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この割れ切った世界の片隅で

コロナウイルスが社会に与えた最も大きな影響は、見えづらかった社会の分断を可視化したことではないでしょうか。

ステイホームできない、明日を生きるのすら精一杯な人。パソコンを持っておらず、家では完全に社会から隔離されてしまう人。勉強ができるような家庭環境でない人。外で遊ぶ自分を自慢げにSNSに載せる人。「クラスターフェス」と称し、コロナに積極的にかかろうとする人。感染者を引っ越しにまで追い込む地方の村社会。

普段暮らしているとそのような人と出会わない、という人が殆どでしょう。だけど、これが、今の日本社会なのだと思います。

「人はその周りの五人の平均値だ」という言葉がある通り、社会的ステータスの近い人々は集まりやすく、自分の見えている物が世界の「ふつう」であると錯覚してしまいます。しかし、自分の見ている世界は社会のほんの一部にしかすぎません。校外で活動するにあたり世の中一般の「ふつう」の感覚があることを強みにしてきた私ですが、その「ふつう」の感覚はその人の生育環境にあまりにも依ってしまうこと、また、自分自身の「ふつう」の感覚に頼り過ぎている自分の存在にも気が付きました。そこで今回は、私にとっての「ふつう」について書きたいと思います。あなたのふつうも、教えてください。


もし当時の友達でこれを見て、不快な思いをしてしまった子がいたらごめんなさい。



【0-6歳】

西の端っこ長崎県。県庁所在地から1時間強離れた地方都市で生まれた。生まれてから卒園まで住んでいたのは、「けんじゅう」と呼ばれる迷路の中。けんじゅうは楽しい。大きな声で「あーそーぼーーーーーっ!」と天井に向かって叫ぶと必ず誰かがやって来る。4階まである巨大な迷路は鬼ごっこにぴったりで、キャッキャッという笑い声がいつも響いていた。

何よりも、「けんじゅう」という名前がすきだった。けん、という堅い響きのあとにじゅう、という萎むような音が続く。いつしかそれは私の口癖となり、公園に遊びに行くと「ゆうかちゃんち、けんじゅう?うちはけんじゅうよ!まりちゃんちはけんじゅう?けんじゅう?」と誰彼構わず質問攻めにした。

https://gimon-sukkiri.jp/public-housing/

「けんじゅう」とは、県営住宅の略である。綺麗な西洋風の家が並ぶ住宅地内に、24棟もの巨大な「けんじゅう」がそびえ立つ姿は要塞のようであった。

当時の私の口癖に母は大分困っていたそうだ。何せ公園があるのは高級住宅地の中。綺麗な格好のマダムたちに「けんじゅう?けんじゅう??」と目をキラキラさせて言うもんだから、恥ずかしいったらありゃしない。苦笑いして「ちがうよー。」というマダムに、「なんでー!けんじゅうのほうが楽しいーー!!」と纏わりつく私を前に、かなり気まずかったことだろう。

【6-9歳】

入学と同時に、住宅地に家を建てた。近所の友達と一緒に登校するようになり、楽しい学校生活が始まった。小学1年生のとき苦労したのは、分からない言葉が沢山あったことだ。「やばい」「くそ」「死ね」最初は保育園を卒園した子たちが何を言っているか分からず、「どういう意味?」と聞いてひとつひとつ理解していった。

2010年の文部科学省のデータで、「保育園卒より幼稚園卒のほうが学力が高い」というのがある。もちろん保育園卒で優秀な友達は沢山いるが、「幼稚園の子の親の方が、比較的裕福で高学歴層が多い『傾向にある』」ことは当時を振り返ってもそうだったと思う。保育園と幼稚園で教育内容に差があるわけではなく、保育所は低所得層など、家庭環境が不利な子どもにも門戸を開いているからだ。

