釜本邦茂

日本のサッカー選手、監督

釜本 邦茂(かまもと くにしげ、1944年4月15日 - )は、日本京都府京都市右京区太秦出身)の元サッカー選手、元サッカー指導者、元政治家実業家自由民主党所属の元参議院議員(1期)。日本サッカー協会 (JFA) 顧問[4]。現役時代のポジションはフォワードで、サッカー関係者から「史上最高の日本人センターフォワード」とされる。

釜本 邦茂
釜本邦茂(2014年)
名前
愛称 ガマ、ガマッチョ
カタカナ カマモト クニシゲ
ラテン文字 KAMAMOTO Kunishige
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1944-04-15) 1944年4月15日(80歳)
出身地 京都府京都市右京区太秦
身長 179cm
体重 79kg
選手情報
ポジション FWCF[1]
利き足 右足
ユース
19??-1956 日本の旗 京都市立太秦小学校
1957-1959 日本の旗 京都市立蜂ヶ岡中学校
1960-1962 日本の旗 京都府立山城高校
1963-1966 日本の旗 早稲田大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1967-1984 日本の旗 ヤンマーディーゼル 251 (202)
通算 251 (202)
代表歴
1962-1963[2]  日本ユース 9[2] (5[2])
1964-1977 日本の旗 日本 76 (75[3])
監督歴
1978-1984 日本の旗 ヤンマーディーゼル
1991-1994 日本の旗 松下電器/ガンバ大阪
2009 日本の旗 藤枝MYFC
獲得メダル
男子 サッカー
オリンピック
1968 メキシコシティ サッカー
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

日本サッカーリーグでは、251試合出場し、通算202得点(歴代1位)、通算79アシスト(歴代1位)を記録。得点王7回、アシスト王3回、年間優秀11人賞14回、日本年間最優秀選手賞7回受賞(歴代1位)と傑出した活躍を見せた。また、サッカー日本代表として国際Aマッチ76試合75得点(総通算231試合153得点)を記録し、1968年メキシコオリンピックでは、アジア人初の得点王となった。2005年第1回日本サッカー殿堂入り。

日本サッカー協会やRec.Sport.Soccer Statistics Foundation (RSSSF) の認めるサッカー日本代表の男子の単独最多得点記録保持者(75得点)であり[3][5]国際サッカー連盟 (FIFA) でも2014年時点では最多得点記録保持者(80得点)としている[6]。詳細については、試合数の項を参照。趣味は、ゴルフ時代劇のテレビ鑑賞。座右の銘は「己に剋つ」である[7]

人物

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日本サッカー界で歴史上最も優秀なストライカーとして挙げられる事がある[8]ラモス瑠偉は「体中に筋肉が付いていて、背が高い。ボールがとにかく収まる。そしてシュートは、振りの速さと正確さがすさまじかった。釜本さんを超える日本人センターフォワードが出てこない。」と評した[9]

右足から繰り出される強力なシュートが最大の武器。特に右45度からのシュートは正確無比[10][11] で、そのレベルは恩師のデットマール・クラマー曰く世界最高クラスであった。また、左足からのシュートも右足ほどではないが正確であり、跳躍力を活かしたヘディングシュートも美しく[12]、後に釜本は、自らのシュートについて「5割は右足。左足が3割で、頭が2割」と語っている。即ち、あらゆる形からゴールを奪う事が出来る万能型フォワードであった。右足のシュートは、自身の若い頃に、プレースタイルに惚れ込んでいた往年のポルトガルの名ストライカー・エウゼビオのフィルム映像を幾度も見て分析したことによるものである。映像分析から、エウゼビオはボール保持からシュートに至るまでの一連の動作が自身の動きより1つ少ない事に気づき、そこからシュートフォームを体得する。他、エウゼビオが得点後に大股で跳躍して、握った拳を腰から胸に突き上げる動作をしているが、現役当時の釜本もゴール後にエウゼビオと同じゴールパフォーマンスを行っているのが確認出来る。

対戦相手は釜本の突破と右足からの強烈なシュートを警戒し、それを阻止する事に神経を集中させる。そこで左足のシュートが威力を発揮した。1974年の日本リーグ通算100得点目は左足のトゥキック[13]、1981年11月1日の通算200得点目も左足シュートであった[14]。 また当初は得点能力には秀でたものの、ディフェンスを背負った状態でボールをキープし、そこから反転してシュートへ持ち込む一連の動作に不安が残っていた。この弱点は日本代表コーチのクラマーや、西ドイツ留学当時の恩師、ユップ・デアヴァルといった優れた指導者の下で改善し[15]、「(ペナルティエリア内でディフェンス3人がかりの)マークを受けていても自分にパスを出すべきだ」、「敵が来たら、体でブロックしてシュートを打てばいい」と語るほどディフェンスをかわす動きに自信を付けていった[8](後述)。

1968年メキシコオリンピックでは7得点を挙げ、得点王に輝き、日本代表の銅メダル獲得にも大きく貢献した。

日本代表では杉山隆一との名コンビで知られた。1964年東京オリンピック当時は「20万ドルの足を持つ男」の異名で呼ばれた杉山の方が有名な存在であったが、後に釜本がストライカーとしての才能を開花させると、杉山はアシスト役に徹する様になった。そしてメキシコ五輪では釜本の記録した7得点のうち4得点は杉山のアシストからの得点であった。

引退するきっかけは自宅において椅子から立ち上がる際テーブルに体を痛打、この時「もう(日常の簡単な動作さえ出来ないのなら)選手は仕舞いやな」と決める。

1984年に引退後、関西テレビのワイドショー番組シュートinサタデーのキャスターを経て、1991年ヤンマークラブの選手・監督で創設された松下電器(後のガンバ大阪)の監督に就任。1995年から2001年まで参議院議員を1期務め、労働政務次官を務めた。現在は日本サッカー協会顧問。2005年第1回日本サッカー殿堂入り。2006年9月より京都文教大学客員教授(文化実践論)[16]。また、京都府のゴルフ場「クラウンヒルズ京都ゴルフクラブ」オーナーに就任した。

経歴

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学生時代

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太秦小学校と道を挟んだ高台にある長屋に生まれる[17]。小学校に上がるまでは近所の広隆寺境内遊び場だった[18]。京都市立太秦小学校[19] でサッカーを始める。市立蜂ヶ岡中学校3年の時、主将として京阪神三都市大会に出場、同大会にて優勝を果たし、京阪神地域の指導者の注目を集めるようになった。

