南遣艦隊

旧大日本帝国海軍の部隊の一つ

南遣艦隊(なんけんかんたい)は[1]大日本帝国海軍の部隊[2]。 南遣艦隊の符号はKFで、第一南遣艦隊は1KF、第二南遣艦隊は2KF、第三南遣艦隊は3KF、第四南遣艦隊は4KFとなる[3]。南遣艦隊を統轄する南西方面艦隊はGKF[3]

概要

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南遣艦隊(なんけんかんたい)は、1941年(昭和16年)7月に日本軍が実施した南部仏印進駐および同作戦後の東南アジア方面警備のため[4]大本営直轄部隊として7月31日付で編制された[5]。 8月11日、第二遣支艦隊より仏印以南の作戦任務を引き継いだ[6]。 10月21日、連合艦隊に編入された[2][1]。 12月8日の太平洋戦争大東亜戦争[7]勃発以後、終戦までにのべ5個艦隊が東南アジアの駐留・防衛のために編成された[8]

1942年(昭和17年)1月3日[2]、従来の南遣艦隊は第一南遣艦隊に改称[1][9]、フィリピン方面警備を担当する第三南遣艦隊が新編された[10][11]蘭印作戦達成にともない、同年3月10日付で第三艦隊や第五水雷戦隊が解隊され[2][12]、同隊所属戦力を再編して第二南遣隊艦隊が新編された[13][14]

同年4月10日、第二段作戦開始にともなう戦時編制改定により[15]、第一・第二・第三南遣艦隊ふくめ南西方面全般を統括する南西方面艦隊が新編され[16][17]、第二南遣艦隊司令長官が南西方面艦隊司令長官を兼任した[18]。第二南遣艦隊長官と南西方面艦隊長官の兼任は1943年(昭和18年)4月まで続いた[19][20]

1943年(昭和18年)11月30日、第二南遣艦隊の担当区域を分割する形で第四南遣艦隊が新編され[8]、南西方面艦隊に加えられた[14][21]。第四南遣艦隊は豪北方面(西部ニューギニア)の作戦を担当したが[22]1945年(昭和20年)3月10日に解隊された[8][21]。 連合軍のフィリピン反攻にともなうルソン島地上戦ルソン島所在の南西方面艦隊司令部(第三南遣艦隊司令部兼務)が孤立したため、海軍は2月5日附で第十方面艦隊を新編する[23]。第一南遣艦隊(第13航空艦隊)と第二南遣艦隊は第十方面艦隊の主力部隊として[24]、ひきつづき東南アジア方面の作戦を担当して終戦を迎えた[8][25]

第二次世界大戦以前

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「南遣」の名を関した日本海軍の部隊は、日露戦争中に南シナ海沿岸の要地偵察やバルチック艦隊用の物資輸送を妨害するために派遣された「南遣支隊」を嚆矢とする[26]

第一次世界大戦が勃発すると、日英同盟を結んでいた大日本帝国連合国として参戦、極東日独戦争が始まった[27]太平洋におけるドイツ帝国植民地南洋諸島植民地)制圧や、ドイツ帝国海軍 (Kaiserliche Marine) の東洋艦隊に対処するため、戦力が抽出された[注釈 1]

まず開戦と同時に通商破壊に乗り出したドイツ帝国海軍小型巡洋艦エムデン (SMS Emden) に対処するため、伊吹艦長加藤寛治大佐が指揮する特別南遣枝隊巡洋戦艦伊吹〉、二等巡洋艦筑摩〉)が編成され、イギリス海軍支那艦隊ジョラム司令長官、山梨勝之進中佐派遣中)と協力してシーレーン保護任務に従事した[29][注釈 2]

日本本土からは第一艦隊より山屋他人中将が率いる巡洋戦艦4隻(金剛比叡鞍馬筑波)が太平洋航路を保護するために出撃した[注釈 3]。 そして1914年(大正3年)9月14日をもって南遣枝隊(巡洋戦艦鞍馬筑波、装甲巡洋艦浅間、駆逐艦海風山風)が編成され[31]カロリン諸島一帯を占領した。南遣枝隊には所属していないが、戦艦香取も同方面で行動し、サイパン島を占領している[32]。なお第二南遣枝隊の新編により、第一南遣枝隊に改称した[33]

1914年(大正3年)10月1日、松村龍雄少将を司令官とする第二南遣枝隊が編成された[30][注釈 4]。最初期の編成は、戦艦薩摩、二等巡洋艦矢矧平戸、補給艦であった[36]。同年12月8日のフォークランド沖海戦シュペー提督のドイツ東洋艦隊は全滅し、第一南遣枝隊および第二南遣枝隊とも、まもなく解隊された[37]

南遣艦隊

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最初の南遣艦隊は[2]1941年昭和16年)7月10日昭和天皇の裁可を得て[38]7月31日佐世保で編制された[注釈 5]。初代の南遣艦隊司令長官は[40]平田昇海軍中将[41][42]。 当時の日本海軍は南部仏印進駐にともない[43]支那方面艦隊隷下の第二遣支艦隊(旗艦:足柄、指揮官:新見政一第二遣支艦隊司令長官)を基幹戦力とする「ふ号作戦部隊」[44]をもって「ふ号作戦」を実施しており[45][46]、日本軍は8月上旬に南部仏印進駐を完了した[47][48]。 南遣艦隊新設の準備は既にはじまっていたが、南部仏印進駐成功の見通しがついたため、前述の7月31日をもって発足した[5]。これは、中国大陸沿岸(南支)を主担当海域とする第二遣支艦隊を南部仏印に配置するのは不適当で、警備部隊が必要とされた為の処置である[38]。関係各国との政治的な配慮を行う関係から連合艦隊(作戦担当)から分離され[38]大本営直属艦隊となった[1][49]。新編時の南遣艦隊は、連合艦隊・支那方面艦隊とならぶ外戦部隊の一つであった[38]

