削除された内容 追加された内容
各地の寺子屋: 加筆・資料追加
m Cite web|和書における引数修正・アーカイブ追加もしくはテンプレート変更
 
(20人の利用者による、間の33版が非表示)
10行目:
寺子屋の起源は、[[中世]]の寺院での学問指南に遡ると言われる<ref>ただし、それ以前の[[奈良時代]]や[[平安時代]]に民間の学問施設が全くなかった訳ではない。平安時代中期に書かれた『[[叡山大師伝]]』([[最澄]]の伝記)には「村邑小学」という村の子供が通った学問施設が登場し、また[[考古学]]の進歩によってこの時期に作られた[[墨書土器]]も出土していることから、民衆全てが文字を知らなかったとは考えにくい。[[久木幸男]]は[[戸籍]]作成や[[班田収授]]などを実施して[[律令国家]]を成立させるために必要な人数を元にして、[[王朝時代|古代]]日本には最低でも官民合わせて3.7-7.4%の[[識字率]]が存在したと算定している(久木幸男『日本古代学校の研究』([[1990年]]、[[玉川大学]]出版部) ISBN 4-4720-7981-X)。ただし、古代の学問の指南には不明点が多く、寺子屋の発生との関連性が不明である。</ref>。その後、江戸時代に入り、商工業の発展や社会に浸透していた[[文書主義]]などにより、実務的な学問の指南の需要が一層高まり、江戸時代中期([[18世紀]])以降に益々増加し、[[江戸幕府|幕府]]御用[[銅山]]経営、[[西江邸]]内には江戸中期創建の[[手習い]]場が現存している。特に江戸時代後期の[[天保]]年間([[1830年代]])前後に著しく増加した。[[1883年]]に[[文部省]]が実施した、教育史の全国調査を編集した『日本教育史資料』([[1890年|1890]]-[[1892年]]刊 二十三巻)による開業数の統計では、寺子屋は[[19世紀]]に入る頃からさらに増加し、幕末の[[安政]]から[[慶応]]にかけての14年間には年間300を越える寺子屋が開業している。同資料によると全国に16560軒の寺子屋があったといい、江戸だけでも大寺子屋が400-500軒、小規模なものも含めれば1000-1300軒ぐらい存在していた。また経営形態も職業的経営に移行する傾向を見せた。[[幕末]]に内外の緊張が高まると、浪人の再就職(仕官)が増えた事により、町人出身の師匠の比率が増え、[[国学]]の初歩である[[古典]]を教える寺子屋も増えるなど、時代状況に応じて寺子屋も少しずつ変化を遂げて行った。
 
[[1872年]]に[[学制]]が敷かれると、[[明治時代|明治]]政府は校舎建設や教員養成の追いつかない初期の[[小学校]]整備にあたって、既存の教育施設である寺子屋を活用した<ref>{{citeCite web|和書|title=四 小学校の普及と教育状況|publisher=文部科学省|accessdate=2020年3月-03-15|url= https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317590.htm}}</ref>。[[地方自治公共団体|地方政府]]は寺子屋の調査を行い、師匠の旧身分などを記した調査書を作成し、適当な者を小学校の教師として採用した。学制では小学校の教員資格は「小学教員ハ男女ヲ論セス年齢20歳以上ニシテ[[師範学校]]免許状或ハ中学免許状ヲ得シモノ」と定めていたが、仮教員として採用されたのち、教員講習所で講習を受ければ正規の教員となることができた<ref>日本最初の女性教師と言われる[[黒澤止幾]]の前身は寺子屋の師匠であった。また学制発布後の数年間も小学校として使用された、彼女の寺子屋の建物が2010年時点で[[茨城県]]内に現存している。</ref>。また大規模な寺子屋はそのまま初期の小学校として使用された。
 
== 寺子屋の詳しい方内容 ==
== 形態 ==
=== 課程 ===
寺子屋はまったくの私的教育施設であり、一定した就学年齢は存在しない。これは現代で言う[[無学年制]]の[[フリースクール]]と同様である。筆子は下はおよそ9-11歳から通い始め13~18歳になるまで学ぶなど、幅広い年代層の者がいた<ref>『日本のもと 学校』45頁。</ref>。
 
寺子屋は年齢による一斉入学・一斉進級ではなく、入学時期や進級時期について一般的な決まりはなかったが、地域や学校によって異なっていた<ref name="nli">{{Cite web |和書|url=https://www.nli-research.co.jp/files/topics/61449_ext_18_0.pdf |title=日本の学校はなぜ4月に新しい学年がスタートするのか? 諸外国はどうか?|publisher=ニッセイ基礎研究所|accessdate=2020-11-30}}</ref>。寺子屋への入学は家の慶事とされており、気候の良い春先の入学が多かった<ref name="nli" />。進級も基本的に個人の能力に合わせて進級する仕組みだった<ref name="nli" />。
 