1960年京都府立山城高等学校に入学しサッカー部へ入部。森貞雄監督の下でレギュラーの座を掴むと、10月の熊本国民体育大会にて優勝。 1961年に京都府サッカー協会会長の藤田静夫(後の日本サッカー協会会長)の計らいにより大学生以上を対象とした講習会に特別参加。ここで、FIFAコーチ、デットマール・クラマーに会い、薫陶を受ける。

1962年1月には全国高校サッカー選手権にて同校を準優勝に輝く。決勝戦は広島県代表の修道高等学校との対戦となったが、二村昭雄を怪我で欠いた影響もあり2-4で敗れた。 同年4月には高校選手権で戦った森孝慈らと共に日本ユース代表に選出され、第4回アジアユース大会に出場した。

1963年早稲田大学第二商学部入学。関東大学リーグで優勝を果たし、11得点で得点王。この年を含め4年連続得点王。日本ユース代表主将として第5回アジアユース選手権にも出場。1964年1月、日立製作所(現柏レイソル)を破り天皇杯優勝。1967年1月、天皇杯で東洋工業(後のサンフレッチェ広島)を破り優勝。(以後、天皇杯での大学勢の優勝はない)

ヤンマーディーゼル

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早稲田大学を率いて天皇杯制覇、関東リーグ4年連続得点王の実績から多くの企業から誘いを受けた。特に三菱重工(後の浦和レッドダイヤモンズ)からの勧誘は熱心で、大学の同僚の森孝慈が入社を決めた事で三菱入りへ傾いたが、ヤンマーディーゼル(後のセレッソ大阪)の山岡浩二郎サッカー部部長や早大の先輩で関西の実力者、川本泰三の勧めもあり、1967年4月、ヤンマーに入社する事になった。同い年で同期入社の水口洋次は無二の親友。 日本サッカーリーグ豊田自動織機戦でデビューを飾ると、この試合で初得点を決めた。同年は14得点を挙げたが、古河の木村武夫に1点差で得点王のタイトルを逃した[20]。関西の弱小チームであったヤンマーを釜本の強い個性で牽引していった。また同年5月には日系ブラジル人のネルソン吉村(後に帰化し吉村大志郎と名乗る)が加入。吉村の南米出身者らしい柔軟なボールタッチは目を見張るものがあり、釜本も吉村との練習や試合中で、貪欲に学習した。会社も釜本や吉村を始めとした選手補強や、施設の整備や選手の待遇改善などの支援を積極的に行い、やがてリーグを代表する強豪へと成長していった。1968年には14ゴールを挙げて初の得点王に輝いた[20]

1969年1月天皇杯で三菱重工を破り、ヤンマー初優勝。決勝ゴールをあげる活躍で初のビッグタイトルをもたらした。

1975年12月14日、JSL第18節三菱重工戦のメンバー[21]

ヤンマーや日本代表での活躍(後述)など順調な成長を見せていた釜本であったが、1970年にウイルス性肝炎を患い選手キャリアを中断、入院生活を余儀なくされた。復帰後も度々故障が続くなどコンディションが完全に回復するまで3年間を有したが、前述の吉村を始めとしたブラジル出身者と、それに刺激され徐々に実力を付けた日本人選手の奮闘もあって1971年には日本リーグと、天皇杯の二冠を獲得した。

そして、病気が完治するとGK西片、DF北村、松村、浜頭、水口、MF吉村、小林、阿部、FW今村、釜本、堀井らの、ほぼ不動のメンバーを擁して1974年、1975年の日本リーグ連覇、1975年の天皇杯制覇に貢献。釜本自身も1974年10月20日の日本リーグ、対三菱戦において通算100得点を達成した。この頃には試合の流れを読んだゲームメイクやチャンスメイクも担当する様になり、また若い頃の様な豪快なプレーだけでなく、相手ディフェンスのマークを一瞬外し、再びゴール前の危険地帯へ飛び込む「消える動き」も身に付けるなど[22] 第2の最盛期を迎えた。

1978年2月、ヤンマーの選手兼任監督に就任、全盛期を支えた選手達が少しずつチームを去る節目の時期でもあった。若手の楚輪博の成長もあって、釜本はゴール前での得点に専念する様になった[23][24]。そして1981年11月1日の対本田技研戦において通算200得点と201得点を記録。この2得点はいずれも楚輪のアシストから生まれた。

その後、1982年5月20日対マツダ(後のサンフレッチェ広島)戦で右足首アキレス腱断裂。8月11日、練習中に同じ個所を切り選手生活の危機に直面した。そして1年半後の1983年11月3日、日本リーグ対読売クラブ(後の東京ヴェルディ)で復帰を果たし、1984年1月1日の天皇杯決勝、対日産自動車(後の横浜F・マリノス)戦に後半途中出場。これが公式戦最後の試合出場となった。

同年8月25日の「釜本邦茂引退試合」、ヤンマーディーゼル対日本サッカーリーグ選抜戦は、東京・国立霞ヶ丘競技場陸上競技場に6万2千人の観衆を集め行なわれ、更に通路にまでも人で溢れかえった[20]。ゲスト・プレーヤーに往年のスター選手ペレヴォルフガング・オヴェラートを迎えた試合は、釜本自身が前半15分に得点を決め引退の花道を飾った[25]。試合後の競技場にはサポーターから「釜本コール」が鳴り響いた。日本リーグ通算202得点(ハットトリック13回)、79アシストの数字を残した[20]

日本代表

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代表レベルでは、高校2年、3年次に日本ユース代表に選出されアジアユース大会に出場。 早稲田大学1年次の1963年には日本B代表に選出され、同年秋に開催されたプレ五輪大会に出場した。

翌1964年に19歳で日本代表に選出されると東南アジア遠征に参加。同年2月21日のタイ空軍戦で代表デビューを飾ると、同25日のスランゴール州選抜戦で代表初得点、3月3日のシンガポール戦で国際Aマッチデビューを飾った。この遠征では5試合出場3得点を記録し、これ以降、日本代表へ定着していった。そして地元日本で開催された東京オリンピックに参加、10月14日の1次リーグ、アルゼンチン五輪代表戦では81分に川淵三郎の同点ゴールをアシスト。日本はベスト8でチェコスロバキア五輪代表に敗退したが、FIFAと日本蹴球協会が主催する敗者トーナメント(大阪トーナメント)に参加。10月20日の5・6位決定戦、ユーゴスラビア五輪代表で1得点を決めたが、釜本自身は消化不良の大会となった。