https://www.seiunkai.net/images/library/ronbun/2014/2014_2.pdf

https://ameblo.jp/mailege-kabu-family/entry-10606150640.html


クラスに1人は「ひまわり学級」の子がいた。いつも教室の後ろの掃除用具入れに上って犬の鳴きまねをしたり、机の上に立って踊ったりしていた。班対抗百ます計算レースでも、その子が入っている班はいつもビリだった。宿泊研修の沢登りでは、その子を含めた私の班は、目標時間から1時間遅れてゴールした。水が怖いと泣き喚く彼女を必死でなだめるが、ただ足をジタバタさせるばかり。周りに頼れる人は誰もおらず、私もパニックになったのを覚えている。しかし、彼女の気持ちを想像すると決して酷いことは言えなかった。彼女について何も説明はなかったが、ただ彼女が自分の意思でそれをしているのでは無いことは見て明らかだったからだ。もし私があの子だったら、酷いこと言われたら、きっと「なんで?」って思うだろうな。さみしいだろうな。ただその意識だけは持ち続けていたように思う。

https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/tokubetu/010/001/002/004.htm

これは貴重な体験だった。もしあのときひまわり学級の子たちがいなかったら、障がいがある人への接し方、「自分の力ではどうしようもない事情がある人」が世の中にいることを知ることはできなかっただろう。自分が成長していく中で生きづらさを感じたとき、そんな自分を受容することは難しかっただろう。


【10-12歳】

近所の子だけと遊んでいた低学年と違い、高学年になると自分で友達を選ぶようになった。当時あるアニメにハマっていた私は、オタク趣味のある子たちとつるむようになる。しじゅう(市営住宅)の友達の家のカーテンを閉め切り、朝から晩までゲームをした。近所の家の子とは、絶対こんなことできない。その家のお母さんに「早く家で勉強しなさい!!」と追い返されるに違いないから。

「お母さんなんで帰って来んと?」その子に聞くと、「彼氏のとこにおるけん。」そう返って来た。お母さんに彼氏?彼女の言葉が理解できず黙っていると、彼女は視線をパソコンに向けたままこう呟いた。「彼氏がうちにいるときは、ここにいたら駄目やっけんね。」よくわからなかったが、「わかった。」と頷いた。その子は、よく先生に腕の内側を見られて怒られていた。

しじゅうやけんじゅうにいる友達のほとんどには、お父さんがいなかった。当時はそれに特に疑問を持つこともなく、「お母さんと姉妹みたいに仲が良くていいなぁ」くらいに思っていた。また、お父さんがいない子はスマホを持っていることも多く、みな羨ましがっていた。

なぜか、朝から学校に来ないやつもいた。いつも寝坊して、先生が毎朝迎えに行っていた。そいつの黒いランドセルはボロボロに色がはがれていて、茶色の柄がついているようだった。「なんでお母さん起こしてくれんとかな」友達に尋ねると、「あいつお母さん帰ってこんらしいよ。毎朝先生がごはん食べさせてやっとるらしか。朝学校に行かんでも家の誰にも気づかれんとって。」とのことだった。そいつの次の週に給食着が回ってくると、いつもしわくちゃで嫌だった。なんでアイロンがかかっていないんだろうと不思議だった。住宅地からぽつんと離れた場所にある小屋に住んでいる彼の顔はいつも青白かった。継ぎ接ぎされたすりガラスの窓の家はいつも不気味な空気を放っていて、夕方そこを通るときはいつも目を瞑って走り抜けていた。

6年生になった。長崎に唯一の偏差値の高い私立中学はとても遠かったし高かったので、近所の公立中高一貫校を受験する子が学年に30人ほどいた。「受験する?」「いや、うちはせんよ」「地元中じゃ何でだめと~?」いろんな声が飛び交ったが、私は一応することにした。吹奏楽部があったから。一緒にゲームをしていた友達に、「受験する?」と聞いた。ほとんどの子は「しない」とのことだったが、1人の女の子は頷いた。「もし受かったらお父さんがパフェ食べさせてくれるとって!私パフェ食べたことないっさ!」その子はヒョウ柄のパーカーで受験会場にやって来たが、合格することはなかった。

結局、その小学校から7人が合格し、別の中学に進むことになった。合格発表の翌日、学校はその話でもちきりだった。1人の男の子が叫んだ。「あーあ、おいも受けとけばよかったなぁ!」担任の先生を含めた全員が笑った。「なーんば言いよっとや、お前が受かるわけないやっか!!!」彼は「そうかなぁ、」と照れ臭そうに笑ったが、その雰囲気が堪らなくなった私はでたらめを混ぜながら言った。

