財務家であるが、誠実一筋の人間であるうえに常々目立たぬよう目立たぬよう心掛けていた、たいへんな気くばり人間であった」と結論づける。

そんな田沼意次が失脚したのは、家柄が低いにもかかわらず、実力によって老中兼側用人として幕府の中枢まで上り詰め、大胆な改革を行なっていたため、無能で前例踏襲的な譜代門閥層の嫉妬と反感を買っていたからだという。

田沼意次失脚後に成立した松平定信政権は、現実に対応する柔軟な適応力に欠けた反動保守政権であり、以後の幕府権力は基本的にこの路線を継承する。意次の失脚を転機として幕府権力は硬直化を強め、衰退の方向をたどった、というのが大石氏の見解である。

しかし、田沼意次の汚職は反対勢力などによる誹謗中傷であるという大石説には、藤田覚氏の批判がある(『田沼意次』ミネルヴァ書房、2007年)。

大石氏は『伊達家文書』に収録されている(明和二年=1765年)六月伊達重村直書写を読み解き、田沼意次=清廉政治家説を唱えた。仙台藩主の伊達重村は自身の官位昇進のため、家臣を通じて幕府老中の松平武元と御用取次(当時)の田沼意次に対し「手入」(政治工作、ここでは官位昇進への協力依頼を指す)を行った。大石氏によれば、武元が「手入」を了承し、(おそらく)賄賂を受け取ろうとしたのに対し、意次は賄賂を拒絶したという。

けれども藤田氏は、大石氏の史料解釈が誤りであることを指摘し、意次は「手入」を了承していると説く。そもそもこの時期には、大名や旗本が幕府要人に賄賂を贈って嘆願を実現させるという習慣は一般的であった。後に田沼意次を追い落とし、腐敗政治の一掃を掲げて寛政の改革を主導することになる白河藩主の松平定信でさえ、天明三年(1783)に官位昇進のために「権門」(幕府要人)に賄賂を贈っている。

さらに天明五年には白河藩久松松平家の家格を「溜詰」に引き上げて自身の政治的影響力を増大させるため、「敵」である意次に金銀を贈った。自身にとって恥となることを定信自身が語っているので、意次に賄賂を贈った(そして意次が受け取った)という話は間違いないだろう。

もちろん幕府の役人に賄賂を贈ることも、役人が賄賂を受け取ることも禁止されていた。しかし賄賂はなくならなかった。そして、田沼意次が経済活性化のために新規事業の立ち上げを奨励したことが賄賂横行の温床になった事実は否定できない。新規事業の許認可権を握る役人に対し、商人が賄賂を贈るからである。意次の施策は利権政治を加速させたと言えよう。

老中や若年寄といった幕府の要職に就いている藩主ともなると、「手入」を任された大名・旗本の家来は直接、藩主本人に会うことはできない。賄賂攻勢の標的になるのは、藩主の家臣たちである。したがって主君である藩主が賄賂を受け取らないよう、しっかり家中を統制する必要があるが、田沼意次はこの点が甘かった。

田沼家は、600石の旗本から5万7000石の大名家へと急成長した成り上がりであり、代々受け継がれてきた家法(大名家のルール、行動規範)や譜代の家臣を持たない。いきおい、家臣の取り締まりが緩かった。

田沼意次は老中辞任後の天明七年、幕府の政務が忙しくて家中を顧みる余裕がなく、その結果、家臣たちが分を超えた暮らしをするようになったと反省し、家臣たちに質素倹約を命じている。家臣たちの暮らしぶりが贅沢であったのは、賄賂を受け取っていたからだろう。質素倹約を命じているのも、意次が失脚した以上、今後は賄賂が望めないからである。意次本人はさておき、意次の家臣たちが他の権門よりも派手に賄賂を受け取っていたことは確実である。

田沼意次の権勢が絶頂にあった天明四年に、意次の嫡男で若年寄を務めていた意知が旗本の佐野政言に江戸城中で斬りつけられ、その傷がもとで亡くなった。世間の人々は佐野政言を「世直し大明神」と称賛し、佐野の墓に押し寄せた。

その一方で、意知の葬列に対しては町人が石を投げて悪口を浴びせかける始末であった。その背景には、米価の高騰に無策な田沼政権への不満があったと思われる。意次の悪評は、意次失脚後に松平定信ら反対勢力によって捏造されたものではなく、失脚前から形成されていたのである。

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