東京オリンピック当時は技術や駆け引きの面で未熟さを見せていたが、2年後の1966年12月、第5回アジア大会ではエース級に成長し、6得点を挙げ大会3位入賞に貢献した。1967年、ブラジルのパルメイラスを招いて、親善試合を4試合して、1勝3敗という成績であったが、第2戦の1967年6月21日に行われた試合では決勝ゴールを決め、外国プロサッカークラブに対し初勝利を飾った[26]。しかし、その後1967年7月末からの日本代表の南米合宿でパルメイラスと再戦し、他にペルーB代表やブラジル2部のチームと合計6試合、対戦したが1分5敗の成績で釜本は全試合無得点で帰国した。しかし、同年9月から10月に開催されたメキシコオリンピックアジア予選に出場して、9月27日の初戦フィリピン戦のダブルハットトリックで15-0で大勝した。フィリピン戦の6得点は、三浦知良と並び日本代表1試合最多得点記録である(2011年時点。FIFAでは三浦知良の単独記録としている[27]。同30日の台湾戦のハットトリックを含む11得点を挙げる活躍で、本大会出場に貢献した。しかし、傑出した得点能力の一方でボールコントロールや、相手マークを外す動きには依然として問題が残っていた。

1968年1月にクラマーの勧めもあり、西ドイツ1.FCザールブリュッケンへ短期留学。後に西ドイツ代表監督を務めるユップ・デアヴァルから指導を受けると、この事が選手としての重要な転機となった。デアヴァルはフィジカルを高める特別なメニューを釜本に課し、それと並行してゲーム形式のトレーニングも行った。またドイツサッカー協会(DFB)の特例により公式戦へも参加するなど貴重な経験を積んだ[28]。そしてダイヤの原石であった釜本は、プロの厳しいトレーニングを受けた3ヶ月の留学の結果、逞しさとボールコントロールのテクニックに秀でた選手へと成長を遂げた[29]

1968年10月24日、メキシコ五輪3位決定戦、メキシコ戦のメンバー。スイーパーを配した1-4-2-3の布陣[30][31]

留学後に日本代表へ合流、オリンピックに向け組まれた親善試合では留学の成果を発揮し、同年6月23日のアーセナルFC戦で豪快なダイビングヘッドから得点を挙げるなど、外国の屈強なディフェンス相手に互角に渡り合った。夏のヨーロッパ遠征を終える頃には日本代表の方向性も「堅守からのカウンター攻撃。釜本のゴール前での決定力を生かす」へと固まる。しかし、日本代表は日本でのアーセナル戦からその欧州遠征でプロのクラブやチェコ五輪代表と対戦して11連敗を記録し、遠征の最後にドイツのアマチュアのレクリングバウゼン選抜チームと対戦してようやく1勝したのみで、遠征のチーム成績は良くなかった。そして同年10月のメキシコ五輪で釜本は7得点2アシストの全得点に絡む活躍[32][33]。準決勝ではハンガリーに0-5で敗れたが、3位決定戦では地元メキシコを2-0で破り[34] 銅メダルを獲得し、同大会の得点王に輝いた。

メキシコ五輪での成功を受け、次の目標は1970年のFIFAワールドカップ・メキシコ大会出場へと向けられた。メキシコ五輪の後、釜本の元には、西ドイツフランスメキシコエクアドルなどからのオファーが相次ぎ、釜本自身は恩師・デットマール・クラマーの母国でもある西ドイツでプレーすることを望んでいたという。しかし、アジア遠征で水に当たり、黄疸がでてしまう。1969年6月16日、日本代表合宿中に倒れ、ウイルス性肝炎と診断され兵庫県西宮市内の病院へ入院。50日後の8月5日に退院するも、医師の許可が下りず10月のメキシコ大会予選は欠場、釜本を欠いた日本代表は予選敗退に終わった。釜本は本来のコンディションを取り戻すのに数年を有し、4年間は試合出場と通院生活が続いた。

1970年3月、日本代表に復帰を果たすが、長年コーチとして代表を指導したクラマーは去り、メキシコ五輪銅メダル獲得に貢献したベテラン選手達は一人また一人と代表を去る中で、リーダーとしての重責を担う様にもなった。1970年12月の第6回アジア大会で4位。1972年7月のムルデカ大会で15得点を挙げ得点王に[35]。日本を3位に導いたものの、1973年5月のFIFAワールドカップ・西ドイツ大会予選、1976年3月のモントリオールオリンピック予選では敗退が続いた。

モントリオールオリンピック予選後に代表引退を決意していたが、二宮寛監督の説得により復帰。そして1976年8月、ムルデカ大会では釜本は二列目に下がり、FWの奥寺康彦とのコンビネーションで新境地を開拓し同大会の準優勝に貢献した。しかし、1977年3月のFIFAワールドカップ・アルゼンチン大会予選ではイスラエル戦前のウォーミングアップ中に肉離れを起こし[36]、それでも怪我を押して出場を続けたが[36]、無得点に終わり、またチームも韓国とイスラエルに競り負け、代表引退を決断、同年9月14日のニューヨーク・コスモス戦を最後に日本代表を引退した[36]。日本代表として1964年から1977年までの13年間に国際Aマッチ76試合75得点(総通算231試合153得点)を記録し、これは現在でも男子による日本代表の国際Aマッチ最多得点記録である。男女を通じては2011年7月1日に澤穂希が78得点目をあげ記録を塗り替えており、釜本本人は「(自分の記録が)まさか女の子に抜かれるとは」とコメントしている[37]

世界選抜

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メキシコ五輪終了後直後の1968年11月6日にリオデジャネイロマラカナン・スタジアムで開催された、ブラジル対世界選抜の試合に招集。これは世界選抜の監督を務めたクラマーの推薦もあっての実現であったが、釜本は日本代表の仲間と共に帰国する事を選択した[38]。この試合にはブラジルはペレロベルト・リベリーノ。世界選抜にフランツ・ベッケンバウアーレフ・ヤシンらのスター選手たちが多数出場していた。

その12年後の1980年12月には世界選抜の選手として、スペインで開催されたユニセフ慈善サッカー大会に出場。世界選抜にはヨハン・クライフミシェル・プラティニベルント・シュスターらが参加し、世界選抜の監督は、西ドイツ留学時代の恩師、デアヴァルであった[38]

指導者として

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前述の西ドイツ留学時代にコーチング講習会を受講。1978年から所属するヤンマーディーゼルの選手兼任監督に就任し1984年まで同サッカー部の指揮を執った。1970年代の黄金時代を共に支えた吉村やジョージ小林らはクラブを去り、世代交代を一任された。就任3年目の1980年に監督として初のリーグ制覇へ導いた。その後1985年2月まで監督を務めた。

