NHKのニュースや番組をつくっている私たちが取材に込めた思いや取材手法などをお話します。一緒に「取材ノート」をつくっていきましょう。サイトはhttps://www.nhk.or.jp/d-navi/note/ 利用規約はhttps://nhk.jp/rules

伊勢志摩国立公園内に浮かぶ三重県志摩市の渡鹿野島(わたかのじま)。漁業と観光業が主な産業で、周囲約7キロ、約180人余りが暮らす小さな島はかつて「売春島」と呼ばれた。長年、風評に苦しめられてきた島だが、10月に初めて修学旅行生が島内に宿泊した。住民らは対岸と結ぶ渡り船から下船する修学旅行生を歓迎。「島の歴史が変わる一日」。そんな声が聞こえるなど、島のイメージを変えたいという思いが伝わる。 伊勢志摩国立公園に浮かぶ渡鹿野島。上空から見るとハートの形に見える(福寿荘提供)10月13日夕、同市内での真珠加工、滋賀県内での信楽焼づくり、シーカヤックなどを体験するため4グループに分かれていた大阪府立長吉高校(大阪市平野区)の2年生約120人が分乗した渡し船が渡鹿野島の港桟橋に到着した。生徒たちが下船すると、地元の観光関係者、志摩市のPRキャラクター「しまこさん」の着ぐるみなどが拍手と笑顔で出迎えた。
スレッドにします。 『無人島の半世紀』緑が生い茂るこの島に、多くの暮らしがあったことは想像できるだろうか。立ち並ぶ家屋、広がる畑、学校と校庭、過去の航空写真に見える暮らしの姿は、何処にも残っていないのだ。人々が集団離島してから半世紀を迎える無人の島。牛深市『大島』の今を記録する。 1975年と2014年の航空写真。あまりの変わりように驚いた島がある。熊本県牛深市(現・天草市)中心部の西方に位置する大島。『うしま』とも呼ばれ、多い時には400人近くの人口があった。しかし、S.49年12月5日を境に、大島に住む人はいなくなった。過去の航空写真に写る町並みはどこに消えたのか。
高齢者の問題として話題になることが多かった「孤独死」だが、単身世帯(一人暮らし)が全年代で増えているいま、年齢を問わない問題になりつつある。そして2020年7月には、遺品整理や特殊清掃を行う株式会社ToDo-Companyから「オタクの孤独死が急増」と発表されたのを目にして、落ち着かない気持ちになった一人暮らしの人も少なくないだろう。俳人で著作家の日野百草氏が、好きなものに囲まれてこの世を去ったオタクの死について考えた。 * * * 「葉月のやつ、まだブラウン管だったのか、最期まで変わらないな」 限りなく埼玉に近い東京都区部、親御さんの許可をいただき見慣れたアパートの一室に入る。もう20年以上前か、このアパートでネオジオの格闘ゲームに興じたり、古いアニメを見てはああでもない、こうでもないと一晩中語り合ったのは。部屋の中は驚くほど変わっていない。時が戻ったみたいだ。このアパートの住人は、葉月
10歳だった。 その時ぼくは、まだ「ソビエト連邦」だったモスクワにいた。 そこで見たのは、「国」というものが劇的に変化する瞬間だった―― 外務省が公開した6000ページにのぼる外交文書。外交官たちの生々しい報告が、私をあの時代に連れ戻した。そして私は、何が起きていたのかを初めて実感した。 (政治部・渡辺信) その書き出しは、文学的だった。 『BUKSOVAT(空転する)。2年1か月のモスクワ在勤を終え帰国する日、空港の暗い待合室で搭乗を待ちながら、ふと、この単語が頭に浮かんだ。ゴルバチョフの始めたペレストロイカを、ひと言で総括するとすれば、まさに「空回りしている」というのが適当ではなかろうか』 1987年11月の「ソ連在勤を終えて」という報告書の冒頭だ。書いたのは、モスクワの日本大使館の政務班長だった角崎利夫氏。これまで私が読んできた硬い外交文書とは異なる表現で、1985年に書記長に就任し
どうですか?こんにちは、まきのです。 浅草の仲見世商店街からちょこっと横の通りに入ったところにあるプロマイド専門店「マルベル堂」でこういう写真を撮ってもらえるんです。 店内には所狭しと往年のスターのプロマイド写真が並んでいて、大正10年開業から96年の歴史を感じさせます。 映画俳優からプロレスラー、男性アイドルに女性アイドルなど、昭和を彩った人々が、あの時と変わらぬ姿で微笑んでいます。とにかくものすごい数! せっかくなので、そんなプロマイド写真の老舗「マルベル堂」店長の武田さんに、プロマイドにまつわるエトセトラを聞いてみました。 伝統あるプロマイドの世界とは 「今日はお時間いただきましてありがとうございます!」 「はい!全然問題ありませんよ」 「いきなりなんですけど、『ブロマイド』じゃなくて、『プロマイド』なんですね。ずっと『ブ』だと思ってました」 「これはどっちも間違いではなくて、『ブロ
かつてインターネットで一世を風靡したテキストサイト、別名日記サイトの歴史を知ろう。 「侍魂」「兄貴の館」「ろじっくぱらだいす」「一流ホームページ」「かまくら」「オレイズム」……。ネットで日記を書いているだけでモテる時代がかつて存在した!? こんにちは。ヨッピーです。皆さん、同窓会はしてますか? 元同級生や部活の仲間など、久々に会う仲間たちと懐かしい話に花を咲かせるのは楽しいものです。 そんな「同窓会」を後押ししようと、ビールの定番としてお馴染みのキリン一番搾りが「同窓会メーカー」というサービスを開始しまして、このサービスのPRのために「同窓会をやってほしい」と依頼されました。 同窓会メーカーはテーマを決めて仲間と気軽に同窓会が開け、予定調整まで出来るWEBサービス。会の後も集合写真を加工できる同窓会カメラで盛り上がれるそうだ。その同窓会メーカーの中身を見てみると、「え?それって同窓会なの?
