☆Taku Takahashi & TJO が世界中から集めたまだ発売されていないエクスクルーシヴチューンや、これからのクラブフロアを賑わすであろう最新キラーチューン等を紹介、また注目のDJ/アーティスト達によるここでしか聴けないインタビュー等も数多くフィーチャーしているプログラム。
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こたつちゃんへ お手紙を書こうと思ったのだけど、かいぬし手書きのお手紙書くのがものすごくへたくそなのと、今のこたつちゃんならもしかしたらインターネットも見れちゃうかもしれないので、ここに書きますね。 こたつちゃん、生まれて半日の状態で初めて対面しましたね。おかあさんが、どんなに「我が子を踏まないように寝返りを打とう」とうしろに気を付けて気を付けて座っても、そのときあなたは何故か巧妙におかあさんに踏まれていました。 生まれた時のあなたは、3匹生まれた仔猫たちのなかで一番小さかったし、他のねこと違ってなかなかうまくおっぱいにありつけなくて、当時の飼い主であった友人の「このこたつ(※「こたち」のミスタイプ)のなかで一匹だけ、生きていけるか不安なのがいる…」という一言であなたの名前は「こたつ」になりました。 しかしその心配をよそに、どんくささはそのままに、あなたはごはんをもりもりと食べ、気が付いた
会津大学で教員をされている社会学者の吉良洋輔さんが、2018年9月16日に亡くなりました。31歳でした。 本来、同じ職場である会津大学の先生方や、あるいは東北大の行動科学研究室の方、またPDの受入先であった東京工業大学のVALDESの方々、数理社会学会の会員の先生方といったような、もっとお近くにおられる方がたくさんいると思うので、私などに彼を悼む権利があるのか、そしてこうして文章を書くのが良いことなのかどうなのか、分からないままですが、彼はとても大事なことを私に教えてくれた友人のおひとりですので、こうして書こうと思います。 ある一時期、私はすごく初歩的ですが社会ネットワーク分析にハマっていて、博論で使おうと試行錯誤している中、東京を中心に活動していた数理社会学研究会の先生にお誘いいただき、月に一回参加させていただいていました。2013年の春にそこでご発表されていたのが、当時おなじ博士課程三
これは追悼文ではない。いま私は腹を立てている。岡本顕一郎氏が亡くなったと聞かされて腸が煮えくり返っている。混乱している。本当は悔しくて悔しくてどうしたらいいのか分からない。それでも「人気ブロガーが刺されて死亡」などの見出しを見ると、おかしな誤解が増えるのではないかと不安になる。「あれだけ無謀な活動をしていたのだから本望だろう」みたいな意見を見ると叫びたくなる。いま私は、私の知っている岡本顕一郎氏がどんな人だったのかを誰かに聞いてほしくて仕方ない。仕方ないから書いてる。これは追悼文じゃない。ただの八つ当たりだ。書き殴りだ。構成も何も考えてない。間違いなく読みづらいものになる。ぐちゃぐちゃになる。その点を先に謝っておきたい。 自分が故人とどれだけ仲良しだったのかをアピールするつもりはない。長い付き合いのある仲間だったと言うつもりもない。彼のことは何でも知っているとか少しも思わない。私は、ただ岡
彼女から突然の連絡が来たのが6月末でした。 私達は共演も多く普通に親しくはありましたが プライベートで遊ぶような仲では無かったので 何故自分に連絡があったのか不思議に思いながら 話しているうちに納得しました。 最近まで入院治療を経験していた私が、病気の件に関しては話しやすかったんだと思います。 一緒に泣きました。 何で私達みたいに頑張ってる人間に来るんだろうなぁ。 病気って本当に平等で嫌だなぁーって。 最後の方は半切れで笑いながら泣きました。 皮肉だけど私達を近づけたのは病気です。 それから毎日、買ったばかりの格安スマホでラインとやらをしました。 暇だから1日1時間くらいしました。おかげで量が半端ない。 どんなに体がしんどくても毎日何かしら笑わせようとしてくる彼女がどんどん好きになりました。 愛してる!結婚しよう! 私も愛してる!だが断る! 私とあの娘どっちを選ぶの!? どうしたキメ(投薬
これから書く文章の中には、読者のみなさんにとって、不愉快に感じられる箇所があるかもしれない。そのことをお許し願いたい。 わたしは大学を卒業していない。入学したが、わけあって大学を離れた。親や友人との交際も絶って、肉体労働をしながら、小さな小さな世界で生きた20代だった。 20代の終わり頃、腰を痛め、肉体労働もできなくなった。妻子とも別れ、養育費を送る身だったのに、金を稼ぐ術を失った。おまけに、ひどいギャンブル依存症になっていた。つてをたどり、やれる仕事は、他人にはいえないようなものでもやった。その一つが「女衒(ぜげん)」だった。簡単にいうなら、売春の斡旋である。 インターネットなどなかったから、三流夕刊紙に、内容をほのめかした広告を出す。男たちが電話をかけてきて、その男たちに女の子を紹介する。そんな、ヤクザがやっている商売の一番下っぱの仕事をした。わたしは、もっぱら新大久保のラブホテルに女
鶴見さんが、とうとう逝かれた。いつかは、と覚悟していたが、喪失感ははかりしれない。 地方にいて知的に早熟だった高校生の頃から「思想の科学」の読者だったわたしにとって、鶴見さんは遠くにあって自(おの)ずと光を発する導きの星だった。 京大に合格して上洛(じょうらく)したとき、会いたいと切望していた鶴見さんを同志社大学の研究室に訪ねた。「鶴見俊輔」と名札のかかった研究室の扉の向こうに、ほんものの鶴見さんがいると思ったら、心臓が早鐘のように打ったことを覚えている。おそるおそるドアをノックした。二度、三度。返事はなかった。鶴見さんは不在だったのだ。面会するのにあらかじめアポをとってから行くという智恵(ちえ)さえない、18歳だった。 あまりの失望感に脱力し、それから10年余り。「思想の科学」の京都読者会である「家の会」に20代後半になってから招かれるまで、鶴見さんに直接会うことがなかった。それほど鶴見
A Sister’s Eulogy for Steve Jobs モナ・シンプソン (Mona Simpson) 2011年10月30日 私は母子家庭の一人っ子として育てられました。 貧しかったので、そして父はシリアからの移民だと教えられていたので、 父については、オマル・シャリフのような人ではないかと想像していました。 裕福な人であればいいなと、いつか私たちの(いまだに家具も揃っていない)家に迎えに来てくれればいいなと思っていました。 のちに面会したとき、私は、父は理想に燃える革命家で、アラブの新世界を導く人だったのだと、 だから転送先を残さずに住所を変えてしまったのだと思い込もうとしました。 私はフェミニストでありながら、自分が愛せる、自分を愛してくれる人を長いあいだ探していました。 二十数年間、父がその人なのだろうと思っていました。 25歳になってその人に出会いました。 それが兄でし
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