ロジェ・マルタン・デュ・ガール

フランスの小説家 (1881-1958)

ロジェ・マルタン・デュ・ガール(Roger Martin du Gard, 1881年3月23日 - 1958年8月22日)は、フランス小説家である。小説以外には戯曲も書いた。代表作は『チボー家の人々』であり、1937年、『チボー家の人々 第7部 1914年夏』によりノーベル文学賞を受賞した。

ロジェ・マルタン・デュ・ガール
Roger Martin du Gard
誕生 1881年3月23日
フランスの旗 フランス共和国ヌイイ=シュル=セーヌ
死没 1958年8月22日
フランスの旗 フランスオルヌ県セリニーフランス語版
職業 作家
国籍 フランスの旗
活動期間 1908年 - 1958年
代表作 『チボー家の人々』
主な受賞歴 ノーベル文学賞(1937年)
デビュー作 『生成』
署名
ウィキポータル 文学
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ノーベル賞受賞者ノーベル賞
受賞年:1937年
受賞部門:ノーベル文学賞
受賞理由:"チボー家の人々"で、現代の生活のいくつかの基本的な側面のみならず、人間の葛藤を描いた芸術の力と真実に対して

生涯

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パリ市の西南西に接するヌイイ=シュル=セーヌに生まれた。法曹に携わるブルジョワ家系で、父は裁判所の代訴人であった。フェヌロン中学(Lycée Fénelon)、コンドルセ高等中学校(Lycée Condorcet、ジャンソン・ド・サイ高等中学(Lycée Janson de Saillyに学んだ。コンドルセでは、ジャック・コポーガストン・ガリマールらが同窓であった。17歳のときに読んだレフ・トルストイの『戦争と平和』で、文学に開眼した。

ソルボンヌの文学部に進んだが卒業試験に失敗し、フランス国立古文書学校に転じて考証学を学び、『ジェミエージュ僧院(Abbaye de Jumièges)遺跡の考古学的習作(Étude Arcéologique des Ruines)』を書いて、1905年に卒業した。

1906年(25歳)のとき、エレーヌ・フーコー(Hélène Foucault)と結婚し、翌年一女を得た。この頃から小説を書き始め、1908年、若者の内心的苦悩を綴った『生成』を自費出版し、1913年、ドレフュス事件を背景に思想的信仰的不安を綴った『ジャン・バロワ』により、知られるようになった。

これの上梓は、『新フランス評論』(N.R.F.)誌の中心的同人であったアンドレ・ジッドが、『新フランス評論出版社』に手引きして、以降の親交の機縁になった。N.R.F.同人のジャック・コポーが興したヴィユ・コロンビエ劇場が1914年春、喜劇『ルルー爺さんの遺言』を上演した。

1914年夏からの第一次世界大戦期は、自動車輸送班員として従軍した。

1920年(39歳)から1940年(59歳)にかけ、地方に籠もって『チボー家の人々』を書いた。出版社は、コンドルセ高等中学の同窓ガストン・ガリマールが社長を勤める、『新フランス評論出版社』の後身『ガリマール書店』であった。出版は次項に見る通り、間欠的であった。1931年には、自動車事故が原因で2ヶ月入院した。1937年には『第7部 1914年夏』にノーベル文学賞が与えられた。第一次世界大戦の破局が予感される時代を舞台に、ブルジョワ社会の精神的風土と、思想の摩擦とを描いた大河小説であった。そして完結後間もなく、第二次世界大戦が始まった。

『チボー家の人々』の邦訳は、山内義雄が、原著発行直後に着手し、1938年に第1部が出版されたが、太平洋戦争の戦中戦後の空白期があって、第8部の刊行を終えたのは1952年であった。

大戦中はおもにニースに住んでいたが、マイエンヌ県テルトル城(Château du Tertre)の自宅はナチスに占拠された。そしてブラックリストに載せられたゆえに、転々と居を移しながら、次の長編『モーモール大佐』を書き進めた。

