安芸 (戦艦)
安芸(あき)は[17]、日本海軍の戦艦[18][19]。艦名は安芸国に由来する[17]。日本海軍の法令上は旧字体の安藝だが[19]、本記事では「安芸」とする。日露戦争中に臨時軍事費(明治37年度)で計画され、薩摩とともに日本国内で建造された最初期の戦艦[20][21]。準弩級戦艦である[22]。2隻(安芸、薩摩)ともワシントン海軍軍縮条約により廃棄対象とされ、実艦標的として処分された[23]。
安芸 | |
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基本情報 | |
建造所 | 呉海軍工廠[1][2][注釈 1] |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 | 戦艦[3] |
母港 | 呉(1915年4月1日時点)[4] |
艦歴 | |
計画 | 明治37年臨時軍事費[5] |
発注 | 1905年1月21日訓令[6] |
起工 | 1906年3月15日[1] |
進水 | 1907年4月15日[1][7][8] |
竣工 | 1911年3月11日[1][2] |
除籍 | 1923年9月20日[9] |
その後 | 1924年9月6日、実艦標的として沈没[10] |
要目(竣工時) | |
常備排水量 | 19,800英トン[1][11] |
満載排水量 | 21,800 t[要出典] |
長さ | 492 ft 0 in (149.96 m)[11] |
全長 | 146.9m[要出典] |
垂線間長 | 460 ft 0 in (140.21 m)[1][7] |
最大幅 |
計画:83 ft 6 in (25.45 m)[11][12] 83 ft 7+1⁄4 in (25.48 m)[1][7] |
深さ | 44 ft 6 in (13.56 m)[11] |
吃水 | 平均:27 ft 6 in (8.38 m)[1][11][7] |
ボイラー | 宮原式混焼缶[1][7] 両面11基、単面4基[13] |
主機 | カーチス式単式直結タービン 2基[1] |
推進 | 2軸 x255rpm[1] |
出力 |
25,000馬力[11] または 21,600馬力[1] 1920年調:24,000馬力[7] |
速力 |
計画:20ノット[11][1][7] 竣工時:20.213ノット[13] |
燃料 | 石炭:3,000トン、重油:172トン[1][7] |
乗員 |
竣工時定員:932名[14] 1920年:931名[1][7] |
兵装 |
竣工時[11][1] 40口径12インチ速射砲 連装2基4門 10インチ速射砲 連装6基12門 6インチ砲 8門 3インチ砲 8門(または16門[1]) 短3インチ砲 4門 18インチ発射管 5門 1920年[7] 四一式30cm砲 4門[注釈 2] 四一式25cm砲 12門 安式15cm砲 8門 四一式8cm砲(4門子砲兼用) 12門 四一式短8cm砲4門 麻式6.5mm機砲 3挺 水中発射管 5門 探照灯 6基 |
装甲 |
舷側:9in(228.6mm)-4in(101.6mm)[15]KC鋼[1] 甲板:2in(50.8mm)[15] 砲塔:9.2in(233.7mm)-7in(177.8mm)[15] 司令塔:6in(152.4mm)[15] または、水平防御平坦部2in、傾斜部2in、水線甲帯9in、上甲帯7in、砲台7in、露砲塔9in[11] |
搭載艇 | 1922年:56ft(フィート)ペデットボート(艦載水雷艇)1隻、40ft小蒸気船2隻、40ftランチ1隻、30ftカッター4隻、30ft通船2隻、20ft通船1隻[16] |
概要