卒業時期や修学期間も特に定まっていなかった。1校当たりの生徒数は、10-100人と様々であった。
 
=== 教員 ===
明治初期、[[東京府]]が小学校整備のため実施した寺子屋の調査書に、寺子屋の教師(師匠)726名分の旧身分が記録されている。多いのは平民(町人)で、雑業、農民、商人などの江戸の町人で、次に多いのが[[士族]]である。女性の師匠も86名が記載されていたおり、[[麹町]]の[[土肥丈谷]]や[[黒川惟草]]の門下の者が見られる。一方で地方によっては士族の教師が最も多い地方や、平民に次ぎ[[僧|僧侶]]の教師が多い地方も存在していた<ref>{{Cite web|和書|url=httphttps://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317577.htm|title=一 幕末期の教育:文部科学省|publisher=文部科学省|accessdate=2017-101-14}}</ref>。
 
例えば、備後国深津郡の川口・多治米地域を例にとると、幕末期には合計7ヶ所(ただし、そのすべてが同時に存在したわけではない)の寺子屋が存在し、師匠の内訳は、庄屋1人、村役人2人、医者1人、僧侶2人、その他1人であった。
30行目:
 
== 教育内容 ==
寺子屋にて指南された学問は「いろは」は方角・十二支などからはじまり、「読み書き[[算盤]]」と呼ばれる基礎的な読み方・[[習字]]・[[算数]]の習得に始まり、さらに[[地理学|地理]]・人名・[[書簡]]の作成法など、実生活に必要とされる要素の学問が指南された。教材には『[[庭訓往来]]』『[[商売往来]]』『[[百姓往来]]』など往復書簡の書式をまとめた[[往来物]]のほか、[[漢字]]を学ぶ『[[千字文]]』、人名が列挙された『[[名頭]]』『[[苗字尽]]』、地名・地理を学ぶ『[[国尽]]』『[[町村尽]]』、『[[四書五経]]』『[[六諭衍義]]』などの[[儒学]]書、『[[国史略]]』『[[十八史略]]』などの歴史書、『[[唐詩選]]』『[[百人一首]]』『[[徒然草]]』などの古典が用いられた。中でも往復書簡を集めた形式の書籍である往来物は特に頻用され、様々な書簡を作成する事の多かった江戸時代の民衆にとっては実生活に即した教科書であり、「往来物」は教科書の代名詞ともなった。また、手習師匠が自身で教材を作る場合もあった。
[[1711年]]には幕府から寺子屋の手習師匠に九ヶ条のふれを出して寺子屋を統制しようとした。
 
== 教育水準 ==
江戸期に寺子屋による学問の指南が一般町人の間に定着しており、江戸時代ないし明治初期における日本の都市部の[[識字|識字率]]は世界的にも高い水準にあった。江戸における[[嘉永]]年間([[1850年]]頃)の[[就学率]]は70-86%といわれており、[[イギリス]]の主な[[工業都市]]で20-25%([[1837年]])、[[フランス]]で1.4%([[1793年]])、[[ロシア帝国]]時代の[[モスクワ]]で20%([[1850年]])などの外国に比べ就学率が格段に高かった<ref>石川英輔『大江戸生活事情』(講談社文庫、[[1997年]])</ref>。ヨーロッパでは当時、伝統的な家庭教育が一般的で組織化された教育システムなどは未成熟だった。イングランドでは1831年の時点で男66%、女50%、さらに未就学児童を含めた全人口の3割が読書人口、つまり自分の姓名の筆記以上の複雑な文書を理解していたことになる。<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.f.waseda.jp/yukis/hpb/hpb2011.7.html|title=西洋古版本の手ほどき 2011 No.7|accessdate=2018/3/-03-31|publisher=}}</ref>
 
識字率、就学率は必ずしも均一ではなく、確実な名簿の残る[[近江国]][[神崎郡 (滋賀県)|神崎郡]]北庄村(現・[[滋賀県]][[東近江市]]宮荘町)にあった寺子屋の例では、入門者と人口の比率から、幕末期に村民の91%が寺子屋に入門したと推定され、[[1877年]]に同県で実施された調査では「6歳以上で自己の姓名を記し得る者」の比率は「男子89%、女子39%」である。一方で鹿児島県や青森県では格段に識字率が低い水準にあった。
 
