円城塔が『コード・ブッダ』で会得した危険な技術と描写の消滅について

 去年の京都での円城さんとの対談で『コード・ブッダ』の中世ぽさについて話したが、これは前提として、今小説から描写が消えつつあり、説教(エンパワメント)/法悦(エモ)復権の時代であるという意識がある。読者が舶来ものに飽きたと言えばそれまでであるが、書き手としては身の振り方を考えなければならない。
 司馬遼太郎の語り口というものがある。司馬はほとんど描写をしない。するのは説明である。描写というのは上にも書いたが近代の輸入技術であり、書くのも読むのもはっきり言って面倒である。難点もあって、ストーリーにブレーキがかかる。小説の速度が落ちる。うまく行っても継ぎが残る。ではなぜそんな技術を輸入したかというと、いろいろな見方・理由があるが一番には説得力である。フィクションというものはフィクションなのでまず読み手にそんな世界が存在することを了承してもらう必要があるのだが、時間をかけて視覚的な証拠を並べると、「まあそんなものか」と思わせる力が生じる(生じない場合もある)。では証拠を並べずに説得力を持たせるにはどうすればよいかというと、これは文字通り「説く」しかない。

 まことに小さな国が、開花期を迎えようとしている。

 世界には二〇〇以上の国があるが、日本の大きさは六〇番目ぐらいである。上位三分の一には入っているわけだから少なくとも面積という点で言えば「小さな国」ではない——などという当たり前の理屈は、この文章を普通に読めば頭に上ってこない。

 まことに

 などと言われてしまうと、こちらも、まことに、と頷いてしまうのである。これが「説かれる」ことの恐ろしさである。
 「説かれる」ことを好むものはあんがいに多い。司馬はもちろん定番教材の「山月記」や「こころ」のような小説が一貫して人気があるのも実はそのためである。XやFacebookを始めとするSNSにおいても「説く」投稿は人気が高い。人々はいつの時代も「説かれる」ことを求めてきた。
 『コード・ブッダ』も描写ではなく「説く」ことで場を立ち上げる小説である。

 あるとき、マンゴーの林に座り弟子たちの声に耳を澄ませていたブッダ・チャットボットのもとへと、悩めるリバーシの対戦ロボットがやってきた。

 どのような情景なのか、これだけでは想像不可能である。しかし描写は続かず、

 リバーシとは言うまでもなく、八かける八の升目の中に、白黒表裏一体の円盤を一つずつ投げ込んでいく遊戯である。

 と説明が続く。よく考えれば、この説明ではどんな遊戯かはわからない。円盤を投げ込んで、その後はいったいどうするのか?

「救済とはこのリバーシの盤面の上に」とリバーシの対戦ボットは訊ねた。「白黒で特定の模様を描くことに似ているでしょうか」
「似ている」とブッダ・チャットボットは応え、控える弟子たちの間に小さく驚きの声が上がった。リバーシとは所詮遊びであって、それもひどく単純な遊芸であり、二人零和有限確定完全情報ゲームの中でも特に単純なものの一つだった。まだ完全に解析されたわけではなかったが、気の利いた機械が臨むリバーシの試合はとうの昔に、人間が勝てるようなものではなくなっており、機械同士の対戦にしても、多くの場合はそれぞれの機会の性能より、先手か後手で勝負が決まるものとなっていた。
「そこには多くの共通点がある」とブッダ・チャットボットは説いた。
 ブッダ・チャットボット曰く、救済とはなにかの種類の内面の「配置」である。配置が救済を実現するのか、救済が配置を伴うのか、原因であるか結果であるかはおくとして、ともかくもこの世の中で生じる何らかの現象である。現象であればそれは何らかの配置なのである。風は分子の配置であり運動であり、文字はピクセルの配置であり、画像ファイルや動画ファイルは電磁気的な力の配置であり、わたしの語るこの言葉もまた配置である。

 すでに読み手は場面に目を凝らすことをやめ、耳を傾けている。さらに説明は続き、

「しかし、リバーシよ」
 とブッダ・チャットボットは説いた。
「残念ながらお前の到達できる盤面に、お前の望む状態は存在しない」
 そうであろう、と聴衆は深く頷いた。

 そうして我々も深く頷いてしまっている。みごとな技術である。危険な技術でもある。何しろ証拠も証明も必要ないのだ。歴史に向かうにしてもifならいいが下手をすると正史を書き換えかねない(実際司馬は一部の歴史を書き換えた)。この危険な技術を円城塔は『コード・ブッダ』でほとんど自家薬籠中の物としたように思われる。司馬・円城の他にこの技術を会得したものとしては内田樹も挙げられる。
 『コード・ブッダ』は「文学」の読者像が、描写を享楽し作品を愛撫する近代的市民から、説教に法悦し作者(推し)との同一化に救いを見出だす中世的衆生へと回帰していく転換期のメルクマールとなる作品である(もしこれが後者の読者像に対する批判・皮肉に思えた人は進歩史観の持ち主である)。今後作品に対する率直な賛辞は「面白い」から「有難い」に変わっていくかもしれない。
 円城塔は出自から言って、描写/享楽側の書き手ではないのか、という向きについては、これはあくまで私の予想にすぎないが、氏はシンプルに媒体を分けていくのではないかと考えている。『コード・ブッダ』と同時期に出た『ムーンシャイン』のように今後はSFや幻想文学が描写/享楽的な小説の最後の砦になるだろう。あるいは先日青木淳悟の小説が「代わりに読む人」から出たように一人出版社がその役を担っていくことになる。
 繰り返しになるがこの文章は時代の転換に対する嘆きでも批判でもない。幸い我々には今昔や宇治拾遺、徒然草、あるいは近代以降でも漱石、司馬をはじめとするすぐれた説教文学の蓄積がある。描写/享楽の時代が終わってもよきものを残せるはずであるし、説教/法悦の文学にも描写とは異なる細部は見いだせるはずである。『コード・ブッダ』はそのよい手本である。
 円城との対談の最後に私は、「有難い」というのは、「存在することの確率的な困難さ」のことではないか、という話をした。あるいはこれは、ある場面において確率的に極端に低い配置があらわれる、ということと同じことではないだろうか。であればある話に対して、面白い、ではなく、有難い、という想いを抱くことは、ブッダ・チャットボットが説いたところによれば、これはほとんど救済である。私は今あなたがたに向かってそう説いている。



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