持明院基宗

平安時代後期から鎌倉時代初期の公卿。持明院家4代。持明院基家の長男。母は因幡(源長時(右馬助)の娘、上西門院女房)あるいは散位隆重の娘。従三位・非参議。子に持明院家隆、宗

持明院 基宗(じみょういん もとむね)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿藤原北家中御門流庶流持明院家持明院基家の子。官位従三位非参議。持明院家4代当主。

 
持明院基宗
時代 平安時代後期 - 鎌倉時代初期
生誕 久寿2年(1155年
死没 建仁2年2月25日1202年3月20日[1]
改名 長基(初名)→基宗
官位 従三位非参議
主君 二条天皇六条天皇高倉天皇安徳天皇後鳥羽天皇土御門天皇
氏族 藤原北家中御門流庶流持明院家
父母 父:持明院基家
母:上西門院女房因幡(源長時の娘)
兄弟 基宗保家陳子藤原実宗室、平資盛正室、園基氏、行雲、俊玄、源兼忠室、惟明親王
昌玄の娘、藤原成通の娘、藤原成子(藤原成親の娘)
家行基能家隆、宗雲、宗全、宗子
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経歴

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母・源長時の娘は上西門院に仕えた女房のため、上西門院より多くの給を賜った。

永暦2年(1161年)7歳で叙爵加賀守に叙任される。侍従を経て、承安2年(1172年正五位下に叙される。治暦3年(1179年左近衛少将に任ぜられる。

養和元年11月/寿永元年(1182年従四位下、従四位上と同年のうちに昇叙され、文治4年(1188年左近衛権中将より建久6年(1195年従三位に叙され公卿に列す。しかしその後は官職に就くことはなく建仁2年(1202年)2月に薨去。享年48。

官歴

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※以下、『公卿補任』の記載に従う。

  • 永暦2年(1161年
    • 正月23日:従五位下に叙す(上西門院當年給)。
    • 8月27日:加賀守に任ず(上西門院御分。停濟綱任之)。
  • 仁安2年(1167年
    • 11月13日:昇殿を聴す。
    • 12月30日(1168年2月10日):従五位上に叙す(上西門院去年大嘗會御給)。
  • 嘉応3年(1171年)正月:侍従に任ず。
  • 承安2年(1172年)正月5日:正五位下に叙す(上西門院當年御給)。
  • 治承3年(1179年)正月19日:左近衛少将に任ず[2]
  • 養和元年11月28日(1182年1月4日):従四位下に叙す。
  • 寿永元年(1182年)11月23日:従四位上に叙す(上西門院大嘗會御給)。
  • 元暦元年(1184年)7月24日:正四位下に叙す(上西門院御即位給)。
  • 文治4年(1188年)正月23日:左近衛権中将に任ず。
  • 建久6年(1195年)4月7日:従三位に叙す。左中将如元。

系譜

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脚注

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  1. ^ 尊卑分脈』によれば26日。
  2. ^ 玉葉』に拠れば左近衛権少将。
  3. ^ 初名は家能
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