== 各地の寺子屋 ==
 
=== 愛媛県 ===
 
「久万町誌」<ref>{{Cite web|title=データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム|url=http://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:3/55/view/13309|website=www.i-manabi.jp|accessdate=2021-11-10}}</ref>(愛媛県)では、次のように記している。<blockquote>幕末から明治初期にかけて開設されていた寺子屋は上浮穴で三九か所あり、久万町には父二峰に三、久万に六、川瀬に四、明神に四の計一七か所あったようである。この寺子屋では'''中流以上の男子が、読み、書きを中心に儒学などを習っていた'''が、この寺子屋に通えない人たちは、通っている人たちから夜間、又習いをしていたようである。老人の思い出話によると「私らは、紙を買ってもらえないので、おぜんに灰を入れて書いては消し書いては消しして習った」ということである。</blockquote>愛媛県教育会編「愛媛県教育史. 前編」<ref>{{Cite book|和書|title=愛媛県教育史. 前編|year=1938|publisher=愛媛県教育会|pages=438-439|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1440431/242}}</ref>(1938年)では次のように述べる。<blockquote>遠く文禄、慶長に始まり、享保以降僅かに発達の緒に着き、文化文政以後漸次盛となり、天保以後明治初年に最盛期となり、夫より順次廃止の道途を辿って、各地に新教育令に依る小学校が設けらるおなじに到って、全廃せられたものである。</blockquote>
 
=== 奈良県 ===
奈良県については、梅村佳代によると「(吉野郡で)最も早いものは寛永16年(1639)に既に開業が確認されていて」「高市郡では明和4年(1768)と寛政元年(1789)に開業されている」「19世紀の初期の文化・文政期に葛下・添下・式下・宇陀各郡の開業が散見できるのであり、本格的には、天保期から明治期に寺子屋開業熱の高揚があったと言えよう」<ref>{{Cite journal|author=梅村佳代|year=1995|title=大和地域の庶民教育の実態 -寺子屋・私塾の事例を中心として-|url=http://hdl.handle.net/10105/1628|journal=奈良教育大学紀要. 人文・社会科学|volume=44|issue=1|pages=161-177(p.165)|ISSN=05472393}}</ref>
 
=== 兵庫県 ===
明石郡(今の神戸市・明石市の一部)教育会「明石郡教育誌」<ref>{{Cite book|和書|title=明石郡教育誌|year=1926|publisher=明石郡教育会|pages=12-16|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/937221/16}}</ref>(1926年)は次のように記している<blockquote>〇垂水村
 
本村の寺子屋は、西垂水に二ヶ所、東垂水、塩屋、下畑、奥畑、中山、東名、西名、山田に各一ヶ所、合計十ヶ所あった。最も早やかったのは、文化年間(1804~1818)に開始したものである。…
 
1.設備
 
教室として別に建設したものは、山田の薬師町邸内に三十余坪の一棟あったのみで、其の他は寺院の一部又は師匠の家を仮用したものである。高い所に在って眺望のよい所もあり、又底い所に在って衛生上如何はしい所もあった。備品としては何一つもなく、只弟子が寺入する際に、机、文庫、学明〔ママ〕品を持って行き、何れも座って勉強したものであった。
 
2.師匠
 
師匠の身分は、僧侶、医師、大庄屋、庄屋、其の他篤志家であった。其の一例を本村記事の終りに一覧表として示す。
 
師匠に対する束修は、盆、正月、五節句等にそれぞれ謝礼を呈したものである。
 
3.弟子
 
弟子は普通農家の中産以上の子弟で、八、九歳の頃から父兄に連れられて、寺入したものである。其の時師匠に対しては勿論、弟子達に対しても何か相当の手土産を持参したものであった。…</blockquote>
 
== ユネスコ世界寺子屋運動 ==
寺子屋を世界中に普及させる運動が、公益社団法人日本ユネスコ協会連盟により主催されている。世界識字教育運動の1つであるユネスコ世界寺子屋運動(World Terakoya Movement)である。
 
様々な理由により教育を受けるチャンスの無かった成人や子どもたちに教育のチャンスを提供することを目的としている。[[1990年]]の[[国際識字年]]を契機に始まった。寄付のほか、書き損じ[[葉書]]を換金したものなどを資金とし、途上国でコミュニティ・ラーニング・センター(寺子屋)を設立し初等教育を施している<ref>{{citeCite web|和書|title=「ユネスコ世界寺子屋運動30周年について」新聞掲載されました|publisher=公益社団法人日本ユネスコ協会連盟| date=2019年5月-05-27|accessdate=2020年3月-03-15|url= https://www.unesco.or.jp/activitiesitem/terakoyaitem/3187/}}</ref><ref>{{citeCite web|和書|title=民間ユネスコ活動/公益社団法人日本ユネスコ協会連盟|publisher=文部科学省|accessdate=2020年3月-03-15|url= https://www.mext.go.jp/unesco/007/001.htm}}</ref>。
 
== 脚注 ==
pFad - Phonifier reborn

Pfad - The Proxy pFad of © 2024 Garber Painting. All rights reserved.

Note: This service is not intended for secure transactions such as banking, social media, email, or purchasing. Use at your own risk. We assume no liability whatsoever for broken pages.


Alternative Proxies:

Alternative Proxy

pFad Proxy

pFad v3 Proxy

pFad v4 Proxy