「修学旅行で任天堂にも行くとよ!○○君の好きなゲームば作るところも見れて、ゲームクリエイターになれるかもしれんやん!もし、、もし、生まれ変わったら受ければいいやん!!」

クラスは大爆笑に包まれたが、私は唇を噛んでいた。なぜ、こんなに体が火照るほど悔しいのか分からなかった。

卒業式の日がやってきた。最近学校に来ていなかった子、森に火をつけて保護された子を含めほとんどの子が学校に来ていた。ただ一人だけが来ていなかった。先ほどの男の子だ。みんなと同じブレザーが着られなかったということに腹を立て、まだ2歳の妹を連れて家出をしたのだという。先生たちは大慌てで彼を捜索に行き、みんなはただ彼の無事を祈っていた。外は大雨で、外気は凍えるほど冷たい。卒業式は始まった。校歌斉唱。校長先生の挨拶。そして、呼名... ちょうど彼のクラスに差し掛かろうとしていたとき、後ろの玄関のドアが雷の音と同時にバーンと開いた。びしょぬれになった彼はニヤッと笑い、何事もなかったかのようにどすんと席に着いた。

小学校には勉強のできる子もいるし、できない子もいた。貧しい家庭の子もいたし、裕福な家庭の子もいた。複雑な環境の子もいた。とにかくさまざまな子がいて、それは社会の縮図のようだった。そこで私たちは、お互いの背景を全く考慮に入れず、ただただ相手を「○○くん」「○○ちゃん」という名前で認識し、手を握っていた。


【13歳ー15歳】

晴れて公立中高一貫校に入学した私は、毎日が驚きの連続であった。話が通じるのだ。小学生の頃は会話の中で「どういう意味?」と尋ねられることはしょっちゅうだったが、ここなら相手が自分のことを深く理解してくれる。それが何よりも心地よかった。また、「勉強ができない」ことで怒る先生を初めて見た。今までは「宿題をしてこない」という「過程」で怒られることはあったが、「結果」で怒られるのは初めてだった。相手を蔑む言葉が「あんまそれは頭悪いぞーww」になった。

中学2年生のころ、「国連欧州本部派遣」のお知らせが届いた。県から6人の中学生が選ばれ、格安価格で海外にいけるというプログラム。小さい頃から抱いていた国連職員になりたいという夢を知っていた母は、「行ってもいいよ!」と背中を押してくれた。国連職員の方に会った瞬間、涙が止まらなかった。こんなにちっぽけな自分に、雲の上の存在の方が目を合わせてくださっている。頭を撫でてくださっている。その事実だけで嗚咽が止まらなかった。「遅くとも大学から、できるなら高校から、海外に出たほうがいいよ。」その一言で、心は決まった。

中学3年生、国境なき子どもたちという団体が主催する途上国に無料で行けるプログラム、「友情のレポーター」に内緒で応募した。合格通知の電話がかかってきたとき母は仰天していた。だけども無料だったし安全の確保もされていたので、しぶしぶ行かせてくれた。

https://kininarukotomatome.com/kids-reporter

【体験談】小学生~高校生対象『友情のレポーター』 | 校外プログラム大全友情のレポーター ~取材を通して世界の子供と友達に~実際に校外プログラムに参加した高校生による参加者体験談「パイセンに聞いてみた!」 今回は小学生から高校生までが対象! 世界kininarukotomatome.com

フィリピンには、信じられないような劣悪な環境で暮らしている子どもたちがいた。レイプの被害者にも関わらず手違いで刑務所に何年も収容されていた子。一畳ほどの蒸し暑い空間に、親と3匹の猫と兄弟と暮らしている子。彼らの笑顔は、私たちと何の変わりもなかった。刑務所の中に、ジャニーズにいそうな顔の金髪の男の子がいた。「ねぇ、君名前なんていうの?」そう話しかけられ名前を答えると、「良い名前だね、友達になろうよ」と塀越しに握手を求められた。しかし、私は微笑むだけで「うん!」とは言えなかった。無責任な気がしたからだ。彼は鉄格子のなかにいて、私は鉄格子の外にいる。もし、私と彼が鉄格子の外で出会っていたら。もし、同じ学校の、おなじ教室で出会っていたら...?私はすぐに「うん!」と言っていただろう。彼と友達であるというだけで周りも私を羨んだだろう。だけど... だけど私は、君と友達にはなれない。何故なら、神様が君をそこに生んでしまったから。

