シーナさんについて。

 シーナさんについて何か書こうと思ったけど、書けるほどたくさんの思い出があるわけでもない。ライヴは数限りなく見たけど、お会いしたのは2〜3回ぐらい。ちゃんとお話ししたのは取材の2回だけ。そのうち一回はロフト(ライヴハウスの)の何十周年かのアーカイヴ本のために、シナロケとロフトの関わりをお聞きしたのだった。最初は鮎川さんひとりだけで、取材陣のためにご自宅で昔の写真を探してくれていたシーナさんが遅れて登場したんだけど、シーナさんがあらわれたときの鮎川さんが本当に嬉しそうで、本当に仲のいいご夫婦なんだなーと思った記憶がある。シーナさんはキップがよくてなんでも気持ちよく喋ってくれて、優しい人だった。シーナさんが喋っている横でニコニコしながら聞いている鮎川さんも印象的だった。

 鮎川さんがサンハウスをやめて次に何をやろうか考えていた時、それまで完璧なバックステージ・クイーンで人前で歌ったことのなかったシーナさんがいきなり「私が歌う!」と言い出して、その瞬間シナロケは誕生した。鮎川さんが歌うことを勧めたわけじゃないんですね。鮎川さんシーナさんはそのときもうお子さんがいて、シーナさんがシナロケのヴォーカリストとして上京してプロとしてやっていくと決めたとき、シーナさんのお父さんが激怒して「お前ら何寝ぼけとっか。気が狂っとるんか」と言われたとか、それでも最後は「白黒つけるために思いきりやってこい」と激励されて送り出されたとか。それで「ユー・メイ・ドリーム」がヒットして「夜のヒットスタジオ」に出て、故郷の人たちに顔が立ったような気がしたとか、司会の芳村真理に「シーナさんたちが出てる時、若松のお風呂がカラになったそうですよ」と言われて嬉しかったとか。そんな話をしてもらった。

 つまりシーナさんは、もともと歌っていた人が妻になり母になったわけじゃなくて、二児の母がいきなり歌いたいと言い出してプロのロック・ヴォーカリストになったという希有な例なんですね。赤ん坊がいるのに歌うと言い出したシーナさんも、それを受けて一緒にやっていこうと決意した鮎川さんも、それを最終的には許して東京に送り出した親御さんも、肝が据わっているというか。彼らの中で「家庭とロック」は対立事項じゃなく、最初から共存していて、当たり前の前提だった。ロック・バンドとして成功するという夢と、母として子供を育てていく現実が、普通に背中合わせになっていた。それを40年近くも強力に実践し続けた。これはある意味、どんな音楽的功績よりも大きなことだと思う。

 シーナさん、ありがとうございました。また、お会いしましょう。

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小野島 大
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