NHKのニュースや番組をつくっている私たちが取材に込めた思いや取材手法などをお話します。一緒に「取材ノート」をつくっていきましょう。サイトはhttps://www.nhk.or.jp/d-navi/note/ 利用規約はhttps://nhk.jp/rules

突き上げるような衝撃の後、視界が激しく揺さぶられた。周囲の建物がきしみ、「もうやめて」と泣き叫ぶ女性の悲鳴が響く。取材で「死」の恐怖を感じたのは初めての経験だった。 4月14日夜に熊本県を襲った激震を受け、取材班の一員として翌15日朝、現地入りした。睡眠不足で取材に追われていた16日未明、熊本市中心部の繁華街で「本震」に遭遇したのだ。 阪神大震災(平成7年)級の揺れが2回にわたり発生するという前代未聞の事態。直接死や関連死などを含めた犠牲者は計150人以上。東日本大震災(23年)以来の大災害だった。 被災地では、避難所でなく自家用車で夜を明かす「車中泊」が相次ぎ、エコノミークラス症候群などの二次被害も発生した。「また揺れが来るのではないか」という不安が、復興への足かせになった感は否めない。 半年後の10月中旬、最も大きな被害が出た同県益城町(ましきまち)を訪ねた。崩れた家屋があちこちに放置
浦安市の鉄鋼通り周辺を自転車で走っていて感じたのが、行きかう人々がみな大きなマスクをしている、ということ。花粉症のシーズンだから当然、と言ってしまえばそれまでだが、この場所では別の理由があった。噴出した泥砂が乾燥し、あたり一面を白く覆っているため、鼻の奥の粘膜にも何かが張り付くような不快感があるのだ。「マスクをしてくればよかった!」と後悔したが、持っていないものは仕方がない。ただ、タートルネックのセーターを着ていたため、これを鼻まで引き伸ばすことでマスク代わりにすることができた。 鉄鋼通りの取材を終え、続いて向かったのが浦安市役所。JR京葉線の高架と平行している県道276号線を北東に進む。途中で左側に見えた富岡交番は衝撃的だ。なんと液状化により交番が傾き、出入り口の下部分が土の中に沈んでいるのだ(1)。 さらにまっすぐ進むと、境川という小さな川の手前に、順天堂大学医学部付属浦安
計画停電による影響で運行予定が大幅に乱れまくっており、たとえ出社できても帰宅できない可能性があるわけですが、そもそも電車が動いていてもホームにすら入れないであるとか、駅の改札で入場規制中であるとか、かなり大変な事態になっていることが続々と現地からアップロードされている写真で判明してきました。 現地からの写真は以下から。 これが京急の乗車待ちの列。 on Twitpic 目黒駅、激混み! on Twitpic 三鷹駅の惨状。駅前ロータリーまで人が溢れてるorz on Twitpic 荻窪駅入場規制中 on Twitpic 駅に入るのに並んでるわ。 on Twitpic 京王線つつじヶ丘駅満杯です。 on Twitpic 吉祥寺。。。 on Twitpic 鷺沼駅。暗いのは全部人。全く動く気配なし。 on Twitpic 京王八王子に来たものの、駅大混雑で駅の外まで列が。入場制限(二列) on
地震の当日、3月11日の夜。 午後10時を過ぎたころ、ホテルの方がロビーに小さなテレビを設置してくださった。 私を含め、この時点では何が起こっているのか全く理解できてなかった人達が、寝ていた床からゆっくり起き上がってテレビの周りに集まった。 私もくるまっていた毛布から出て見にいった。 午後 2時 46分に地震があってから 7時間後、初めて情報らしい情報に触れたのがこの時だった。 テレビは信じられない映像を流していた。 文字通り一瞬のうちに津波で流される街。 興奮したヘリコプターからのレポーターの声。 衝撃だった。 テレビを見始めた人はみなひとつの声もあげず、誰も彼も沈黙して画面を凝視していた。 中には、見ていられなくなってテレビの前を離れる人もいた。 津波に飲み込まれる街を見ながら、神戸の地震を思い出した。 あの時も私はテレビを見ていた。 早朝に地震があって、東京にいた私は仕事の最中もずっ
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