紀元前340年
年
紀元前340年(きげんぜん340ねん)は、ローマ暦の年である。
世紀 | 前5世紀 - 前4世紀 - 前3世紀 |
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十年紀 |
前350年代 前350年代 前340年代 前350年代 前330年代 |
年 |
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他の紀年法
編集できごと
編集ペルシア
編集ギリシア
編集- ピリッポス2世がペリントスとビザンティウムを攻撃し、ペルシャのアルタクセルクセス3世がこれらの都市へ援軍を送った。結果ピリッポス2世はビザンティウムの攻城戦で敗北し、ドナウ川の河口付近にあるスキタイの攻撃に対応せざるを得なくなる。彼の息子、アレクサンドロス3世は、がビザンティウムとスキタイと戦っている間、摂政を務めた。ビザンティウムの攻城戦が失敗した後、アテナイの住民はデモステネスへ感謝の決議をした。
シチリア
編集- レンティーニの僭主であるヒケタスがカルタゴに対し、リルバイウムに到着した大軍をシチリアへ送るよう再度説得した。シラクサのティモレオンはこのカルタゴの大軍とシシリア西部のクリミスス川の戦いで対面し、劣勢の中勝利を収めた。しかし勝ったにもかかわらず、カルタゴ軍はシシリア西部を占領し続けていた。条約によってカルタゴ軍の範囲をHalycus (Platani)川以西に限ったからである。
共和政ローマ
編集- ラティウム人の大使が元老院に送られ、共和政ローマとラティウム人で一つの共和国を構成するよう求めた。ラティウム人は、自分たちはローマに匹敵すると考えていたのである。ローマは、ラティウム同盟のリーダーであると考えていたので、ラティウム人が同等の政治力を持つことやローマの元老院に入れることを拒否した。ローマが提案を拒否したため、第二次ラティウム戦争が始まった。ラティウムはカンパニアとともに戦う一方で、ローマはサムニウムに加わりラティウムを攻撃した。ラティウムの中のラウレンテス族とカンパニアの中のエクィテスはローマ側についた。パエリグニ族の支援を受けていたためである。
- ローマはサムニウムへの恐怖を通じてカンパニア軍とラティウム同盟軍の引き離しに成功し、カンパニアに単独講和を促した。結果、カプアとクーマエを含むカンパニアの3つの都市に、ローマ市民権が認められ、ローマ化した。ローマはナポリ湾まで広がった。
中国
編集誕生
編集→「Category:紀元前340年生」も参照
- アッピウス・クラウディウス・カエクス、共和政ローマ期の政治家(+ 紀元前273年)
死去
編集→「Category:紀元前340年没」も参照
脚注
編集注釈
出典