神様が、子どもたちの生まれる場所を決めるくじがあったとする。えいやっ!その手がもし右に2ミリずれていたら、私は君みたいに生きているだけで邪魔者扱いされるストリートチルドレンだったかもしれない。反対に、左に1ミリズレていたら、テレビに出てくる我儘なビバリーヒルズの金持ち娘だったかもしれない。私はなぜ、ここでこうして生きられているのだろう。そう思ったとき、この社会の不条理に挑もうと思った。挑まなければならないと思った。恵まれない人たちのために、人生を捧げようと思った。

しかし、調べれば調べるほど、天井は高く見えた。何よりも、「身近に海外に行ったことがある人が誰もいない」のが大きかった。英語が喋れる人もいない。留学したことがある人もいない。そんな中、「自分はこれだけ思いを持っててもどうせ東京の人の努力に比べたらどうってことないんだろうな」と思うようになった。どうせ私は夢を叶えられないんだろうな、どうせ地元で英語の先生をするくらいが限界なんだろうな、と。でも、諦めたくなかった。夢を夢で終わらせたくなかった。

これは友情のレポーターの報告会の帰りの飛行機で殴り書いたメモ。

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「世界に置いてかれんぞ」。確か、東京で同じ年の子と交流したのが大きかったと思う。「インターナショナルスクールに通って〜」「今からバイトなんすよ」「何をやってる人なんですか?」「趣味は旅行ですね」言葉の一つ一つに、心臓をぐさぐさ刺されて、息が出来なくなった。

帰崎後、狂ったように情報を漁り、長崎大学が主催する「国際協力シンポジウム」を見つけた。初めて1人で市外への移動。だけど、新聞の広告を見るのはどうやら時間のあるお年寄りだけだったらしい。いびきの鳴り響く会場。眠りこけてよだれを垂らす隣のおじいさん。「誰も聞いていないだろう」と適当な話を繰り広げる講師。たった一人聞いている私。全てが嫌になって、アンケートの評価項目すべてに1をつけてワンワン泣きながら外に飛び出した。夜9時の原爆公園にとぼとぼ歩いていった。祈った。「お願いです、私に世界を変えさせてください。」


【16歳ー】

高1の6月。EFチャレンジという動画スピーチコンテストで何故か決勝に勝ち進み、東京へ母と向かった。優勝したら夢のニューヨーク。中学入学時点で英検3級を持っていたことで周りからもてはやされていた私は自信満々だった。しかし会場に入ると、その自信は消え失せた。休み時間だというのに、皆なぜか英語で喋っている。何を話しているか全く分からない。端っこのほうで縮こまっていると、女の子が声をかけてきた。「どこに住んでいたことがあるの?」「長崎です」「いや、海外には?」「...無いです」「あ、そうなんだ~、わたしはアメリカに15年住んでいたよ!」髪をかきあげ、彼女はまた輪の中に戻っていった。結果は惨敗だった。発音の悪さから能力を見限られたのか、審査員からの質疑応答でも聞かれたのは"Why do you study English?"の1問だけだった。他のみんなは、夢を聞かれて「世界で一番輝いた女性になりたいです!」と言って一回転してスカートをふわっとさせ、歓声を浴びたりしていた。

帰りの飛行機で、母は静かに言った。「もう、これでわかったやろ。ここは、別世界の人の場所さ。うちみたいな普通の家じゃダメとよ。現実ばみらんね。上を見れば見るほど苦しくなるよ。」どう言い返すこともできなかった。髪をかきあげた女の子の名前をネットで調べた。「国連英検特A級保持。小学生のころから国連憲章を暗唱していました。将来は国連で働きたいです。」長崎空港にはいつもの「でんでらりゅうば」が流れていた。