8月1日、平田長官は東京駅を出発する[50]。8月2日、平田長官は南遣艦隊旗艦を香取型練習巡洋艦香椎(同艦は前月7月15日に竣工)に指定する[51]8月11日午前7時、香椎はサンジャック沖合に到着した[52]。同日12時30分、新見中将(ふ号作戦部隊指揮官)は平田長官に事務の引継を完了する(ふ号作戦部隊は解散)[52]支那方面艦隊フランス領インドシナ方面に於ける任務を解かれ[53]、同方面は南遣艦隊の担当となった[6]。主力となるのは地上部隊の第81警備隊(定員150名)で、海軍が建造した艦艇は練習巡洋艦1隻(香椎)と海防艦1隻(占守)に過ぎない[54]。実態は、海軍根拠地隊に近いものだった[55]

しかし、南部仏印進駐により日本国と連合国の関係は決定的に悪化する[56]10月18日[57]、南遣艦隊司令長官は平田中将から小沢治三郎中将に交代した[58][59][注釈 6]太平洋戦争開戦準備に伴い、南遣艦隊は10月21日附で連合艦隊に編入された[1][60]。平田前長官は日本に帰国後、天皇に拝謁した[61]

陸軍のマレー作戦を援護すべく、大本営連合艦隊司令部は南遣艦隊の戦力を増強した[62]。一度に集結させると敵に作戦意図を察知される恐れがあったため、海上戦力は1941年11月末まで、航空戦力は12月2日までに進出した。 馬来部隊指揮官(南遣艦隊司令長官)小沢治三郎中将は陣頭指揮の関係上、旗艦用の重巡洋艦を連合艦隊に要求する[62]。途中、第二艦隊司令長官近藤信竹中将(南方部隊指揮官)から「南遣艦隊司令長官(小沢)が前線に赴く必要は無い。サイゴンの陸上基地か『香椎』から指揮を執ればよいではないか」と妨害されたが、山本五十六連合艦隊司令長官は小沢中将の要請を是として重巡洋艦「鳥海」を追加した[62]

南遣艦隊司令長官小沢治三郎中将を指揮官とする馬来部隊は1941年(昭和16年)11月26日に海南島三亜市に集結を完了し、マレー攻略を目指す第25軍の第一次船団も三亜に集結した[63]。12月4日[64]山下奉文陸軍中将指揮下の第25軍の上陸船団を護衛して、馬来部隊は三亜を出航した[65][66]。開戦前の12月6日の現地時間午前11:30に仏印最南端カモー岬を西進中、イギリスの大型偵察機2機が接近したため、撃墜している[67]12月8日夜半[68]、マレー半島コタバル上陸を皮切りに陸軍の南方作戦を支援した[69]マレー沖海戦では、南遣艦隊麾下の基地航空隊がイギリス海軍の戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを撃沈している[62]。増勢された部隊以外はツダウム飛行場やサンジャック停泊地(現在のブンタウ)の警備を担当する。根拠地隊の海軍陸戦隊は、陸軍のマレー半島シンガポール攻略部隊を追って南下した。

年が明けて1942年(昭和17年)1月3日、フィリピン攻略・警備部隊の第三南遣艦隊が新編されたことを機に南遣艦隊は第一南遣艦隊に改名し[70][71](小沢司令長官、澤田参謀長以下留任)[72]、引き続きシンガポール占領のため、マレー半島やボルネオ方面作戦を継続した[73]。南方作戦(マレー作戦・蘭印作戦)が一段落後の同年4月以降、増勢された部隊は日本本土に帰還した(詳細後述)[74]

編制

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1941年7月31日、新編時の編制

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  • 練習巡洋艦「香椎[54](艦隊旗艦)[75]
  • 海防艦「占守」(900トン級海防艦)
  • 特設砲艦兼敷設艦「金剛山丸」(2,000トン級特設砲艦)
  • 特設掃海艇「音羽丸」(200トン級掃海艇)、「留萌丸」(200トン級掃海艇)
  • 第81警備隊(定員150名)
  • 第81通信隊

1941年12月10日、太平洋戦争開戦時の編制

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  • 香椎・占守
  • 第9根拠地隊
    • 初鷹
    • 第1掃海隊
    • 第11駆潜隊・相良丸・永興丸・長沙丸
    • 第91駆潜隊・野鳥丸
    • 第91警備隊・第91通信隊
  • 第11特別根拠地隊
    • 永福丸
    • 第81通信隊

1941年12月2日 - 1942年4月10日の間増加された戦力

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歴代司令長官

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  1. 平田昇中将:1941年7月31日[42] - 1941年10月18日[59]
  2. 小沢治三郎中将:1941年10月18日[59] - 1942年1月3日[72](第一南遣艦隊へ改名後も留任)

歴代参謀長

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  1. 澤田虎夫少将:1941年7月31日[42] - 1942年1月3日[72](第一南遣艦隊へ改名後も留任)

第一南遣艦隊

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第一南遣艦隊は、1942年(昭和17年)1月3日の第三南遣艦隊新設に伴い、先述の南遣艦隊(司令長官小沢治三郎中将)を改名したものである[19][71](小沢司令長官、澤田参謀長など留任)[72]。南遣艦隊の任務を引き継ぎ、馬来部隊としてシンガポールの戦い蘭印作戦ニコバル諸島攻略ビルマ作戦を支援した[76]南方作戦終了後、臨時編入されていた重巡鳥海などはミッドウェー作戦にそなえて日本本土へ帰還した[74]。第一南遣艦隊旗艦は香椎に戻った[74]。第一南遣艦隊はシンガポールに司令部を置き、マレー半島・インドシナ・ビルマニコバル諸島アンダマン諸島に根拠地隊を置いた[77]。各地での局地戦(空襲、潜水艦戦)で小規模な損害を重ねたが、主戦場とならなかったために、大規模な損害は受けなかった。