編集安芸は呉海軍工廠で建造された[24][25]。薩摩より一年弱ほど遅れて着工したため、安芸は薩摩に比べて多くの改良がおこなわれている[25]。30.5cm45口径連装砲2基と25.4cm45口径連装砲6基の主砲、中間砲は薩摩と同じであるが、副砲は異なり12cm(40口径)砲から15cm(45口径)砲へと口径が上げられ、これを単装砲で8基装備した[26]。
また、主機には日本の戦艦として初めてカーチス式タービン機関を搭載した[27](ただし呉海軍工廠で、装甲巡洋艦伊吹でタービン搭載の事前実験を実施)[28][29]。その結果出力は25,000馬力(公称21,600馬力)と増加し、速力も装甲巡洋艦並の20ノットを発揮できた[25]。加えて、煙突が薩摩が2本なのに対して安芸は3本なのは、ボイラー自体の大きさを増して薩摩が20基だったのを本艦は15基に減じたためである[25]。この改正により全長が3m増し、排水量も450トン増になっている[30]。これにより常備排水量、全長は共に薩摩より若干増加し19,800トン、全長460フィート(140.2m)である[25]。
薩摩と安芸は姉妹艦と称されているものの、前述の通り、タービン機関を搭載する安芸は外見からして薩摩とは全く異なる[31]。安芸は筑波型・鞍馬型装甲巡洋艦(後に巡洋戦艦)や河内型戦艦と同一行動が可能であり、戦術的価値としては薩摩よりも遥かに上であった[28][32]。すなわちドレッドノート竣工によって2隻(薩摩、安芸)は新造時から旧式戦艦(準弩級戦艦)となってしまったが、安芸はタービン機関の採用により初期ド級戦艦に匹敵する速力を発揮可能であり、技術的足跡において記念すべき艦であった[28]。
艦歴
編集建造
編集1904年(明治37年)臨時軍事費により建造予算成立、1905年(明治38年)1月21日、呉宛に甲号戦艦建造の訓令が出された。同年6月11日、日本海軍は甲号戦艦の艦名を「安藝」(安芸)と内定する(乙号戦艦は薩摩を予定)[33]。1906年(明治39年)3月15日、甲号戦艦(安芸)は呉海軍工廠で起工[17]。同年11月に混焼装置設置の訓令が出された[34]。1907年(明治40年)4月15日午前10時30分、安芸は進水[35][8]、同日附で甲号戦艦は制式に「安芸」と命名[36][19]、戦艦に類別される[37][3]。1911年(明治44年)3月11日、安芸は竣工した[17]。呉工廠で建造の巡洋戦艦「伊吹」の建造を優先したため、本艦の完成が遅れてしまったという[17]。
1912年
編集1912年(大正元年)11月12日、横浜沖合の東京湾で観艦式がおこなわれる[38]。大正天皇御召艦は防護巡洋艦「筑摩」、先導艦は駆逐艦「海風」、供奉艦は防護巡洋艦「平戸」と「矢矧」、通報艦「満州」[39]。裕仁親王・雍仁親王・宣仁親王の御召艦は「平戸」であった[40]。観艦式終了後、大正天皇は「筑摩」から「安芸」に移動、本艦で午餐会がおこなわれた[41][42]。このあと、天皇は本艦を退艦して横浜港より東京へ戻った[43]。
第一次世界大戦
編集1914年(大正3年)には第一次世界大戦に参加。同年秋、摂津・河内・安芸で演習中に「安芸」(当時艦長野村房次郎大佐)は房総沖で座礁したが、自力で離礁した[44]。
1917年
編集1917年(大正6年)7月、大正天皇皇太子(裕仁親王、のちの昭和天皇)は東郷平八郎と共に山陰沿岸を行啓することになり[45]、7月4日に敦賀湾で香取型戦艦「香取」(艦長桑島省三大佐)に乗艦、「安芸」(艦長中川繁丑大佐)は供奉艦となった[46][47]。
1919年
編集1919年(大正8年)7月まで、大修理(大改造)を施行した[7]。
1920年
編集1920年(大正9年)3月下旬、皇太子(のちの昭和天皇)が四国・九州地方を巡啓することになり、3月24日に神戸港で御召艦「香取」に乗艦する[48][49]。先導艦を「安芸」、供奉艦を「薩摩」他が務めた[48][50]。
廃棄