ヤンマー退団後は「釜本FC」を設立し大阪を中心にユース年代の育成に携わった(大黒将志も属した釜本FCはガンバ大阪ジュニア・ジュニアユースに移管)。また同時に「釜本サッカー教室」を主催し、少年サッカーの指導の為に全国を駆け回った。1991年2月頃までにかけて東芝一社提供番組などでサッカー指導するというミニコーナーも放映された。

1991年、当時、プロリーグへの参加が内定していた松下電器産業サッカー部(現ガンバ大阪)の監督に就任。1993年Jリーグ開幕時のガンバ大阪監督となる。しかし、エースストライカーの永島昭浩を始めとする古参選手との確執(永島は翌1994年に清水エスパルスへ電撃移籍)や、期待された礒貝洋光松波正信を育てきれない、松波と同期で自身の山城の後輩石塚啓次獲得に失敗など成績は低迷。1994年、天皇杯終了と同時に、監督を事実上解任され退団した(契約上の退任時期は1995年1月)。 監督としてのJリーグ通算成績は、2シーズンで80試合、31勝49敗。最高位は1993年ニコスステージ(2ndステージ)の6位(10チーム中)となっている(同ステージ7月31日博多の森陸上競技場での初代チャンピオンヴェルディ川崎との公式戦で0-2、相手GK菊池新吉に完封負、追加点となる2失点目は翌日結婚式を控えた三浦知良が記録)。

その後

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1996年日本サッカー協会(JFA)理事に就任。1998年7月にJFA副会長に就任。1999年7月、JFAの2002年強化推進本部長に就任。日本代表のフィリップ・トルシエ監督を評価する立場となり、両者の対立や釜本によるトルシエ解任の意向などがしばしば報道された。2000年7月、労働政務次官就任を理由として2002年強化推進本部長を辞任。その後、参議院選挙での落選後にJFA副会長を辞任したが、2004年7月からJFA副会長に復帰した。

2005年4月、JFA選定の第1回日本サッカー殿堂掲額者として選定される。

2008年7月、JFAの役員改選に伴い副会長を退任、執行部に属さない名誉副会長に就任する事となった。

2009年2月には、サッカーコミュニティサイト『MYFC』が運営を予定しているサッカークラブ・藤枝ネルソンCF(後に藤枝MYFCと改称)の監督に就任することが発表された。ただし本人は「『MYFC』有料化までの暫定監督」[39]「監督と言うよりはスーパーバイザー的役割」[40] と発言しており、実際の現場での指揮はヘッドコーチの斉藤俊秀が執っている。

2010年7月、JFA名誉副会長を退き顧問となった[4]。2014年に旭日中綬章受章[41]

2024年現在、新潟県新潟市西区小新のグランセナ新潟FCのスクールマスターを務めている。

政治家として

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釜本 邦茂
かまもと くにしげ
 
所属政党 自由民主党森派

選挙区 比例区
当選回数 1回
在任期間 1995年7月23日 - 2001年7月22日
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早大体育会の先輩で親交が深かった、当時の自民党幹事長森喜朗にスカウトされ1995年第17回参議院議員通常選挙では自民党公認(比例名簿登載順位11位)として比例区より立候補し初当選。自民党の同期当選議員に、馳浩橋本聖子がいる。 当選後は院内の厚生労働委員会に所属し、日本サッカー協会副会長を兼務しながら、2002年W杯の開催準備などに尽力。党内派閥としては清和政策研究会(会長三塚博 - 森 - 小泉純一郎)に所属した。

1998年日本道路公団の関連会社で、高速道路用プリペイドカード「ハイウェイカード」販売に関する特別背任事件が発覚。一連の不正販売に釜本の妻が経営する会社の関与が明らかになる[42]

2000年7月4日第2次森内閣の労働政務次官に就任する(政務担当の内閣官房副長官は同じ派閥の安倍晋三上野公成)、同年12月6日、内閣改造に伴い労働政務次官を退任。

2001年第19回参議院議員通常選挙では非拘束名簿式が導入された比例区に自民党公認として立候補したが、小泉フィーバーで自民党が20議席を獲得する大勝の中、自身は党内の個人得票数24位となり、落選[43]。これ以後は政界から退いている。

エピソード

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  • 両親は奈良県の出身[44]。父親は1909年に橿原市耳成山麓近くに生まれ、母親は1912年に桜井市三輪山近くで生まれた。釜本家と母方実家の森家は親戚同士で森家は地主だったが、農業を嫌った母親は近郷で暮らす従兄弟の父親が弁護士志望だと知り、持参金を携えて嫁いだ。その後も父親は関西大学で勉強を続けたが弁護士の夢を断念した。母親は「弁護士夫人になるはずやったのにダマされたわ」とこぼしていたという。真偽は定かでないが、女学校で陸上をしていた母親は、日本人女性初の五輪メダリストの人見絹枝と走ったことがあると話していたという。父親は176センチ程あり当時としては大柄であり、母親も160センチ近くあった[45]。父親は若い頃から剣道に励み、京都で警察官を務めていたが、1938年から1942年まで兵役に就き、ノモンハン事件に参加。復員後は幹部候補生から将校となり、陸軍中尉まで進んだ経験を持つ。1943年に京都の太秦に新設された三菱重工京都製作所の青年学校教官に迎えられた[38][44]。戦後は三菱造船の社員になった。また長兄は学生時代にテニス、次兄は卓球を志した。姉の美佐子は幼少の頃より学業優秀で、成人後は数ヶ国語を操り日本のツアーコンダクターの草分けとなった[38]。この姉をして普段勉強をしない弟が試験前に見せる集中力は抜群であったと語らせている。
  • サッカーを始めたきっかけになったのは、太秦小学校時代の恩師、池田璋也(元京都紫光クラブの名選手)の「サッカーが上手になればオリンピックもあるし、世界中に行ける。野球だったら日本とアメリカだけだ」という言葉であった[38]
  • 市立蜂ヶ岡中学校の1年先輩に二村昭雄らがいる。二村とは高校、大学と同じ道へ進み、名コンビとして活躍した。
  • 山城高校の1年先輩に二村昭雄、長岡義一らが、同期には和崎信哉[46] がいる。
  • 早稲田大学の仲間に松本育夫野村尊敬桑田隆幸森孝慈大野毅らがいる。
  • 1967年11月19日に和歌山で開催された日本サッカーリーグ、日立本社(現柏レイソル)戦において2人のゴールキーパーを負傷退場させる記録を残した。1人目のゴールキーパー・片伯部延弘は釜本と衝突して負傷退場。交代枠を使い切っていた日立は急遽FWの海野勇が代役を務めた。しかし、その7分後に釜本の強烈なシュートに反応した海野は右手の平に裂傷を負い負傷退場した。その後、日立は3人目のGKにFWの平沢周策を起用したが、今度はオーバーステップの反則を取られ、フリーキックから釜本のヘディングゴールを許した。試合は0-3で日立が完敗を喫する散々な結果となった[38]
  • メキシコ五輪の大会合宿中に、ファンにサインをしていた釜本に対し、あるサッカークラブのスカウトが色紙と見せかけて契約書にサインさせようと試み、これに気付いたクラマーコーチが間一髪で阻止する一幕もあった[47]
  • メキシコ五輪3位決定戦後のインタビューで欧州の記者から「プロ並の練習をしているのか」と聞かれた釜本は「いや、我々はみんなビジネスマンだ。8時間、会社の仕事をして、その後で練習をしている」と答え記者達はとても信じられない、ウソだろうと言わんばかりの顔をした[48]
  • メキシコ五輪終了後直後にリオデジャネイロで開催された、FIFA主催のブラジル代表対世界選抜の試合に招集されたが、日本代表の仲間らと共に帰国する事を選択した。これに対し世界選抜のレフ・ヤシンは釜本の不参加を惜しむコメントを残している[38]
  • 1972年ペレの所属するサントスと日本代表が親善試合を行い、多くの観衆が詰掛けた。試合後にジョージ小林長沼健監督の部屋を尋ね「お客さんがたくさん入った、選手お金要求する」と配当をしつこく要求、「今の体制じゃ、そうはいかない」と長沼が断っても聞き入れないので、釜本を呼んで追い返した[49]
  • 1984年に、木之本興三によるJSL活性化策の一環として、ポスターでヌード(後ろ向き)を披露した。
  • 阪神タイガースファンとしても知られる。
  • 現役引退後はトーク番組「シュートinサタデー」(関西テレビ制作フジテレビ系)司会やCM「丸大焼肉」「じゅうじゅう亭」(丸大食品)などテレビでも活躍した。
  • 2006年4月19日放送のトリビアの泉で、代表引退の理由は会社で机に脚をぶつけ、止まっているものも避けられないと身体の衰えを感じたためと言う逸話が高橋陽一のイラスト付きで披露された。
  • 釜本の身長は公表179cmだが、実際には181cmだった[50]。これは「大きい=鈍くさい」と思われないよう、わざと身長を小さく称したとのこと[51]
  • 2014年5月15日付、英国スポーツ専門サイト『Sports MOLE』で、歴代日本代表選手の1位に、釜本邦茂が選ばれた[52]