1955年(74歳)、プレイヤード叢書版の全集に、回想録を載せた。

1958年、心筋炎の発作により、オルヌ県ベレーヌ(Bellême)近在、セリニー(Sérigny)の自宅で没した。ニース郊外のシミエ修道院(Monastère de Cimiez)に葬られた。

 
ニースのシミエ修道院の墓地にある作家の墓

同性愛の傾向があった。たとえば、1931年にルイ・ジューヴェ一座が上演した『無口な男』は好評だったものの、その面の非難も浴びた。

没後に、パリ国立図書館に保管されていた未完の『モーモール大佐』の草稿や、日記・書簡などが出版されている。

おもな作品

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訳書がある作品は太字に書く。

  • 1908年:『生成』(Devenir!)
  • 1909年:『われらのうちの一人の女』(L'Une de Nous)
  • 1913年:『ジャン・バロワ』(Jean Barois)
  • 1913年:『ルルー爺さんの遺言』(Le Testament du père Leleu)(戯曲)
  • 1922年:『チボー家の人々 第1部灰色のノート』(Les Thibaults : Le Cahier gris)
  • 1922年:『チボー家の人々 第2部 少年園』(Les Thibaults : Le Pénitencier)
  • 1923年:『チボー家の人々 第3部 美しい季節』(Les Thibaults : La Belle Saison)
  • 1928年:『チボー家の人々 第4部 診察』(Les Thibaults : La Consultation)
  • 1928年:『チボー家の人々 第5部 ラソレリーナ』(Les Thibaults : La Sorellina)
  • 1928年:『水ぶくれ』(La gonfle)(戯曲)
  • 1929年:『チボー家の人々 第6部 父の死』(Les Thibaults : La Mort du père)
  • 1930年:『対話』(Dialogue)
  • 1931年:『無口な男』(Un Taciturne)(戯曲)
  • 1931年:『アフリカ秘話』(Confidence Africaine)
  • 1933年:『老いたるフランス』(Vieille France)
  • 1936年:『チボー家の人々 第7部 1914年夏』(Les Thibaults : l'Été 1914)
  • 1940年:『チボー家の人々 第8部 エピローグ』(Les Thibaults : l'Épilogue)
  • 1951年:『アンドレ・ジッドについての覚え書 1913 - 1951』(Notes sur André Gide 1913-1951)
  • 1955年:『文学的回想』(Souvenirs autobiographiques et litteraires)
  • 1955年:『全集』(2巻)(Oeuvres complètes)、プレイヤード叢書、(前行の回想記、および、アルベール・カミュの序文を含む)

没後

  • 1968年:『アンドレ・ジッドとの往復書簡』(Correspondance avec André Gide)
  • 1980年:『1896 - 1913、書簡集1』(Correspondance générale 1 1896-1913)
  • 1983年:『モーモール大佐』(Le Lieutenant-colonel de Maumort)
  • 1992年:『日記Ⅰ 自伝風テキスト 1892 - 1919 』(Journal 1 Textesautobiographiques 1892-1919)
  • 1993年:『日記Ⅱ 1919 - 1936』(Journal II 1919-1936)
  • 1993年:『日記Ⅲ 1937 - 1949、自伝風テキスト 1950 - 1958』(Journal III 1937-1949 Textes autobiographiques 1950-1958)
  • 2006年:『書簡集Ⅹ 1951 - 1958』(Correspondance générale X 1951-1958)

主な邦訳

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映像化

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参考文献

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  • 店村新次『ロジェ・マルタン・デュ・ガール研究』三修社,1983.1.
  • R.ローザ『ロジェ・マルタン・デュ・ガール 見出された平凡性』西村太一訳.青山社,1999.4.

出典

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仏・英版ウィキペディアの当該ページ、および、外部リンクのウェブ情報のほか、

外部リンク

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