編集ワシントン軍縮条約によって廃棄が決定し[17][51]、1923年(大正12年)9月20日除籍[9]、艦艇類別等級表からも削除された[52][53]。薩摩、安芸の2隻は研究射撃の標的艦に指定された[54]。当時、大正天皇皇太子(昭和天皇)が海軍兵学校卒業式(大正13年7月24日、海兵52期、高松宮宣仁親王卒業)に臨席することになっていた[55]。皇太子は御召艦を戦艦扶桑(艦長米内光政大佐)とし、佐伯湾で長門および陸奥による標的艦(安芸、薩摩)への実弾射撃を視察する予定が組まれた[55][56]。だが行啓直前に御召艦扶桑で腸チフス患者が発生したため皇太子臨席は取止めとなり、廃艦研究射撃も延期された[56]。
1924年(大正13年)9月4日、摂政宮(皇太子時代の昭和天皇)は横須賀軍港で金剛型巡洋戦艦1番艦「金剛」(連合艦隊司令長官鈴木貫太郎、金剛艦長岸井孝一大佐)に乗艦した[57]。供奉艦は軽巡「多摩」(多摩艦長及川古志郎大佐)であった[54]。9月5日の研究射撃予定は、悪天候のため延期される(御召艦以下館山湾碇泊)[57][58]。9月6日、「安芸」は戦艦「扶桑」に曳航されて演習予定地に移動する[10][59]。高松宮宣仁親王(少尉候補生)は軍艦「浅間」にて研究射撃を見学した[56]。房総半島野島崎沖(大島南方海面)は視界不良のため天候の回復を待ち[60]、午後5時10分に長門型戦艦2隻(長門、陸奥)による射撃を開始した[61][10]。5時25分、「安芸」の左舷傾斜・艦首沈下は著しく、「扶桑」は曳綱を切断する[10]。5時40分、再度射撃がおこなわれ、5分後に「安芸」は沈没した[10]。射撃では砂が詰められた砲弾が用いられた[62]。これは、これより前に「金剛」と「日向」が「薩摩」に対して射撃を行った際に沈没に至らず、それは遅発信管が正常に作動しなかったためとされたことによるものであった[63]。
鈴木貫太郎連合艦隊司令長官は「大演習後に司令長官が行った重大なことは、『安芸』『薩摩』の試験的な撃破の研究であった。実になさけないような、軍縮の結果とはいえ、悲壮の感があった。なんといっても、あれだけ働いておった軍艦を撃破しなければならんということで。(中略)いかにも沈むときは悲壮なもので、かつては自分の乗った艦でしたから、命令とはいいながら哀悼に堪えず、全員甲板に立って敬礼したものです。なんともいいしれないワシントン会議に恨めしい心持ちがした」と回想している[64]。
艦長
編集※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
- 矢島純吉 大佐:1910年7月16日 - 1911年5月22日 *兼呉海軍工廠艤装員( - 1911年3月11日)
- 松村龍雄 大佐:1911年5月22日 - 1912年12月1日
- 釜屋六郎 大佐:1912年12月1日 - 1913年12月1日
- 野村房次郎 大佐:1913年12月1日 - 1914年12月1日
- 志摩猛 大佐:1914年12月1日 - 1915年12月13日
- 安保清種 大佐:1915年12月13日 - 1916年12月1日
- 中川繁丑 大佐:1916年12月1日 - 1917年12月1日
- 増田高頼 大佐:1917年12月1日 - 1918年5月3日
- (兼)小松直幹 大佐:1918年5月3日 - 7月17日
- 内田虎三郎 大佐:1918年7月17日 - 11月10日
- 生野太郎八 大佐:1918年11月10日[65] - 1918年12月1日[66]
- (兼)生野太郎八 大佐:1918年12月1日[66] - 不詳
- 生野太郎八 大佐:不詳 - 1919年11月20日[67]
- 石川秀三郎 大佐:1919年11月20日 - 1920年11月20日
- 黒瀬清一 大佐:1920年11月20日 - 1921年11月1日
- 加々良乙比古 大佐:1921年11月1日 - 1922年12月1日
- 森初次 大佐:1922年12月1日 - 1923年9月1日