改称当時、引き続き連合艦隊の指揮でマレー作戦・蘭印作戦に従事した。1942年(昭和17年)4月10日、3個南遣艦隊が連合した南西方面艦隊が発足すると[8][78]、南西方面艦隊の指揮下に置かれた[79]1943年(昭和18年)4月15日に南西方面艦隊司令部と第二南遣艦隊司令部が分離し、第一南遣艦隊は兵力部署において西方部隊となった[80]

太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)1月8日[81]、南西方面艦隊より第十三航空艦隊がのぞかれて第一南遣艦隊に編入され、第一南遣艦隊司令長官田結穣中将が第13航空艦隊司令長官を兼任した[82][83]。 同日附で第二航空艦隊(司令長官福留繁中将、参謀長菊池朝三少将)が解隊され[83]、幕僚は水上機でマニラを脱出、カムラン湾を経由してシンガポールに移動した[84][85]。福留は、第一南遣艦隊司令長官達が平時の服装であることに「日本の戦争地域にまだこんな平和な地が残っているのか」と感嘆したという[84]。 1月13日、福留中将は第一南遣艦隊司令長官兼第十三航空艦隊司令長官に任命された[86]

同時期、ルソン島マニラに司令部を置いていた南西方面艦隊/第三南遣艦隊(司令長官大川内伝七中将、参謀長有馬馨少将)は、フィリピン地上戦に巻き込まれて機能を失った[87][88]。 2月5日、日本海軍は第五艦隊(司令長官志摩清英中将)を解隊し[89]第十方面艦隊(司令長官福留繁中将、参謀長朝倉豊次少将)を新編する[90][91]。 第一南遣艦隊と第二南遣艦隊は南西方面艦隊からのぞかれて他部隊(第十三航空艦隊・第五戦隊など)と共に第十方面艦隊に編入されて「西部方面部隊」となり[92]、終戦まで駐留を継続した[90]戦艦水雷戦隊[注釈 7]、2月中旬に実施された北号作戦により内地に撤収したため[94][95]、第十方面艦隊は重巡4隻(羽黒、足柄、妙高、高雄)と少数の駆逐艦、基地航空隊で連合国軍の反攻に備えた[87]。制海権も失われており、5月中旬にはニコバル諸島方面輸送作戦に従事していた重巡羽黒が撃沈され、駆逐艦神風も小破した(ペナン沖海戦[96]。重巡足柄も潜水艦の雷撃で失われた。ビルマ方面(第13根拠地隊、司令官田中頼三少将)の戦局も悪化する一方であった[97]

なお、第十方面艦隊司令部(司令長官・参謀長)はひきつづき第一南遣艦隊司令部および第十三航空艦隊司令部を兼任した[91][98]。9月2日、シンガポールにて南方陸海軍の降伏式が行われた[85]

編制

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1942年4月10日、南西方面艦隊新編時の編制

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  • 直属:香椎占守
  • 第9根拠地隊(マレー半島防衛。司令部はペナン島
    • 初鷹・永興丸
    • 第11・91駆潜隊
    • 第11潜水艦基地隊
  • 第10特別根拠地隊[99](インドシナ防衛。司令部はサイゴン)
  • 第11特別根拠地隊(シンガポール防衛。司令部はシンガポール)
    • 第19・20・21号駆潜艇・永福丸
    • 第11通信隊
  • 第12特別根拠地隊[100](ニコバル諸島・アンダマン諸島防衛。司令部はポートブレア)
    • ・江祥丸・第41掃海隊
    • 第12通信隊
  • 附属:勝力・相良丸

※1943年、ビルマに第13根拠地隊を増設(第12特別根拠地隊の一部を割譲)

1944年4月1日、戦時編制制度改定後の編制

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  • 第9特別根拠地隊
    • 敷設艦:初鷹
    • 特設艦:永興丸
    • 第11駆潜隊
  • 第10特別根拠地隊
    • 掃海艇:第7号掃海艇
    • 第44掃海隊
    • 第9警備隊
    • 第11潜水艦基地隊
    • 第10港務部
    • 第23衛所隊
  • 第11特別根拠地隊
    • 駆潜艇:第19号・第20号・第21号・第41号・第43号
    • 特設艦:永福丸
  • 第12特別根拠地隊
    • 水雷艇:
    • 特設艦:江祥丸
    • 第14警備隊
    • 第25警備隊
    • 第21衛所隊
    • 第22衛所隊
  • 第13根拠地隊
    • 第12警備隊
    • 第13警備隊
    • 第17警備隊
    • 第12通信隊
  • 敷設艦:八重山
  • 駆逐艦:天津風
  • 第21魚雷艇隊
    • 第936海軍航空隊
    • 第34防空隊 
    • 第51防空隊 
    • 第55防空隊 
    • 第58防空隊 
    • 第70防空隊 
    • 第88防空隊 
    • 第102防空隊 
    • 第104防空隊 
    • 第108防空隊 
    • 第112防空隊
  • 第40設営隊
  • 第231設営隊
  • 第234設営隊

1945年6月1日、最終時の編制

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  • 第9特別根拠地隊
    • 初鷹
  • 第10特別根拠地隊
    • 第4・34号駆潜艇・第44掃海隊
    • 第10港務部・第10通信隊
  • 第11根拠地隊
    • 第41・43号駆潜艇
    • 第10・11警備隊
  • 第12特別根拠地隊
    • 第14・25警備隊
  • 第13特別根拠地隊
    • 第12・13・17警備隊
  • 第15根拠地隊
    • 第11駆潜隊
    • 第9警備隊・第11潜水艦基地隊
  • 附属:妙高高雄・第61号海防艦・第57号駆潜艇
    • 第3110設営隊

