いわゆる「イエロージャーナリズム」が全盛だった19世紀後半、ニューヨークで働く新聞記者はどんな社会的評価を受けていたのだろうか。1860年代の批評家は「英語を書けない、いつも安酒の臭いを漂わせている、きれいなシャツを着たためしがない---これが新聞記者の通り相場」と皮肉っている。
ジャーナリズム研究者のジェームズ・ボイランは自著『ピュリツァーズ・スクール(ピュリツァーの大学)』の中で、当時の新聞業界について「安くて使い捨て可能な労働力が豊富にあった」と書いている。
〈 言い伝えによれば、新聞経営者が新聞記者の戦力として頼ったのは、たたき上げの印刷工をはじめとした労働者階級だ。しかし実際には、まともな職に就けないはみ出し者が新聞記者として重宝されたようだ 〉
つまり、19世紀後半のアメリカでは新聞記者はお世辞にも「知的労働者」とは呼べなかったのだ。どちらかと言えば労働者階級出身の「肉体労働者」というわけだ。
こんな新聞記者が支えていたのがイエロージャーナリズムである。当時のアメリカでは、新聞紙面上では事実上のでっち上げや偏向報道が横行していた。中心舞台はニューヨーク。ここでニューヨーク・ワールド紙とニューヨーク・ジャーナル紙がセンセーショナルな紙面を作り、販売部数拡大に向けて熾烈な競争を繰り広げていた。
2紙による部数拡大競争からイエロージャーナリズムという言葉が生まれた。黄色い服を着た少年が登場する漫画「イエローキッド」を2紙が競い合って掲載したことから、センセーショナリズムを売り物にする新聞の代名詞として使われるようになった。
アメリカの新聞界はどうやってイエロージャーナリズムから脱したのか。専門的な記者教育に入れたことが一因だ。主導的役割を果たしたのがワールド紙の社主ジョセフ・ピュリツァーだ。
イエロージャーナリズムのレッテルを張られたピュリツァーは心を痛めた。新聞の品位を落としてしまったことを悔いていたし、ジャーナル紙の社主ウィリアム・ランドルフ・ハーストと同列に語られることにも我慢がならなかった。『ピュリツァーズ・スクール』によれば、ハーストを「軽薄」「無節操」と見なしていたのだ。
ピュリツァーはすでに視力を失い、自分の死後も視野に入れていたことから、自分の名誉を回復するためにはどうしたらいいのか真剣に考えるようになった。ここから、専門職業人として高度な能力と倫理観を備えたジャーナリストを育成するためのジャーナリズムスクール構想が生まれた。
ピュリツァーは一九〇四年、雑誌「ノース・アメリカン・レビュー」上で具体的な構想を公表している。「ジャーナリズムスクールを設ければ、本物と偽物のジャーナリストを区別できるようになる。偽物とは、新聞を売ることしか考えず、教養も信念も欠けているジャーナリストのことだ」と宣言している。4月21日付の当コラムでも触れたが、次のように書いている。