逸話
編集退役後、安芸の砲身の一本が兵庫県武庫郡鳴尾村(現・西宮市)の鳴尾八幡神社において、「忠魂碑」の塔本体として境内に建立された。当時の鳴尾村より出征した、日清戦争・日露戦争(共に氏名・霊数不明)、大東亜戦争の戦没者(690柱)が祀られている。1941年(昭和16年)の金属類回収令により境内の神馬像が供出されるも、戦没者を祀る塔については残された。その後忠魂碑は「慰霊塔」と名称を変え、毎年8月15日には宮司による慰霊祭が行なわれている[68]。
脚注
編集注釈
編集- ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1付表第一その一「大正九年三月調艦艇要目等一覧表 その一 軍艦」では、「同」(三菱長崎造船所の意味)となっているが間違い。
- ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1付表第一その一「大正九年三月調艦艇要目等一覧表 その一 軍艦」では、「四一式三十六糎砲 四門」となっているが30cm砲の間違い。
出典
編集- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r #昭和造船史1pp.776-777、附表第2 艦艇要目表 1.主力艦要目表
- ^ a b #M44公文備考17/艦体構造の部(8)画像39-41、明治44年3月11日官房第815号「軍艦竣成ノ件 呉海軍工廠二於テ製造中ノ軍艦安藝工事竣成シ本日ヲ以テ同工廠長及同艦長間ニ授受結了致候條右執奏方可然御取計斗相成度 右照会ス(了)」
- ^ a b #達明治40年4月(1)p.13『達第三十八號 艦艇類別等級別表中戰艦ノ欄内「薩摩」ノ次ニ「安藝」ヲ加フ 明治四十年四月十五日 海軍大臣 斎藤實』
- ^ #内令提要7版/艦船(1)画像1-3、艦艇本籍別一覧表 大正四年四月一日調。
- ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1pp.229-231
- ^ #M44公文備考17/艦体構造の部(1)画像5-6、38年1月4日起案、官房機密第120号「訓令案 臨時軍事歩ヲ以テ製造スヘキ甲号(乙号)戦艦別紙図面、製造方法書並ニ豫算書ニ基キ所属海軍工廠ニ於テ製造セシムヘシ 明治三十八年一月廿一日 海軍大臣 (甲号ノ分)呉鎮守府司令長官 (乙号ノ分)横須賀鎮守府司令長官」
- ^ a b c d e f g h i j k #戦史叢書31海軍軍戦備1付表第一その一「大正九年三月調艦艇要目等一覧表 その一 軍艦」
- ^ a b #安芸進水式(2)画像35、4月15日電報『安藝十五日午前十時三十分滞リナク進水セリ』
- ^ a b #達大正12年9月画像2『達第百九十五號 軍艦 香取/同 鹿島/同 薩摩/同 安藝/同 生駒/同 鞍馬/同 伊吹/同 三笠/同 肥前 右帝國軍艦籍ヨリ除カル 大正十二年九月二十日 海軍大臣 財部彪』
- ^ a b c d e #昭和天皇実録四巻129-130頁『六日 土曜日 大島南方海面における研究射撃』
- ^ a b c d e f g h i #日本近世造船史明治(1973)355-358頁。
- ^ #M44公文備考17/艦体構造の部(2)画像43-46、甲号乙号戦艦ボデープラン改正図
- ^ a b #帝国海軍機関史(1975)別冊表9、列国製艦一覧表其ノ二
- ^ #海軍制度沿革10-1(1972)pp.495-496、明治40年4月15日(内令68)。|将校同相当官|41人||兵曹長同相当官、准士官|22人||下士|190人||卒|679人}
- ^ a b c d #日本の戦艦(上)2001p.220
- ^ #T11公文備考35/配属(1)画像47-48