歴代司令長官

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  1. 小沢治三郎中将:1942年1月3日[72](※実質的に南遣艦隊司令長官の留任) - 7月14日[101]
  2. 大川内伝七中将:1942年7月14日[101] - 1943年9月20日[102]
  3. 田結穣中将:1943年9月20日[102] - 1945年1月8日(第十三航空艦隊司令長官兼任)[83] - 1月13日[86]
  4. 福留繁中将:1945年1月13日(第十三航空艦隊司令長官兼務)[86] - 2月5日(従来職に加えて第十方面艦隊司令長官兼務)[91] - (降伏)

歴代参謀長

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  1. 澤田虎夫少将:1942年1月3日[72](※実質的に南遣艦隊参謀長の留任) - 6月20日[103]
  2. 浜田浄大佐/少将:1942年6月20日[103] - 1943年8月27日[104]
  3. 鳥越新一少将:1943年8月27日[104] - 1944年8月16日[105]
  4. 朝倉豊次少将:1944年8月16日[105] - 1945年1月8日(第十三航空艦隊司令長官兼任)[83] - 2月5日(従来職に加えて第十方面艦隊参謀長兼任)[91] - (降伏)

上級部隊

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第二南遣艦隊

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1942年(昭和17年)3月10日、蘭印作戦の目途がついたことで日本海軍は第三艦隊(司令長官高橋伊望中将)や麾下の第五水雷戦隊(司令官原顕三郎少将)等を解隊・再編・改称し[19][106]第二南遣艦隊を新編した[79](司令長官高橋伊望中将)[107]。 4月10日、日本海軍は第二段作戦方針に基づき戦時編制の改定を実施する[108]。この中で、南西方面全体を統轄する南西方面艦隊を新編した[79]。南西方面艦隊は、三個艦隊(第一南遣艦隊、第二南遣艦隊、第三南遣艦隊)を麾下に置き[79]、また軍政も担当した[109]。第二南遣艦隊司令長官高橋伊望中将が南西方面艦隊司令長官を兼務した[18]

南西方面艦隊発足後も、第二南遣艦隊は東印部隊として引き続きインドネシア方面の作戦に従事した[108]。重巡洋艦足柄と第十六戦隊(名取、鬼怒、長良、五十鈴)が発足当初の主力艦艇だったが[110]、はやくも4月に長良が第十戦隊旗艦に転用され、9月下旬には五十鈴も第二水雷戦隊旗艦に引き抜かれてしまった。 最初の1年間は、南西方面艦隊司令部の直卒部隊として司令部を兼任していた。9月15日、第二南遣艦隊司令長官(南西方面艦隊司令長官兼任)は高橋中将から高須四郎中将に交代した[111]

1943年(昭和18年)1月中旬にはアンボン島港外で軽巡名取が潜水艦の雷撃と空襲で大破、第二南遣艦隊の大型艦船は足柄と軽巡2隻のみとなる[注釈 8]。 4月15日、第二南遣艦隊司令長官に岩村清一中将が任命され[113]、南西方面艦隊司令部と分離した[114](高須中将は南西方面艦隊長官専任)[20]。足柄と第十六戦隊も南西方面艦隊直率部隊となり、第二南遣艦隊は軍政関係を主に担任することになった[115]。第二南遣艦隊は軍隊区分において東印部隊となった[80]。この頃から連合軍の空襲が激しくなった[116]

第二南遣艦隊はボルネオ島セレベス島スンダ列島・西ニューギニアを管轄したが、広大すぎることから11月30日に第四南遣艦隊を新編し(南西方面艦隊麾下)[19][117]、東部の管轄区域を移譲した。大規模な戦闘は経験せず、潜水艦攻撃[118]と機動部隊の空襲によって消耗した[119][120]

1945年(昭和20年)2月5日の第十方面艦隊新編にともない(上述)[89]、第一南遣艦隊と第二南遣艦隊は南西方面艦隊からのぞかれて第十方面艦隊へ編入された[90]。 また第四南遣艦隊は同年3月10日に解散したが[19]、麾下部隊は第二南遣艦隊に復帰することなく、第十方面艦隊直卒となった。

編制

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1942年3月10日、改称時の編制

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  • 直属:重巡洋艦足柄・機雷敷設艦厳島
  • 第16戦隊:名取鬼怒五十鈴[注釈 9]長良[注釈 10]球磨(1942年9月10日、第十六戦隊編入)
  • 第21特別根拠地隊(ジャワ島防衛。司令部はスラバヤ
    • 第8・11・12号掃海艇・第1~3号駆潜艇
    • 第932海軍航空隊・第21通信隊・第21潜水艦基地隊・第1港務部
  • 第22特別根拠地隊(ボルネオ島防衛。司令部はバリクパパン
    • 第16号掃海艇・第4~6号駆潜艇
    • 第2警備隊・第2港務部
  • 第23特別根拠地隊(セレベス島防衛。司令部はマカッサル
    • 蒼鷹・新興丸・第54駆潜隊
    • 第3・6警備隊
  • 第24特別根拠地隊(スンダ列島・ニューギニア防衛。司令部はアンボン
    • 友鶴
    • 第934海軍航空隊・第4警備隊・第24通信隊
  • 附属:筑紫山陽丸・第2砲艦隊

1944年4月1日、戦時編制制度改定後の編制

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  • 第21特別根拠地隊
    • 第11・12・101号掃海艇・第104号哨戒艇・第1~3号駆潜艇
    • 第932海軍航空隊・第3警備隊・第21潜水艦基地隊・第1港務部
  • 第22特別根拠地隊
    • 第4~6号駆潜艇・第2・36号哨戒艇
    • 第2警備隊・第2港務部
  • 第23特別根拠地隊
    • 第8号掃海艇
  • 附属:第102号哨戒艇・萬洋丸・大興丸
    • 第33・53・101・103・109・113防空隊・第24・201・241設営隊