所属クラブ

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個人成績

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国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 JSL杯 天皇杯 期間通算
1967 ヤンマー 20 JSL 14 14 - 3 7 17 21
1968 9 14 14 - 3 5 17 19
1969 12 10 - - 12 10
1970 14 16 - 3 5 17 21
1971 14 11 - 3 5 17 16
1972 JSL1部 14 11 - 4 5 18 16
1973 16 9 0 0 2 0 18 9
1974 18 21 - 4 3 22 24
1975 17 17 - 3 2 20 11
1976 18 15 1 0 3 2 22 17
1977 18 20 3 2 4 4 25 26
1978 18 15 3 4 3 4 24 23
1979 18 7 2 1 3 2 22 11
1980 18 10 3 2 2 0 23 12
1981 18 11 0 0 2 0 20 11
1982 8 1 0 0 0 0 8 1
1983 2 0 0 0 0 0 2 0
1984 0 0 0 0 3 0 3 0
通算 日本 JSL1部 251 202 12 9 45 44 308 255
総通算 251 202 12 9 45 44 308 255

通算成績

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  • 日本リーグ通算251試合出場202得点。得点王7回。
    • 日本リーグ優勝:3回(1971、1975、1980)
    • 天皇杯優勝:2回(1969、1975)
    • 1974年10月、対三菱戦で、リーグ通算100得点を達成。
    • 1978年1月、対三菱戦でリーグ通算150得点を記録。
    • 1981年11月1日、対本田技研戦で2得点。リーグ通算201得点目(238試合)。
    • 1982年5月15日、対日立戦で202得点目をあげる。

その他

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  • JSL選抜チーム(1979年)3試合3得点

代表歴

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試合数

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  • 国際Aマッチ FIFA 84試合 80得点[6], JFA 76試合 75得点(1964-1977)[3]


日本代表国際Aマッチ その他期間通算
出場得点 出場得点出場得点
1964 2 1 19 7 21 8
1965 3 3 13 16 16 19
1966 7 6 12 13 19 19
1967 5 11 19 1 24 12
1968 4 7 21 14 25 21
1969 0 0 3 1 3 1
1970 6 3 15 7 21 10
1971 6 8 14 5 20 13
1972 8 15 8 6 16 21
1973 3 2 2 1 5 3
1974 5 5 14 6 19 11
1975 7 5 8 1 15 6
1976 16 9 2 1 18 10
1977 4 0 8 0 12 0
通算 76 75 157 79 233 154

日本サッカー協会 (JFA) とRec.Sport.Soccer Statistics Foundation (RSSSF) は、釜本邦茂(75得点)を最多得点者としている[3][5]。一方、国際サッカー連盟 (FIFA) は、2009年時点では三浦知良と同数の55得点としていたが[53]、2014年時点では80得点としている[6]

これは以下に示す JFA、FIFA 両者の統計方法の違いによる。

  • JFA - 1988年以前のオリンピック予選および本大会における、プロリーグの存在しない国・地域の、年齢制限のないオリンピック代表チームとの試合は国際Aマッチとする。
  • FIFA - 1999年に「1908年から1952年にかけて行われた全てのオリンピックの試合は認める(たとえばイギリスのようにプロリーグを有する国々の中でアマチュアチームを派遣したものや、1936年大会のオーストリアは除外)。一方、1960年以降の全てのオリンピック関係の試合が国際Aマッチと認められる訳ではないが、中間部分については更なる分析が行われる」という声明を出し[54]、これを元にした基準を採用している。

なお、RSSSFは「東ヨーロッパスカンジナビア諸国のサッカー協会はFIFAの声明を却下し、信頼できる各国の協会によって認められた統計方法を持っている。日本も大部分のオリンピックの試合を2015年に公式に認めている」という見解を示し、JFAの記録を追認している[54]