- ^ a b c d e f #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.87『安藝(あき) 艦種一等戰艦 二檣(信號用)姉妹艦に薩摩あり。 艦名考國名なり、安藝國に採る。 艦歴明治39年3月15日起工、同40年4月15日進水、同44年3月11日竣工、右の如く竣工の遅延したるは本艦より1ヶ月後に進水した巡洋戰艦伊吹の完成を先きにしたるに由る。/大正3年乃至大正9年戰役(日獨)從軍:同3年8月第一艦隊第一戰隊に属し青島戰に参加(艦長大佐野村房次郎)、同12年9月20日除籍、廢棄(華府海軍々備制限條約に由る)。
―要目― 長492呎/幅83.66呎/喫水2.75呎/排水量19,800噸/機關 カーチス式タービン2 宮原式罐15臺/馬力21,600/速力20/乗組人員930/船材 鋼(装甲9吋)/兵装 12吋砲4 10吋砲12 6吋砲8 12听砲12 機關砲4 發射管5/起工 明治39-3-15/進水 同40-4-15/竣工 同44-3-11/建造所 呉工廠』 - ^ #帝国最新軍艦帖(1912)コマ42「戰艦 安藝 Battle Ship "Aki"」
- ^ a b c #達明治40年4月(1)p.13『達第三十九號 呉海軍工廠ニ於テ製造ノ甲號戰艦ヲ安藝ト命名セラル 明治四十年四月十五日 海軍大臣 斎藤實』
- ^ #海と船の写真帖コマ54「戰艦 安藝/本艦は華府會議で廢棄になる艦ですが、三十七 八年戰役後我が國に於いて初めて建造せられ、我製艦術の巧なるに、世界各国を驚嘆せしめた記念す可き艦ですから茲に掲げました。」
- ^ 写真日本の軍艦 戦艦II、248頁
- ^ 帝国軍艦発達 1924, p. 3c「(前略)鹿島、香取までの戰艦は總て外國で建造されましたが(尤も鹿島、香取に於きましても根本設計は我海軍より與へられたのであります)薩摩、安藝に至りましては純然たる日本の設計に基き海軍工廠に於て全然日本人の手で建造し材料も大部分は内地品を使用したのであります それで薩摩の進水の際には果して無事に進水が出來るかどうかと云ふ點に關し横濱に居る外人間に賭があったと云ふことでありました 今日より見れば實に馬鹿馬鹿しき話でありますがかかる事もあったのであります 此二艦が今日の弩級艦に達する第二歩であります。(以下略)」
- ^ #海軍夜話コマ110-111(原本193-195頁)「軍縮條約の廢棄艦」
- ^ #水難救済軍艦コマ30-32「戰艦 安藝」
- ^ a b c d e 写真日本の軍艦 戦艦II、250頁
- ^ 帝国軍艦発達 1924, p. 3a「(前略)主砲は何れも十二吋砲四門十吋砲十二門でありますが副砲は薩摩に於て四・七インチ砲十二門のものが安藝に於ては六吋砲八門となり防禦も安藝の方が舷側上列甲鐵及砲廓の甲鐵が厚さ二吋増されて居ります。(以下略)」
- ^ 写真日本の軍艦 戦艦II、251頁(安芸写真解説より)
- ^ a b c 写真日本の軍艦 戦艦II、252頁
- ^ 帝国軍艦発達 1937, p. 1「(前略)其の次が薩摩、安藝で純然たる日本の設計に基き我海軍工廠で建造せられたるもので、薩摩は12吋砲4門速力18 1/4節排水量約19,400噸で、我造船技術の躍進的進歩でありました。安藝は排水量を稍大として速力20節で初めてタービン式機關を採用致して居ります。(以下略)」
- ^ 帝国軍艦発達 1924, p. 3b「(前略)夫に主機械も薩摩のものは「レシプロケーチング、エンジン」でありますが安藝のものは「カーチス、タルビン」になりまして馬力が著しく増しましたので速力が一節四分の三増して居ります 尤も排水量も安藝の方が四百五十噸増して居りますが艦の勢力の増加は排水量の増加した割合の比でありません。(以下略)」
- ^ 帝国軍艦発達 1924, pp. 2–3「(前略)其次が薩摩及安藝(明治四十三年及四十四年竣工)でありまして此二艦は最初は姉妹艦として設計せられたのでありますが仕事の都合で安藝の方が箸手が一年ばかり後になりましたので其間に艦型が變更されまして純然たる姉妹艦ではなくなりました。(以下略)」