1945年6月1日、最終時の編制

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  • 第21特別根拠地隊
    • 第3警備隊 
    • 第4警備隊 
    • 第5警備隊 
    • 第6警備隊
    • 第21潜水艦基地隊
    • 第1港務部
    • 第21通信隊
  • 第22特別根拠地隊
    • 第2警備隊
    • 第2港務部
  • 第23特別根拠地隊
    • 第8警備隊
  • 附属
    • 第7特設輸送隊
  • 所属艦艇
  • 潜水艦:2隻
  • 他軍艦:2隻
  • 駆潜艇:第1号駆潜艇、第2号駆潜艇、第3号駆潜艇、第4号駆潜艇、第5号駆潜艇、第56号駆潜艇
  • 哨戒艇:第2号哨戒艇、第36号哨戒艇、第106号哨戒艇、第109号哨戒艇
  • 掃海艇:第8号掃海艇
  • 上陸用舟艇:2隻
  • 輸送船:2隻
  • 特設艦船:4隻
  • 通信艦艇:2隻

歴代司令長官

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  1. 高橋伊望中将:1942年3月10日[107](※実質的に第三艦隊司令長官の留任) - 4月10日[18]南西方面艦隊司令長官兼務) - 9月15日[111]
  2. 高須四郎中将:1942年9月15日(南西方面艦隊司令長官兼任)[111] - 1943年4月15日[注釈 11]
  3. 岩村清一中将:1943年4月15日[20] - 9月3日[125]
  4. 三川軍一中将:1943年9月3日[125] - 1944年6月18日[123]
  5. 河瀬四郎中将:1944年6月18日[123] - 1945年1月29日[126]
  6. 柴田弥一郎中将:1945年1月29日[126] -(降伏)

歴代参謀長

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  1. 中村俊久少将:1942年3月10日(※実質的に第三艦隊参謀長の留任) - 4月10日[18]南西方面艦隊参謀長兼務) - 1942年11月10日[127]
  2. 多田武雄少将:1942年11月10日[127] - 1943年4月15日[注釈 12]
  3. 松崎彰大佐:1943年4月15日[20] - 1945年1月19日[129]
  4. 長谷真三郎少将:1945年1月19日[129] -(降伏)

上級部隊

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第三南遣艦隊

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1942年(昭和17年)1月3日、フィリピン攻略・警備・海上交通保護のため[130]、軽巡洋艦「球磨[131]、敷設艦「八重山」、砲艦隊1隊、特別根拠地隊2隊と附属隊をもって発足した[70][注釈 13][注釈 14]。比島作戦に協力していた第三艦隊の大部分は、一部兵力を残してさらに南方のインドネシア攻略に向かった[132]

新編時の第三南遣艦隊は連合艦隊に属し、南方部隊指揮官近藤信竹中将(第二艦隊司令長官)の指揮下におかれた[130]。 第三南遣艦隊令長官に親補された杉山六蔵海軍中将は[133]、1月6日に高雄市で軽巡球磨に将旗を掲げた[132]。続いて1月9日にマニラへ進出、陸上に司令部を置いた[76]。当初の任務は、マニラ湾口の封鎖や、フィリピン各地の制圧・占領であった[134]。 2月には第一砲艦隊・第51・53駆潜隊・第31・32航空隊を増勢、2月中旬に水雷艇3隻(13日〈雉・鴻〉、15日〈粟〉)、3月6日に第6駆逐隊()が編入された[135]

同年4月10日に南西方面艦隊が発足すると、第三南遣艦隊も麾下に入った[79]。当時、アメリカ軍のコレヒドール要塞は陥落しておらず、日本陸軍の第14軍に協力してマニラ方面の作戦に従事した[136]。またフィリピン各地の島嶼を占領するため、護衛艦艇として第二水雷戦隊と第四水雷戦隊から駆逐隊が増強された。 5月上旬に要塞が陥落しフィリピンの米軍が降伏すると[137]、増援の駆逐隊[138][139](第2駆逐隊〈村雨五月雨夕立春雨〉、第24駆逐隊〈海風山風江風〉、第15駆逐隊〈親潮黒潮早潮〉)は原隊に復帰してミッドウェー作戦に参加した(フィリピンの戦い)。

陸海軍の協定により、海軍は中部・南部フィリピンの防衛担当となったため、ルソン島は陸軍に任せて規模を縮小している。しかし1944年(昭和19年)夏より、フィリピン奪還に備えて再びルソン島の増強を図っている。5月21日、南方軍総司令部はシンガポールからマニラに移転した[140]。南西方面艦隊司令部も7月中旬に軽巡洋艦大井と駆逐艦敷波を利用してジャワ島スラバヤ[141]からフィリピンのマニラに移った[124][注釈 15]。 8月15日より三川軍一南西方面艦隊司令長官[123]が第三南遣艦隊司令長官を兼任した[144]

9月10日、ダバオ誤報事件が起きる[145]捷一号作戦[146]実施中の同年11月1日[147]、第三南遣艦隊(南西方面艦隊、第十三航空艦隊)司令長官は三川中将から大川内伝七中将に交代した[148]。 第三南遣艦隊参謀長も島本少将から第31特別根拠地隊司令官有馬馨少将[注釈 16]に交代し、有馬は四職(南西方面艦隊参謀長、第三南遣艦隊参謀長、第十三航空艦隊参謀長、第31特別根拠地隊司令官)を兼任した[148]。 11月17日、第31特別根拠地隊司令官に岩淵三次少将が任命された[150]

フィリピン攻防戦にともなうルソン島地上戦(昭和20年1月初旬以降)が始まると、マニラ市街戦により第31特別根拠地隊は壊滅(マニラ大虐殺[88]、岩淵少将も戦死した[97]。山中に撤退した第三南遣艦隊(南西方面艦隊)司令部は孤立化した[87]大本営は、連携不能となった第一・第二南遣艦隊を統率するために、1945年(昭和20年)2月5日附で第十方面艦隊を新設せねばならなくなった(詳細既述)[90]