こんにちは。 野田クラクションべべーです。(@nodaklaxonbebe) 今回は、京都大学にある日本最古の学生寮「吉田寮」にきています。 ・ ・ ・ 圧倒的なジャングル感。 マネキンアートと自然と対話している、アートネイチャー感。 使えなくなったトイレをアーティスティックに変えるクリエイティブ感。 くじゃく。 ・ ・ ・ ふぅ。 ・ ・ ・ 怖いです。 ただ、「ここに住んでいる人の話が聞きたい」という興味が湧いたので、実際に泊まってみることにしました。 ・ ・ ・ こちらが受付です。 大きな声であいさつをして、近くにいる人に「ここに泊まらせてください」というと手続きをしてくれます。 やることは2つ。 ・名前と連絡先を書く。 ・料金を200円払う。 以上です。 その後、お部屋に案内されました。(撮影はできなかったので、絵で表現しています) 基本的には、好きなところで自分らしく寝ていいんだ
「ブラタモリ」が大阪にやってきた。 【ご報告】 大変光栄な事に案内人の1人として出演しております。 最初に連絡をいただいたのは真夏の7月。はじめてお会いしたディレクターさんは女性の方で、炎天下の中を午前中から日が暮れるまで上町台地を中心に、空堀商店街や真田丸跡、通天閣などを2日間ご案内しました。歩数を確認すると25,000歩と30,000歩。よく歩きました。その後、8月後半にもう1人のディレクターさんが加わり、その方もご案内しました。その時は1日でなんと38,000歩。今回は私以外にも大阪の歴史をずっと研究されている方々も案内人として出演されます。ブラタモリの台本はこのディレクターさん達が自分の足で歩き、調べ、様々な方とお会いして話を聞き、作り上げています。プロデューサーの方々は、その台本をさらに良くするためにアドバイスをし、撮影から仕上げまでのすべての責任を持たれています。 この番組の特
姫路モノレールは1966(昭和41)年5月に開業。JR(当時は国鉄)姫路駅付近から、姫路大博覧会の会場であった手柄山までの約1.8kmを結ぶものだった。当時の急激な自家用車の普及による渋滞問題を解決するための市街地と郊外を結ぶ足として発展させる計画もあったようだが、結局1974(昭和49)年に休止、1979(昭和54)年に廃止となった。 運行当時の様子がうかがえるパネルのうち、左上の写真に写っているのは「大将軍駅」という駅である。アパートのビル直結という大胆な発想とデザインだ。たったの8年間しか運行しなかった姫路モノレールだが、この大将軍駅は更にそのうちのたった2年間しか営業せず、あとは通過駅扱いとなってしまったという。 その「大将軍駅」の跡であり、かつ現役で住人がいた高尾ビルも、老朽化と耐震性を理由に取り壊しが決定したという。そのような中で、関係者の尽力もあってこの大将軍駅跡が特別に一般
トリドールグループの晩杯屋、酎ハイ3杯(750円)をケチろうとしてきたカスハラ客をお店とSNS上のダブルで返り討ちに
本記事は移転しました。 約1秒後にリダイレクトします。 リダイレクトしない場合はここをクリックしてください。
汐見橋駅[南海](大阪市浪速区)~100年超の歴史を持つ高野線公式の終着駅だが、都会の喧騒から取り残されレトロ感満載の大阪ミナミの秘境駅~ 2015/8/29 2016/2/3 南海[大阪] 高野線の前身高野鉄道により1900年(明治33年)開業。当時別会社であった南海本線と並行するとの理由で難波延伸の許認可が下りなかったために、大阪側のターミナル駅を難波至近に自力で設置された、頭端式1面2線の地上駅。 当時は高野山方面への列車が発着するターミナル機能を有していたが、南海鉄道(現南海本線)との合併を経て、1929年(昭和4年)に高野線全列車が高野鉄道当時の悲願であったなんば発着に変更。 その影響で、汐見橋ー岸ノ里間が1929(昭和4)年に事実上支線化され、当駅はローカル線の寂しい終着駅の地位に格下げとなる。 現在でも高野線公式の終着駅だが、100年以上の歴史を有するレトロ感満載の駅舎から2
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く