出場

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No. 開催日 開催都市 スタジアム 対戦相手 結果 監督 大会
1. 1964年03月03日  シンガポール   シンガポール ○2-1 長沼健 国際親善試合
2. 1964年10月16日  東京都 駒沢オリンピック公園総合運動場陸上競技場   ガーナ ●2-3 オリンピック
3. 1965年03月14日  香港   香港 ○2-1 国際親善試合
4. 1965年03月22日  ラングーン   ビルマ △1-1 国際親善試合
5. 1965年03月27日  クアラルンプール   マレーシア △1-1 国際親善試合
6. 1966年12月10日  バンコク   インド ○2-1 アジア大会
7. 1966年12月11日  バンコク   イラン ○3-1 アジア大会
8. 1966年12月14日  バンコク   マレーシア ○1-0 アジア大会
9. 1966年12月16日  バンコク   シンガポール ○5-1 アジア大会
10. 1966年12月17日  バンコク   タイ ○5-1 アジア大会
11. 1966年12月18日  バンコク   イラン ●0-1 アジア大会
12. 1966年12月19日  バンコク   シンガポール ○2-0 アジア大会
13. 1967年09月27日  東京都 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場   フィリピン ○15-0 オリンピック予選
14. 1967年09月30日  東京都 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場   チャイニーズタイペイ ○4-0 オリンピック予選
15. 1967年10月03日  東京都 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場   レバノン ○3-1 オリンピック予選
16. 1967年10月07日  東京都 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場   韓国 △3-3 オリンピック予選
17. 1967年10月10日  東京都 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場   南ベトナム ○1-0 オリンピック予選
18. 1968年03月30日  シドニー   オーストラリア △2-2 国際親善試合
19. 1968年03月31日  メルボルン   オーストラリア ●1-3 国際親善試合
20. 1968年04月04日  アデレード   オーストラリア ○3-1 国際親善試合
21. 1968年10月14日  プエブラ   ナイジェリア ○3-1 オリンピック
22. 1970年12月10日  バンコク   マレーシア ○1-0 岡野俊一郎 アジア大会
23. 1970年12月12日  バンコク   クメール ○1-0 アジア大会
24. 1970年12月14日  バンコク   ビルマ ○2-1 アジア大会
25. 1970年12月16日  バンコク   インドネシア ○2-1 アジア大会
26. 1970年12月18日  バンコク   韓国 ●1-2(延長) アジア大会
27. 1970年12月19日  バンコク   インド ●0-1 アジア大会
28. 1971年07月28日  コペンハーゲン   デンマーク ●2-3 国際親善試合
29. 1971年08月13日  レイキャビク   アイスランド ○2-0 国際親善試合
30. 1971年09月23日  ソウル   マレーシア ●0-3 オリンピック予選
31. 1971年09月27日  ソウル   フィリピン ○8-1 オリンピック予選
32. 1971年09月29日  ソウル   チャイニーズタイペイ ○5-1 オリンピック予選
33. 1971年10月02日  ソウル   韓国 ●1-2 オリンピック予選
34. 1972年07月12日  クアラルンプール   クメール ○4-1 長沼健 ムルデカ大会
35. 1972年07月16日  イポー   スリランカ ○5-0 ムルデカ大会
36. 1972年07月18日  クアラルンプール   フィリピン ○5-1 ムルデカ大会
37. 1972年07月22日  クアラルンプール   マレーシア ●1-3 ムルデカ大会
38. 1972年07月26日  クアラルンプール   韓国 ●0-3 ムルデカ大会
39. 1972年08月04日  シンガポール   フィリピン ○4-1 ペスタスカン大会
40. 1972年08月06日  シンガポール   インドネシア ●0-1 ペスタスカン大会
41. 1972年09月14日  東京都 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場   韓国 △2-2 日韓定期戦
42. 1973年05月20日  ソウル   南ベトナム ○4-0 ワールドカップ予選
43. 1973年05月22日  ソウル   香港 ●0-1 ワールドカップ予選
44. 1973年05月26日  ソウル   イスラエル ●0-1(延長) ワールドカップ予選
45. 1974年07月23日  コンスタンツァ   ルーマニア ●1-4 国際親善試合
46. 1974年09月03日  テヘラン   フィリピン ○4-0 アジア大会
47. 1974年09月05日  テヘラン   マレーシア △1-1 アジア大会
48. 1974年09月07日  テヘラン   イスラエル ●0-3 アジア大会
49. 1974年09月28日  東京都 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場   韓国 ○4-1 日韓定期戦
50. 1975年07月30日  クアラルンプール   香港 ●0-2 ムルデカ大会
51. 1975年08月02日  クアラルンプール   マレーシア ●0-2 ムルデカ大会
52. 1975年08月04日  クアラルンプール   バングラデシュ ○3-0 ムルデカ大会
53. 1975年08月07日  クアラルンプール   インドネシア ○4-1 ムルデカ大会
54. 1975年08月09日  クアラルンプール   韓国 ●1-3 ムルデカ大会
55. 1975年08月14日  クアラルンプール   ビルマ ○2-0 ムルデカ大会
56. 1975年09月08日  ソウル   韓国 ●0-3 日韓定期戦
57. 1976年01月25日  東京都 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場   ブルガリア ●1-3 朝日国際サッカー大会
58. 1976年01月28日  大阪府 長居陸上競技場   ブルガリア △1-1 朝日国際サッカー大会
59. 1976年02月01日  東京都 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場   ブルガリア ●0-3 朝日国際サッカー大会
60. 1976年03月14日  東京都 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場   フィリピン ○3-0 オリンピック予選
61. 1976年03月21日  東京都 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場   韓国 ●0-2 オリンピック予選
62. 1976年03月27日  ソウル   韓国 △2-2 オリンピック予選
63. 1976年03月31日  ソウル   イスラエル ●0-3 オリンピック予選
64. 1976年04月11日  テルアビブ   イスラエル ●1-4 オリンピック予選
65. 1976年08月08日  クアラルンプール   インド ○5-1 二宮寛 ムルデカ大会
66. 1976年08月10日  クアラルンプール   インドネシア ○6-0 ムルデカ大会
67. 1976年08月13日  クアラルンプール   ビルマ △2-2 ムルデカ大会
68. 1976年08月16日  クアラルンプール   タイ △2-2 ムルデカ大会
69. 1976年08月18日  クアラルンプール   韓国 △0-0 ムルデカ大会
70. 1976年08月20日  クアラルンプール   マレーシア △2-2 ムルデカ大会
71. 1976年08月22日  クアラルンプール   マレーシア ●0-2 ムルデカ大会
72. 1976年12月04日  東京都 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場   韓国 ●1-2 日韓定期戦
73. 1977年03月10日  テルアビブ   イスラエル ●0-2 ワールドカップ予選
74. 1977年03月26日  東京都 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場   韓国 △0-0 ワールドカップ予選
75. 1977年04月03日  ソウル   韓国 ●0-1 ワールドカップ予選
76. 1977年06月15日  ソウル   韓国 ●1-2 日韓定期戦