編制

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1942年1月3日、新編時の編制

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1942年7月14日、ミッドウェー海戦後の編制

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1944年4月1日、戦時編制制度改定後の編制

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  • 直属:津軽
  • 第32特別根拠地隊
    • 第30号掃海艇
    • 第33警備隊
  • 附属:唐津・隼・第36・45・46号駆潜艇・第103・105号哨戒艇・木曽丸
    • 第31海軍航空隊・第32海軍航空隊・第954海軍航空隊・第31警備隊・第31通信隊

1945年6月1日、最終時の編制

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  • 第30根拠地隊
  • 第31特別根拠地隊
    • 第35警備隊・第31港務部・第31通信隊
  • 第32特別根拠地隊
    • 第33警備隊・第32通信隊・第10特設輸送隊
  • 第33特別根拠地隊
    • 第36警備隊
  • 附属:第21駆潜隊・第12魚雷艇隊・第25魚雷艇隊・第31魚雷艇隊
    • 第955海軍航空隊・第135・136・166~168・183~185・187・204~207防空隊
    • 第205・214・215・225・235・301・308・311・318・328・331・332・3011設営隊・第9特設輸送隊

歴代司令長官

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  1. 杉山六蔵中将:1942年1月3日[72] - 12月1日[151]
  2. 太田泰治中将:1942年12月1日[151] - 1943年9月20日[102]
  3. 岡新中将:1943年9月20日[102] - 1944年8月15日[144]
  4. 三川軍一中将:1944年8月15日(※南西方面艦隊司令長官兼任)[注釈 17] - 11月1日[148]
  5. 大川内伝七中将:1944年11月1日[148](※南西方面艦隊司令長官、第十三航空艦隊司令長官兼任) - 1945年1月8日(免第十三航空艦隊司令長官)[83] - (降伏)

歴代参謀長

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  1. 近藤泰一郎少将:1942年1月3日[72] - 1943年1月11日[152]
  2. 橋本象造少将:1943年1月11日[152] - 1944年7月27日[153]
  3. 島本久五郎少将:1944年7月27日[153] - 8月15日[144](南西方面艦隊参謀副長兼任)[注釈 18] - 11月1日[148]
  4. 有馬馨少将:1944年11月1日[148](南西方面艦隊参謀長、第十三航空艦隊参謀長、第31特別根拠地隊司令官兼任)[注釈 19] - (降伏)

上級部隊

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第四南遣艦隊

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1943年(昭和18年)後半になると、日本軍はオーストラリアで反撃体制を整えた連合軍のフィリピン攻略に備えなくてはならなくなった。日本陸軍は10月30日に第2方面軍(司令官阿南惟幾陸軍中将)を豪北方面に転用し、日本海軍も11月1日に第26特別根拠地隊を新編した[22]11月30日[117]、第二南遣艦隊を二分割し、東部方面の防衛を担当するために編制したのが第四南遣艦隊である[21]。司令長官は山縣正郷中将[154]。司令部はアンボン島に置かれた[155]。スンダ列島やバンダ海周辺の島嶼部の防衛を担当した。1944年(昭和19年)の初期のうちに、第四南遣艦隊から西ニューギニアへの増援部隊を抽出することが決まり、同年5月、第九艦隊の本拠地ホーランディアが陥落する直前に、編制が完了したばかりの第28特別根拠地隊をビアク島に派遣した。しかしビアク島も連合軍の直撃を受け、半年間の籠城戦の末に玉砕した。その後連合軍はフィリピンに上陸したため、第四南遣艦隊は遊兵化した。

1945年(昭和20年)2月5日の第十方面艦隊新編時、日本陸軍と日本海軍は「南方方面作戦に関する陸海軍中央協定」を結ぶ[89]。陸上防衛に関し、南方軍は第十方面艦隊と第四南遣艦隊を指揮することになった[89]。第四南遣艦隊は3月10日に解散し[21]、第十方面艦隊に吸収された[156]。元司令長官の山縣中将は内地へ帰還中、搭乗機の遭難により消息不明になった[注釈 20]

編制

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1943年11月30日、新編時の編制

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  • 直属:厳島[155]
  • 第24根拠地隊(スンダ列島防衛。司令部はフローレス島)(雉、鵲、第4警備隊〈ティモール島〉、第6警備隊〈スンバ島フロレス島〉)
  • 第25特別根拠地隊(セラム島防衛。司令部はアンボン)(若鷹、第125号駆潜艇、第7警備隊〈アルケイ、タンニバル島〉、第20警備隊〈セラム島〉、第24通信隊、第25号通信隊)
  • 第26特別根拠地隊(ハルマヘラ島防衛。司令部はカウ)(蒼鷹、第18警備隊〈マノクワリ方面〉)
  • 附属:第934航空隊・2個防空隊・第232設営隊

1944年4月1日、戦時編制制度改定後の編制

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  • 直属:厳島
  • 第24特別根拠地隊
    • 水雷艇:
    • 第4警備隊
    • 第6警備隊
  • 第25特別根拠地隊
    • 急設網艦:若鷹
    • 第125駆潜隊
    • 第7警備隊
    • 第20警備隊
    • 第21警備隊
    • 第24通信隊
    • 第25通信隊
  • 第26特別根拠地隊
    • 急設網艦:蒼鷹
    • 掃海艇:第4掃海艇
    • 掃海艇:第5号掃海艇
    • 第18警備隊
    • 第19警備隊
    • 第21警備隊
  • 附属
    • 第50防空隊
    • 第56防空隊
    • 第105防空隊
    • 第106防空隊
    • 第107防空隊
    • 第110防空隊
    • 第114防空隊
    • 第115防空隊
    • 第202設営隊
    • 第203設営隊
    • 第213設営隊
    • 第224設営隊
    • 第225設営隊