- ^ #現代海上兵備(大正4)コマ23-24(原本11-12頁)「(前略)翻って我國は如何と見るに、我國では明治四十年に、排水量一九,八〇〇噸、速力二十節、兵装十二吋砲四門 十吋砲十二門 六吋砲八門其の他を備ふる軍艦安藝を進水せしめたのであって、是が先づ弩型艦に属する、安藝の姉妹艦で前年に進水した薩摩は、噸數、兵装の上では安藝と大差はないが、速力の點で弩型艦たる資格がない。即ち我國では、英國に後るヽこと一年で、弩型艦を出したのである。(以下略)」
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)p.199『◎戰艦安藝薩摩装甲巡洋艦筑波生駒鞍馬伊吹命名ノ件 明治三十八年六月十一日(内令三一六)新造軍艦六隻艦名左ノ通御治定相成候條命名式擧行マテ部内限リ通用スルコトヲ得ル儀ト心得ヘシ|呉海軍工廠ニ於テ製造 甲號戰艦 安藝|横須賀海軍工廠ニ於テ製造 乙號戰艦 薩摩|呉海軍工廠ニ於テ製造 子號装甲巡洋艦 筑波/丑號装甲巡洋艦 生駒|横須賀海軍工廠ニ於テ製造 寅號装甲巡洋艦 鞍馬|呉海軍工廠ニ於テ製造 第一號装甲巡洋艦 伊吹』
- ^ #M39公文備考17/造修6止(4)画像40-41、明治39年11月19日起案、官房第4661号「訓令案 軍艦安藝、伊吹(呉) 薩摩、鞍馬(横)ニ炭油混焼装置設置方取計フヘシ 但シ工事方案等ニツイテハ海軍艦政本部長ト協議スヘシ 明治三十九年十一月十九日 大臣 呉鎮長官 横鎮長官(各二通)」
- ^ 写真日本の軍艦 戦艦II、250頁(安芸進水式写真解説)
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)p.200『◎戰艦安藝命名ノ件 明治四十年四月十五日(達三九)呉海軍工廠ニ於テ製造ノ甲號戰艦ヲ安藝ト命名セラル』
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)p.55『◎明治四十年四月十五日(達三八)艦艇類別等級別表中戰艦ノ欄内「薩摩」ノ次ニ「安藝」ヲ加フ』
- ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実第239コマ(原本87頁)『觀艦式一覧表|大正元-一一-一二|横濱沖|大演習觀艦式|筑摩|一一五|四六〇,八二五|飛行機 二』
- ^ 大正天皇実録第四 2019, p. 90a海軍大演習観艦式に臨幸
- ^ #昭和天皇実録一巻614-615頁『(大正元年十一月)十二日 火曜日(平戸・筑摩乗艦)』
- ^ 大正天皇実録第四 2019, p. 91a大演習関係諸員に陪食を賜ふ
- ^ 大正元年11月13日官報第87号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ3『○海軍御演習觀艦式御親閲行幸 天皇陛下ハ御豫定ノ如ク昨十二日午前七時三十五分青山離宮御出門同八時新橋停車場御發車同八時四十五分横濱停車場御箸車軍艦筑摩ニ乗御横濱冲ニ於テ海軍大演習觀艦式御親閲訖テ更ニ軍艦安藝ニ乗御大演習ニ参加ノ海軍将校其他ニ午餐ヲ賜ハリ午後三時五分横濱停車場御發車同三時五十分新橋停車場御箸車同四時十五分還幸アラセラレタリ|○東宮行啓 昨十二日海軍御演習觀艦式御覽ノタメ 皇太子殿下ハ雍仁親王、宣仁親王兩殿下御同伴午前六時五十分東宮假御所御出門同七時十五分新橋停車場御發車同八時横濱停車場御箸車横濱港ヘ行啓午後一時三十分横濱停車場御發車同二時十五分新橋停車場御箸車同二時三十五分還御アラセラレタリ|○皇族差遣 昨十二日横濱沖ニ於テ海軍大演習觀艦式御親閲趾午餐下賜ノ際依仁親王殿下ヲ軍艦河内ニ差遣ハサレタリ』
- ^ 大正天皇実録第四 2019, p. 91b.