その後もまぁいろいろとあったが、長さの都合で割愛する。しかし、私のこの「別世界コンプレックス」の決定打となったのが、HLABであった。HLABとは全国から集まる高校生が集まり寮生活を体験するサマーキャンプだ。「全国から」とはいえ、集まる7割の高校生は東京出身。さらに、そのほぼ100%が有名私立高校出身である。「いやぁ、父がイタリアに行けっていうんだけどさぁー、行きたくないんだよね」行きのバスで生まれた違和感は徐々に大きくなっていき、リフレクションと呼ばれる心の内を打ち明ける場で爆発した。「なんで、私だけHLABに来るだけでここまで努力しなきゃいけないんだろうって。みんなは親に勧められて来てるのに、なんで私は『あんたのせいで不幸になった、あんたのせいで貧乏じゃないのに貧乏だって思わなきゃいけない』って責める周りの手を振り払ってここに来なきゃいけないんだろうって。」だけど余りにも雰囲気が暗くなったので、無理やり笑顔を作って言った。「でも、偉人の伝記も最初は苦労してますよね。」そう言うと、皆は「うんうん、そうだよ!」と満面の笑みを浮かべていた。


時は流れ高校3年生。未だにコンプレックスは少しある。だけど東京の子たちと対等に渡り合えるようになったこと、お互いを認め合えるようになったこと、そしてコロナのお陰で全てがオンラインになったことで少しずつ自分を肯定できるようになった。

人口の大半が持つであろう「ふつう」の感覚があるというのはどうやら貴重だそうだ。今までたくさん泣いたけど、正直今が一番楽しい。だけどそれも自分自身の努力だけでつかんだものは何一つなく、何だかんだで応援してくれている両親、学校、地域、そして世界中の人々のお陰でしかないのだと思っている。「もしも、運命の流れに身を任せていたら、私は大学進学すら考えなかったかもしれない...」そう思うと一つ一つの選択の重さに気づき少し怖くなる。だけど運命の流れを変えるような選択を出来たのは、やはり私がそんな選択をできる最低限の環境が整っていたからであって、その奇跡に改めて感謝するしかない。

あの時は雲の上の存在だった、海外大学も目指し始めた。都会にしかないテスト会場、かさむ受験費、帰国子女が軽々と乗り越える英語の壁を泥水を飲みながら必死に追いつくしかない辛さはある。しかし、周りのサポートのお陰で「這いつくばってここまで来た自分」でなく、「大好きな人に囲まれてここまで来た自分」にアイデンティティを持てるようになった。ようやく、「未来は自分の手の中にある」と思えるようになった。

私を拾ってくださった無料の海外大学受験塾がクラウドファンディングを始めたとき、「このプロジェクト、共感者がいないんだろうな」と思った。海外大を目指す人。それは、幼い段階で海外に触れたことのある、「気づけた」人だ。そんな「気づける」人は言う。「情報が無いなんて甘えだ」。「気づけない」人は言う。「学部留学なんてうちには贅沢過ぎる」。

だからこそ、私が、声をあげなきゃいけないんだと思う。地球上のどこに生まれても、贅沢な夢なんてない。それを証明するために、そんな仕組みを作れるようになるために、努力していかなければいかないのだと思う。どれだけしつこくても、「この社会には分断がある」ことを主張していかないかぎり、分断は見えないもの扱いされるんだと思う。


【社会を創る、わたしの友達へ】

「身の丈に合わせてもらえれば」。この言葉が生まれる背景には、「社会を創る層」「そうでない層」の分断があるのではないでしょうか。私が校外で出会う友達のほとんどが、私立小学校出身です。しかし、全体の統計で見ると、私立小学校に通うのは人口のわずか1.1%。100人に1人。私立中学校に通う人さえ、7.3%。彼らは、その狭い世界の中で競い、悩み、結論を出し、他人を「優秀だ」「優秀でない」と判断します。あなたが見ている社会は、本当に「社会」ですか?大学進学率は58.8%って知っていましたか?社会問題について話す家庭は少ないって知っていましたか?