1945年3月1日、最終時の編制

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  • 第25特別根拠地隊
    • 第7警備隊
    • 第20警備隊
    • 第21警備隊
    • 第26警備隊
  • 第26特別根拠地隊
  • 第27警備隊
  • 第18警備隊
  • 第28特別根拠地隊
  • 第33防空隊
  • 第105防空隊
  • 第36設営隊
  • 第201設営隊
  • 第202設営隊
  • 第203設営隊
  • 第224設営隊
  • 第232設営隊
  • 所属艦隊
  • 初鷹型敷設艦:若鷹
  • 他軍艦16隻
  • 隼型水雷艇:雉
  • 輸送船×12

歴代司令長官

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  1. 山縣正郷中将:1943年11月30日[157] - 1945年3月10日[158](解隊後、帰国中に中国大陸で戦死、海軍大将に昇進)

歴代参謀長

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  1. 岡田為次少将:1943年11月30日[157] - 1945年3月10日[158]

上級部隊

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脚注

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注釈

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  1. ^ 印度洋方面の作戰[28]「我海軍は南遣艦隊の一支隊(伊吹 筑摩の二隻より成り、伊吹艦長海軍大佐加藤寛治先任官として之を指揮す)を開戰の初頭大正三年八月廿六日新嘉坡に向け發進せしめ、以て英國支那艦隊(司令長官海軍ジョラム之を率ゐ、我海軍よりは海軍中佐山梨勝之進を此艦隊の幕僚中に参加せしめたり)と協同作戰に從事せしめたり。而して當時同盟艦隊は、一時待機の姿勢を持し、附近海面の警戒に任じたりしが、九月十日敵艦エムデン印度洋東方に出現せるを以て、我支隊は一方に於て索敵に努むると共に、他方に於て濠洲及ニュージーランド陸軍輸送船隊の護衛に任じ、益々勢力を増加し、英國艦隊と協力して敵情に應じ策動せり。然るに敵艦は爾後愈々強暴を逞うし、印度洋方面の航路頗る危殆に瀕せるを以て、十月二十五日更に一戰隊(司令官海軍中将栃内曾次郎)を此方面に増遣し、英國艦隊と協力して策動せしめたり。(呉に於て栃内司令常磐八雲、伊吹、日進、筑摩、平戸、矢矧、生駒及英國驅逐隊一隊を併せ引率することゝ爲れり)。(以下略)
  2. ^ なおエムデンは1914年(大正3年)11月9日にオーストラリア海軍 (Royal Australian Navy) の軽巡シドニー (HMAS Sydney) によって撃沈された[28]
  3. ^ 太平洋方面の作戰[30]「開戰の當初敵艦隊の一部は、北米及布哇方面に在り、又曩に南洋方面に遊弋せる敵艦隊の主力及膠州灣より脱出せる敵艦の所在は詳ならず、乃ち我海軍は開戰と同時に、第一艦隊の一戰隊(司令長官海軍中将山屋他人の引率する金剛 比叡 鞍馬 筑波)を發遣して太平洋方面の航路保安及索敵に任ぜしめ、〈其後此隊を第一南遣支隊と稱し、鞍馬、筑摩、淺間、磐手及驅逐隊隊より成る、後多少の異動ありたり〉尋で更に第一艦隊の一戰隊(司令官海軍少将松村龍雄の引率する薩摩、矢矧、平戸)を第二南遣支隊として南洋方面に派遣し、濠洲航路の保安及索敵の事に從はしめ、(此隊の所属艦後多少の異動あり)斯くて兩隊相策應して行動せり。然るに敵は其踪跡を韜晦せるを以て、我は先づ附近に散在する敵の諸要地を占領して、其の據點を失はしめ、生民は之を綏撫して其の堵に安んぜしめたり。此の軍事行動は該方面に於ける保安を鞏固ならしめたるのみならず、爾後に於ける作戰の進捗に資する所あると同時に、曩に分散せる敵の殘艦及智利沿海附近に於ける敵艦隊の主力に對し、或は遠く或は近く制壓を與へたるものと謂ふべきなり。爾後我海軍は此方面の警戒を嚴にし、航路の保安を確實にすると共に、尚第三特務艦隊(司令官海軍少将山路一善の引率する筑摩、平戸)を南太平洋に配し、濠洲海軍と協議して遠く該方面に亙る海面をも巡邏せしめ、以て警戒及通商保護に任ぜしめたり。而して大正六年(千九百十七年)十一月に至り、日米兩軍間に太平洋に於ける協同作戰に關する協定成立するや、我海軍は其の趣旨に循由して必要なる軍艦を配備し、今尚ほ續行中なり。
  4. ^ 当初、第二南遣枝隊司令官は土山哲三少将だったが[34]、病気のため松村少将に交代した[35]
  5. ^ 大海令第290号(1941年7月31日付) 一 南遣艦隊司令長官ハ佛印方面ニ於ケル作戦基地ノ準備竝ニ治安ノ維持ニ任ズルト共ニ支那方面艦隊ノ作戦ニ協力スベシ/二 前項ニ関シテハ軍令部総長ヲシテ指示セシム[39]
  6. ^ 第二艦隊司令長官近藤信竹海軍中将(南方部隊指揮官)や第三艦隊司令長官高橋伊望海軍中将(比島部隊指揮官/蘭印部隊指揮官)との先任・後任の関係を考慮した人事である[38]
  7. ^ 福留は第十方面艦隊の当初兵力を「総人員20万人、山城級戦艦4隻、高雄級巡洋艦4隻、駆逐艦約20隻、航空兵力約400機・実動250機」と回想している[93]
  8. ^ 名取は1月31日から5月24日までシンガポールで大修理をおこない、6月から舞鶴海軍工廠で修理をおこなった[112]。修理が終わったのは翌年4月末であった。
  9. ^ 第十六戦隊所属の五十鈴は、第二次ソロモン海戦で損傷した軽巡神通の代艦として1942年(昭和17年)9月25日に第二水雷戦隊(第二艦隊)旗艦となり、第十六戦隊から除かれた[121]
  10. ^ 第十六戦隊所属の長良は、1942年(昭和17年)4月10日に新編された第十戦隊(第一航空艦隊)[79]の旗艦に指定され、第十六戦隊から除かれた[122]
  11. ^ 高須中将は引き続き南西方面艦隊司令長官を務める[20]。1944年6月18日、軍参議官に任命される[123]。後任の南西方面艦隊司令長官は三川軍一中将であった[124]
  12. ^ 多田少将は引き続き南西方面艦隊参謀長を務めた[20]。1944年3月1日、航空本部総務部長に補職される[128]
  13. ^ 大海指第三十七号[76]聯合艦隊司令長官ハ第三南遣艦隊司令長官ヲシテ菲律賓群島方面海域ノ作戦並ニ海上交通ノ確保ニ任ゼシムルト共ニ陸軍ト協同シテ菲律賓群島ノ残敵ヲ掃蕩シ且同群島ノ警備ニ任ゼシムベシ 
  14. ^ 大海指第三十八号[76]菲律賓群島占領後ニ於ケル同群島ノ警備ハ別紙「菲律賓群島警備ニ関スル陸海軍中央協定」ニ準拠スベシ 
  15. ^ 南西方面艦隊司令部の移動は7月10日から二回次に分けて実施された[142]。任務を終えてマニラを出航した直後の7月19日、大井は潜水艦フラッシャーの雷撃で沈没した[143]
  16. ^ 1944年(昭和19年)9月10日、第三南遣艦隊の隷下に第31特別根拠地隊が新編され、有馬少将は31特根司令官に任命された[149]
  17. ^ 三川軍一中将は1943年(昭和18年)9月3日から第二南遣艦隊司令長官となった[125]。1944年(昭和19年)6月18日、第二南遣艦隊司令長官は河瀬四郎中将となり、三川中将は南西方面艦隊に任命された[123]。同年8月15日より、三川中将は南西方面艦隊司令長官と第三南遣艦隊司令長官を兼任した[144]
  18. ^ 1944年3月1日、南西方面艦隊参謀長(兼第十三航空艦隊参謀長)は多田武雄少将から西尾秀彦少将に交代した[128]。西尾少将は同年11月1日まで南西方面艦隊参謀長であった[150]
  19. ^ 11月17日附で岩淵三次少将が第31特別根拠地隊司令官に任命され、有馬の兼務は三職(南西方面艦隊参謀長、第三南遣艦隊参謀長、第十三航空艦隊参謀長)となった[150]
  20. ^ 中国大陸に不時着し、中国兵に包囲されて自決(詳細は該当記事を参照)