得点数

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国際Aマッチ

# 開催日 開催地 対戦国 スコア 結果 試合概要
1 1964年3月3日 シンガポール   シンガポール 2-1 勝利 親善試合
2 1965年3月11日 香港   香港 4-1 勝利 親善試合
3
4 1965年3月22日 ビルマラングーン   ビルマ 1-1 引分 親善試合
5 1966年12月11日 タイバンコク   イラン 3-1 勝利 アジア競技大会
6 1966年12月14日 タイ、バンコク   マレーシア 1-0 勝利 アジア競技大会
7 1966年12月16日 タイ、バンコク   シンガポール 5-1 勝利 アジア競技大会
8
9 1966年12月17日 タイ、バンコク   タイ 5-1 勝利 アジア競技大会
10 1966年12月19日 タイ、バンコク   シンガポール 2-0 勝利 アジア競技大会
11 1967年9月27日 日本東京   フィリピン 15-0 勝利 メキシコ五輪予選
12
13
14
15
16
17 1967年9月30日 日本、東京   中華民国 4-0 勝利 メキシコ五輪予選
18
19
20 1967年10月3日 日本、東京   レバノン 3-1 勝利 メキシコ五輪予選
21 1967年10月7日 日本、東京   韓国 3-3 引分 メキシコ五輪予選
22 1968年3月30日 オーストラリアシドニー   オーストラリア 2-2 引分 親善試合
23
24 1968年4月4日 オーストラリアアデレード   オーストラリア 3-1 勝利 親善試合
25
26 1968年10月14日 メキシコプエブラ   ナイジェリア 3-1 勝利 メキシコ五輪
27
28
29 1970年12月10日 タイ、バンコク   マレーシア 1-0 勝利 アジア競技大会
30 1970年12月16日 タイ、バンコク   インドネシア 2-1 勝利 アジア競技大会
31
32 1971年7月28日 デンマークコペンハーゲン   デンマーク 2-3 敗戦 親善試合
33
34 1971年9月27日 韓国ソウル   フィリピン 8-1 勝利 ミュンヘン五輪予選
35
36
37 1971年9月29日 韓国、ソウル   中華民国 5-1 勝利 ミュンヘン五輪予選
38
39
40 1972年7月12日 マレーシアクアラルンプール   クメール共和国 4-1 勝利 ムルデカ大会
41
42
43
44 1972年7月16日 マレーシア、クアラルンプール   スリランカ 5-0 勝利 ムルデカ大会
45
46
47
48
49 1972年7月18日 マレーシア、クアラルンプール   フィリピン 5-1 勝利 ムルデカ大会
50 1972年7月22日 マレーシア、クアラルンプール   マレーシア 1-3 敗戦 ムルデカ大会
51 1972年8月4日 シンガポール   フィリピン 4-1 勝利 ペスタスカン大会
52
53 1972年9月14日 日本、東京   韓国 2-2 引分 日韓定期戦
54
55 1973年5月20日 韓国、ソウル   ベトナム共和国 4-0 勝利 1974 FIFAワールドカップ・予選
56
57 1974年9月3日 イランテヘラン   フィリピン 4-0 勝利 アジア競技大会
58
59
60 1974年9月28日 日本、東京   韓国 2-2 引分 日韓定期戦
61
62 1975年8月4日 マレーシア、クアラルンプール   バングラデシュ 3-0 勝利 ムルデカ大会
63
64 1975年8月7日 マレーシア、クアラルンプール   インドネシア 4-1 勝利 ムルデカ大会
65
66 1975年8月14日 マレーシア、クアラルンプール   ビルマ 2-0 勝利 ムルデカ大会
67 1976年1月25日 日本、東京   ブルガリア 1-3 敗戦 親善試合
68 1976年3月27日 韓国、ソウル   韓国 2-2 引分 モントリオール五輪予選
69
70 1976年8月8日 マレーシア、クアラルンプール   インド 5-1 勝利 ムルデカ大会
71 1976年8月10日 マレーシア、クアラルンプール   インドネシア 6-0 勝利 ムルデカ大会
72 1976年8月13日 マレーシア、クアラルンプール   ビルマ 2-2 引分 ムルデカ大会
73 1976年8月16日 マレーシア、クアラルンプール   タイ 2-2 引分 ムルデカ大会
74
75 1976年8月20日 マレーシア、クアラルンプール   マレーシア 2-2 引分 ムルデカ大会

国際Bマッチ

# 開催日 開催地 対戦国 スコア 結果 試合概要
1 1964年10月20日 日本、大阪市   ユーゴスラビア五輪代表 1-6 敗戦 東京五輪
2 1968年10月20日 メキシコ、メキシコシティ   フランス五輪代表 3-1 勝利 メキシコ五輪
3
4 1968年10月24日 メキシコ、メキシコシティ   メキシコ五輪代表 2-0 勝利 メキシコ五輪
5
6 1972年7月20日 マレーシア、クアラルンプール   ビルマB代表 6-1 勝利 ムルデカ大会
7
8
9 1972年7月28日 マレーシア、クアラルンプール   マレーシアB代表 1-0 勝利 親善試合
10 1974年8月18日 日本、横浜市   アメリカ合衆国五輪代表 3-0 勝利 親善試合
11 1974年8月20日 日本、東京   アメリカ合衆国五輪代表 7-0 勝利 親善試合
12

個人タイトル

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監督成績

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年度 所属 クラブ リーグ戦 カップ戦
順位 試合 勝点 勝利 引分 敗戦 JSL杯/ナビスコ杯 天皇杯
1979 JSL1部 ヤンマー 4位 18 40 9 1PK勝 2PK敗 6 2回戦敗退 準決勝
1980 優勝 18 30 13 4 1 ベスト8 2回戦敗退
1981 4位 18 22 7 8 3 2回戦 ベスト8
1982 準優勝 18 22 9 4 5 準優勝 ベスト4
1983 5位 18 19 6 7 5 優勝 準優勝
1984 9位 18 14 5 4 9 優勝 ベスト8
1991-92 松下 5位 22 29 7 8 7 ベスト8 2回戦敗退
1992 J G大阪 - 8位 ベスト8
1993 7位 36 - 16 - 20 ベスト4 2回戦敗退
1994 10位 44 - 15 - 29 ベスト4 ベスト4