- ^ #禅の応用コマ107(原本171-172頁)『軍艦安藝の救助(大正三年)』
- ^ #東郷全集1巻コマ324(原本622-623頁)
- ^ #昭和天皇実録二巻304-305頁『御召艦香取に乗艦』
- ^ 大正6年7月6日官報第1479号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ2『○東宮御乗艦 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク一昨四日午前八時二十分静岡御用邸御出門同八時三十分静岡停車場御發車午後四時三十五分金ヶ崎停車場御箸車同四時五十分軍艦香取ニ御乗艦アラセラレタリ』
- ^ a b #昭和天皇実録二巻552-553頁『神戸港御出発』
- ^ 大正9年3月26日官報第2292号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ6『○東宮御發艦 皇太子殿下ハ一昨二十四日午前六時四十分二條離宮御出門同七時京都驛御發車同八時五十五分神戸驛御箸車御乗艦同十一時神戸港御發艦アラセラレタリ』
- ^ #東郷全集1巻コマ328(原本630-631頁)
- ^ #海を征くコマ67-68(原本121-122頁)
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)p.60『◎大正十二年九月二十日(達一九六)艦艇類別等級別表中戰艦ノ欄内「香取、鹿島、薩摩、安藝」、巡洋戰艦ノ欄内「生駒、鞍馬、伊吹」及海防艦ノ欄内「三笠、肥前」ヲ削除ス』
- ^ #達大正12年9月画像2『達第百九十六號 艦艇類別等級別表中戰艦ノ欄内「香取、鹿島、薩摩、安藝」、巡洋戰艦ノ欄内「生駒、鞍馬、伊吹」及海防艦ノ欄内「三笠、肥前」ヲ削除ス 大正十二年九月二十日 海軍大臣 財部彪』
- ^ a b #昭和天皇実録四巻127-128頁『(大正十三年九月)四日 木曜日 聯合艦隊に行啓/御召艦金剛/横須賀御出港』
- ^ a b 高松宮宣仁親王伝記 1991, p. 215.
- ^ a b c 高松宮宣仁親王伝記 1991, p. 225.
- ^ a b 大正13年9月6日(土)官報第3613号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ2『◎東宮御入港 皇太子殿下ハ一昨日四日午前九時十分東宮假御所御出門同九時三十分東京驛御發車同十一時五分横須賀驛御着車逸見埠頭ヨリ軍艦金剛ニ御乗艦正午十二時横須賀軍港御出港午後二時三十分館山灣御入港アラセラレタリ/◎御取止 皇太子殿下ハ昨五日天候不良ニ付射撃御覽御取止アラセラレタリ』
- ^ #昭和天皇実録四巻129頁『五日 金曜日』
- ^ 大正13年9月9日(土)官報第3615号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ3『◎東宮御碇泊 皇太子殿下ハ本月六日午前九時館山灣御出校午後五時ヨリ大島南方海面ニ於テ舊軍艦安藝ニ對スル研究射撃竝ニ夜間星彈射撃御覧ノ上午後十時館山灣ニ御歸泊アラセラレタリ』
- ^ #大正の海軍物語コマ136(原本252-253頁)
- ^ #提督草鹿任一47-49頁『砲術学校射撃科教官』
- ^ 『超駆逐艦 標的艦 航空機搭載艦』206ページ
- ^ 『超駆逐艦 標的艦 航空機搭載艦』205-206ページ
- ^ 高松宮宣仁親王伝記 1991, p. 226.