出典

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  1. ^ a b c d e 戦史叢書102巻、528頁「南遣艦隊」
  2. ^ a b c d e 戦史叢書102巻、523-524頁「付録第7 陸海軍の組織・編制関係概見表(昭和12年~20年)」「(6)第1次上海事変から大東亜戦争開戦までの艦隊の新設・解隊」
  3. ^ a b 戦史叢書102巻、418-419頁「付録第3、軍隊符号等(隊号・略字等)」「2.海軍関係」
  4. ^ 戦史叢書91 1975, p. 516a第五艦隊・南遣艦隊の追加的新編
  5. ^ a b 戦史叢書79 1975, pp. 305a-307南遣艦隊の新設
  6. ^ a b 戦史叢書79 1975, p. 315南部佛印進駐と南遣艦隊の設置
  7. ^ 戦史叢書80 1975, pp. 102–103大東亞戦争と呼称決定
  8. ^ a b c d e 戦史叢書102巻、524-526頁「付録第77 陸海軍の組織・編制関係概見表(昭和12年~20年)」「(7)大東亜戦争間における艦隊の新設・解隊」
  9. ^ 戦史叢書102巻、529頁「第1南遣艦隊」
  10. ^ 戦史叢書80 1975, p. 223b南西方面/十七年一月三日 三南遣新設、三十一特根(マニラ)、三十二特根(ダバオ)を編入。同日 南遣艦隊を一南遣と改称
  11. ^ 戦史叢書102巻、530頁「第三南遣艦隊」
  12. ^ 戦史叢書102巻、527-528頁「(2)第3艦隊」
  13. ^ 戦史叢書80 1975, p. 224b南西方面/三月十日 ジャワ攻略完了に伴い、第三艦隊、五水戦、一根、二根解隊、二南遣、二十一特根(スラバヤ)、二十二特根(バリクパパン)、二十三特根(マカッサル)新設
  14. ^ a b 戦史叢書102巻、530頁「第二南遣艦隊」
  15. ^ 戦史叢書80 1975, pp. 375b-377六 南西方面の作戦指導と経過概要/第二段作戦方針
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  17. ^ 戦史叢書102巻、530頁「南西方面艦隊」
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参考文献

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  • 城英一郎 著、野村実 編『侍従武官 城英一郎日記』山川出版社〈近代日本史料選書〉、1982年2月。 
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  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊(1) ―開戦まで―』 第91巻、朝雲新聞社、1975年12月。 
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  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊<7> ―戦争最終期―』 第93巻、朝雲新聞社〈戦史叢書〉、1976年3月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 陸海軍年表 付 兵器・兵語の解説』 第102巻、朝雲新聞社、1980年1月。 
  • 防衛庁防衛研修所 戦史室『戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦』朝雲新聞社
  • 松田源吾ほか『軽巡海戦史 駆逐艦を率いて突撃した戦隊旗艦の奮戦と最後』潮書房光人社、2017年3月。ISBN 978-4-7698-1639-3 
    • (68-90頁)当時「大井」航海長・海軍少佐谷井徳光『巡洋艦「大井」南西方面丸通作戦の果てに 四連装発射管十基を擁した重雷装艦も出番なく遂に敵潜の餌食に
    • (261-287頁)戦史研究家落合康夫『日本海軍軽巡洋艦戦歴一覧』

関連項目

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