主な著書

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参考文献

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脚注

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  1. ^ “Kunishige Kamamoto”. Transfermarkt. https://www.transfermarkt.jp/kunishige-kamamoto/profil/spieler/119176 2023年12月26日閲覧。 
  2. ^ a b c 国吉好弘『日本サッカーユース代表の誇り-アンダーを紐解く』ベースボール・マガジン社、2013年、343-344頁。ISBN 978-4583106113 
  3. ^ a b c d 日本代表歴代記録 - 財団法人日本サッカー協会
  4. ^ a b 名誉役員 - 日本サッカー協会・2010年7月25日
  5. ^ a b Kunishige Kamamoto - Goals in International Matches”. RSSSF.com. 2016年9月21日閲覧。
  6. ^ a b c 80 days to go”. FIFA.com (2014年3月23日). 2016年9月21日閲覧。
  7. ^ http://www.kakugo.tv/detail_97.html
  8. ^ a b 六川亨『サッカー戦術ルネッサンス』アスペクト、2009年、ISBN 9784757216617、P182 - 184。
  9. ^ 【大阪のサッカーといえば…】ラモス瑠偉さんが語る!凄いエピソードのオンパレード⚽️”. 2024年9月3日閲覧。
  10. ^ 確かなインステップのボールをとらえる巧さと強さ - 賀川 浩「ストライカーの技術講座」@tos
  11. ^ ボールに対する鋭い読み - 賀川 浩「ストライカーの技術講座」
  12. ^ 額にきちんと当て、狙った所へ落とす正確なヘディング - 賀川 浩「ストライカーの技術講座」[リンク切れ]
  13. ^ ボールを受けるための抜群のタイミングとコース取り - 賀川 浩「ストライカーの技術講座」
  14. ^ 両足のシュートで国際的に成長 - 賀川 浩「ストライカーの技術講座」
  15. ^ メキシコ・オリンピックの8ヶ月前に釜本邦茂の劇的開花を助けた西独の名コーチ ユップ・デアバル - 賀川サッカーライブラリー
  16. ^ 釜本邦茂氏 京都文教大学客員教授に就任
  17. ^ (人生の贈りもの)わたしの半生 元サッカー日本代表FW・釜本邦茂:2 72歳
  18. ^ 釜本邦茂(3)人生変えた言葉 「いろんな国にいける」 野球少年、一転サッカー部へ
  19. ^ 『平成23年度「京都スポーツの殿堂」殿堂入りについて』 受賞者プロフィールより - 京都市文化市民局 市民スポーツ振興室スポーツ企画課
  20. ^ a b c d サッカーダイジェスト 1984年11月号 p.19 日本スポーツ企画出版社
  21. ^ サッカーマガジン1976年2月号132頁
  22. ^ 強く、しかもクレバーな釜本! - 賀川 浩「ストライカーの技術講座」
  23. ^ 最先端に残り、常に無言のプレッシャーを与える釜本 - 賀川 浩「ストライカーの技術講座」
  24. ^ 豊富な経験と得点への意欲で肉体の衰えをカバーする - 賀川 浩「ストライカーの技術講座」
  25. ^ ペレ、オベラーツ、釜本の40代トリオが見せたゴールの基本 - 賀川 浩「ストライカーの技術講座」
  26. ^ プロを破った思い切り良さと鋭く押さえたシュート - 賀川 浩「ストライカーの技術講座」
  27. ^ 日本サッカー協会編「日本代表公式記録集The Yearbook of JFA 2011」
  28. ^ 『スポーツの20世紀VOL,1サッカー英雄たちの世紀』(ベースボール・マガジン社、2000年)158頁。
  29. ^ 釜本の飛躍を決定づけた迫力のアーセナルゴール - 賀川 浩「ストライカーの技術講座」
  30. ^ 「メキシコ・オリンピック大会 16チーム熱戦のあと」サッカーマガジン1968年12月号124頁
  31. ^ 「続・メキシコ五輪図解戦評 対メキシコ」『サッカーマガジン』1969年1月号56頁
  32. ^ 組織ディフェンスを打ち破るロングシュートの破壊力 戦 - 賀川 浩「ストライカーの技術講座」
  33. ^ 知らずに「消える」ことを会得した大事なフランス戦 - 賀川 浩「ストライカーの技術講座」
  34. ^ 3位決定戦の重苦しさをはねのけた釜本のゴール - 賀川 浩「ストライカーの技術講座」
  35. ^ アジアでの名声を不動としたムルデカの神話のゴール - 賀川 浩「ストライカーの技術講座」
  36. ^ a b c 週刊サッカーマガジン 1999年9月1日 no.726号 p.40-41 ベースボールマガジン社
  37. ^ “釜本氏「まさか女の子に抜かれるとはね」”. スポーツニッポン. (2011年7月2日). https://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2011/07/02/kiji/K20110702001129630.html 2011年7月10日閲覧。 
  38. ^ a b c d e f g 賀川浩『ストライカーの美学・釜本邦茂写真集』東方出版、1985年。 
  39. ^ ガンバ以来やな。 - ガマ喝問答!
  40. ^ 釜本監督誕生は"誤報"だった! - Sports Times
  41. ^ “春の叙勲に津川雅彦、釜本邦茂氏ら”. デイリースポーツ. (2014年4月29日). https://www.daily.co.jp/gossip/2014/04/29/0006917791.shtml 2016年10月13日閲覧。 
  42. ^ 論談:日本ハイカ疑惑 - 巨額の金は森喜朗と闇社会へ
  43. ^ 比例区 第19回参議院議員選挙 -ザ・選挙-
  44. ^ a b 20世紀日本の生んだ世界レベルのストライカー 釜本邦茂(中)|賀川ライブラリー
  45. ^ 釜本邦茂(2)恵まれた体 探究心と俊足、親譲り 電車・人混み…どこでも練習
  46. ^ 朝日新聞 2012年5月26日 be b3ページ
  47. ^ 『スポーツの20世紀VOL,1サッカー英雄たちの世紀』(ベースボール・マガジン社、2000年)153頁。
  48. ^ 『サッカー日本代表新聞』(日刊スポーツ新聞社、2006年)18頁。
  49. ^ 大住良之後藤健生『日本サッカーは本当に強くなったのか』中央公論新社、2000年
  50. ^ 藤島大『スポーツ・ノンフィクション選 熱狂のアルカディア』文藝春秋、2008年。 
  51. ^ 釜本邦茂のニッポンFW論 - 朝日新聞
  52. ^ https://www.huffingtonpost.jp/2014/05/26/soccer-best-10_n_5391870.html
  53. ^ More goals than caps”. FIFA.com (2009年6月3日). 2016年9月21日閲覧。
  54. ^ a b Players with 100+ Caps and 30+ International Goals”. RSSSF.com. 2016年9月21日閲覧。

関連項目

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