英語の民間試験が大学受験に必須?英検の受験料が皆払えると思ってるんですか? 思考力や文章力が重視される? 現代文の得点が、触れる情報量の差から圧倒的に地方のほうが低いのをご存知ですか?留学プログラムの書類。今まで「自分をアピールする」経験なんて一度もしたことない、本当にいちばん海外から遠い子たちは応募書類を書くのもままならず書類審査で落とされること、知っていますか?課外活動?地方では突飛なことして失敗したら、一生その町で馬鹿にされ続けることを知っていますか?それら全部含めて、「自己責任」ですか?あなたが今そこで議論していられるのは、全部あなたの努力のお陰ですか?ディベート大会の議題で「貧困を体験すべきか」があげられる世界なんておかしいと思いませんか?本屋、電車、塾、ぜんぶぜんぶ、当たり前にあるものだと思っていませんか?


冒頭の文で、

だけど、これが、今の日本社会なのだと思います。

と書きました。世の中は、日本は、分断されています。だけど、それに誰も気づきません、気づこうともしません、そして気づいてもそれを「マイノリティだから」という言葉と共に片付けます。


首都圏の人口は、34.5%。3人に1人。

LGBT層に相当する人、8.9%。11人に1人。

私立中学校出身者、7.3%。14人に1人。

大学進学率、58.8%。2人に1人。

高校生の通塾率、27%。3.5人に1人。

世帯所得が中央値の半分に満たない「相対的貧困」層、15.7%。6人に1人。

これを「多い」と感じるか、「少ない」と感じるか。それは、あなたの「ふつう」次第です。人にはひとの、「ふつう」があります。それでいいんです。恵まれていることが悪いわけじゃないんです。「格差の問題に関しては、僕は当事者じゃないから、語れないかなって...」

違います。この世の中の人々、あなたを含めた全員が格差問題の当事者です。

わたしの周りにいる優秀な中高生は、これから政府や大企業に入り、「世の中の仕組み」を創っていく人たちです。だからこそ、伝えたい。

自分が見てきた狭い世界の常識からしか人間は物事を判断できません。これは紛れもない事実です。大切なことは、どれだけ世界を見ようとも、「自分は視野が広い」「自分は物事が適切に捉えられている」なんて思わないこと。自分の見ている世界を常に疑い、謙虚になること。常に相手の背景を受け入れようとすること。自分が生んだ成果はすべて自分の努力のお陰だなんて思わないこと。

これらを胸に、どうか声をあげられない人の声を、聴いてください。


この文章を読み、「なにこれ、当たり前の日常を書いただけじゃん」と思ったそこのあなた。この私たちの「当たり前」に、衝撃を受け涙する人がいるんです。こうやって人によって共感できない言葉、理解ができない言葉があることは、この社会の分断の証明なんです。どうかいっしょに、その「当たり前」を大切にしていきませんか。




「文Ⅲは甘えww」バスの中で東京の友達のツイートを見ていると、誰かから肩を叩かれた。小学校の頃の友達だ。

「久しぶり!!いま何しとっと?」

「何もしとらん。学校も行っとらんし。」

「いいやん、生きとるだけで百点、百点。」

「相変わらずりんは頭おかしいな~www、じゃ、またな。」

けんじゅうはあの頃より何だか小さく見える。だけど、私に「社会」を教えてくれたこの町は、いつまでたっても大きい。





これは、「世界の片隅」…… じゃなくて、「世界の片隅だと勘違いされている大多数」のおはなし。



【追記】2021.01.13

勇気を出して半年ぶりに自分でも読んでみると、動悸が暫くおさまりませんでした。こんなに粗削りで強い言葉は、正直もう使えません。この「イタさ」にもきっと魅力はあったんだろうなと苦笑いしています。

だけど。どれだけ恥ずかしくても、17歳だった自分の感情は絶対に否定したくないし、目も背けたくはありません。このまま自分の感情に頼り続けることはありませんが、あの夏に偏見も含めた自分の視点を記録できたことはきっと財産でした。次はその原因を追求して学問で世界を前進できる人にならないとね。

きっと1年後も10年後も1秒前の自分をイタイと思い続けるだろうけれど、そんなふうに常に進化できる、正直に内省できる人であれたらいいなと思っています。見守ってくださってありがとうございました。今の私の夢は、このnoteを添削で真っ赤にできるような学者になることです。そこで初めてこのnoteは完結するのかもしれません。

これまでも、そしてこれからも、私は皆さんの心の中でかくれんぼしてる、いつの日かのあなたです。

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山邊鈴
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