- ^ 『官報』第1883号、大正7年11月12日。
- ^ a b 『官報』第1900号、大正7年12月3日。
- ^ 『官報』第2190号、大正8年11月21日。
- ^ 神社紹介 - 鳴尾八幡神社 公式サイト
参考文献
編集- 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
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- 「海軍」編輯局 編『帝国最新軍艦帖』画報社支店、1912年11月 。
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- 河合秋平 編『軍艦帖 : 海と船の写真帖』勝田書店、1923年7月 。
- 高橋三吉『海を征く』東水社、1943年3月 。
- 中島武『大正の海軍物語』三友社、1938年11月 。
- 久住幸作『海軍夜話』海国社、1943年4月 。
- 藤田定市編『現代海上の兵備』帝国在郷軍人会本部、1915年10月 。
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- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
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- 『明治39年 公文備考 艦船7 巻16/造修 6止(4)』。Ref.C06091741400。
- 『明治44年 公文備考 艦船1 軍艦安芸 薩摩製造1 巻17/艦体構造の部(1)』。Ref.C07090127500。
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- 泉江三『軍艦メカニズム図鑑 日本の戦艦 上』グランプリ出版、2001年4月。ISBN 4-87687-221-X。
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻十の1』 明治百年史叢書 第182巻、原書房、1972年4月(原著1940年)。
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- 宮内庁 編『昭和天皇実録 第一 自明治三十四年至大正二年』東京書籍株式会社、2015年3月。ISBN 978-4-487-74401-5。
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- 宮内庁 編『昭和天皇実録 第四 自大正十三年至昭和二年』東京書籍株式会社、2015年3月。ISBN 978-4-487-74404-6。
- 宮内庁図書寮 編『大正天皇実録 補訂版 第四 自明治四十五年至大正四年』株式会社ゆまに書房、2019年6月。ISBN 978-4-8433-5042-3。
- 「高松宮宣仁親王」伝記刊行委員会編『高松宮宣仁親王 自明治三十四年至大正二年』朝日新聞社、1991年3月。ISBN 4-02-256278-1。
- 造船協会『日本近世造船史 明治時代』 明治百年史叢書、原書房、1973年(原著1911年)。
- (社)日本造船学会/編『昭和造船史(第1巻)』 明治百年史叢書 第207巻(第3版)、原書房、1981年(原著1977年10月)。ISBN 4-562-00302-2。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』 戦史叢書第31巻、朝雲新聞社、1969年。
- 雑誌『丸』編集部 編「阿部安雄『日露戦役後の国産戦艦』」『写真 日本の軍艦 戦艦II 金剛・比叡・榛名・霧島 戦艦時代の夜明け』 第2巻、光人社、1989年8月。ISBN 4-7698-0452-0。
- 石橋孝夫『超駆逐艦 標的艦 航空機搭載艦 艦艇学入門講座/軍艦の起源とその発展』潮書房光人社、2017年、ISBN 978-4-7698-3006-1
- 『官報』
関連項目
編集- 戦艦一覧
- 大日本帝国海軍艦艇一覧
- ワシントン海軍軍縮条約
- あき (音響測定艦) - 戦後、海上自衛隊が建造したひびき型音響測定艦の3番艦。同名艦であるが、こちらは「安芸灘」に由来する。