なぜ児童養護施設にランドセルを贈るのをやめたほうがいいのか

児童養護施設等にランドセルを送りつける「タイガーマスク運動」を始めた河村正剛さんが本名を名乗ったわけだけど、ここで改めて、僕がなぜこのムーブメントに消え去ってほしいと思っているのかについて書いておきたい。ご本人とは面識が無いし、憎んでいるわけではないことを予め断っておく。なお、この意見は、多くの地域の子どもや職員等と話した結果形成されたものだ。

■子どもたちはランドセルを自分で選んで買うことができる
親と離れて、社会が提供する養育環境(施設や里親家庭など)に暮らす子どもたちには、国や地方自治体から措置費が支払われている。措置費には非常に細かい項目があって、ランドセル代もそこから出る。毎年入学式前になると、子どもたちは施設職員や里親さんと連れ立ってランドセルを買いにいき、自分が欲しいものを選ぶ。僕が小さい頃は、ランドセルといえば黒か赤しかなかったけど、最近ではピンクや黄色など色とりどり。

よって、多くのケースでそのランドセルはゴミになる。もちろん、ランドセルを買う前に、子どもが望んだものが届いていたら最高だろうし、その分ランドセル代も浮く。ただ、そうするのなら、ランドセルを選んで受け取れるカタログを送ったほうがいい。

ちなみに、震災後に被災地の学校に入学式前に大量のランドセルが届いたことがあるらしい。そして、これも同様にゴミとなった。

■プレゼントの難しさ
僕はよく他人にプレゼントをすることがあるのだけど(お礼をするときとか)、実際に買うものの値段よりもそれを考えるためにかかっている時間の価値のほうが大きいことが多い。なので、安牌を選ぶときには、ワインとかケーキとかお菓子とかお花とかの消え去るものになる。

消え去るもの以外のプレゼントは本質的にとても難しい。本来であれば相手にお金を渡して、そのお金で好きなものを買ってもらうのがベストのマッチングになる。でも、「それでは味気がない」と思う場合には実際にものを買って渡すことになるわけだ。その際には相手の普段の生活や持ち物をよく観察して、相手が明示的にもしくは非明示的に必要としているもの、相手にとって本当に役立つものを見つけないといけない。

受け取ってみて、相手が「自分では買う気がしなかったけど、手に入れてみるとすごく良いね、これ」と言ってくれるものを選べたらホームラン、相手が「これ欲しかったんだよね」と言ってくれたらヒット、というところだろう。

若干話しが逸れたので戻す。相手が精神的苦痛を感じているかもしれないことと関連するプレゼントを選ぶ場合には、相当に気をつけないといけないんじゃないだろうか。例えば太っている人にダイエット用品をプレゼントすること、禿げている人に育毛剤をプレゼントするのって、相当に仲良くない場合には相手を怒らせかねない。

じゃあ児童養護施設等の子どもが苦痛に思うことが多いのはなにかというと、周囲の偏見だと思う。未だに悪いことをした子どもに対して「悪さをしてたらあそこの施設に連れていくよ」とか「里親に送りつけるよ」みたいなことを言う大人が一定数いる。そういう親の偏見を受け取った子どもたちも同じ偏見を抱いて、学校でそれを表出させる。そういう「施設の子どもだから」という周囲の様々な偏見にさらされて苦しんできた子どもは一定数いる。少なくない子どもたちが社会的養護を出たあとに、自らの出自を明かしたがらないのもそのせいだ。在日コリアンが本名を名乗らないのにも同じ傾向があるように思う。

そういう苦しさを理解したうえで、ランドセルが果たしてベストなものなのかはちゃんと考えてみてほしい。「ランドセルも持っていないと思われているのか」と子どもが考える場合に傷つく尊厳を想像してみてほしい。なお、児童養護施設等の子どもに要らなくなったオモチャや使い古しの服を寄贈するのも同様。

そういったアイデアが浮かばないのなら、お金を寄付するのが一番だ。「子どもに何か買ってあげてください」と使途指定の寄付ができる。


■「善意に水を差すな」という意見への反論
「善意でやっているんだから、そんなことを言わなくても」という人がいるけど、僕はそれは違うと思う。そういうことを言っている人は「ありがた迷惑」というものを経験したことがないのだろうか。

善意は善行を全く保証しない。人類が犯してきたとんでもない誤りの多くが善意によって行われていることは忘れてはいけない。そして、善意に基づく誤った行動は、その善意を持った本人そのものを悲しませることでもある。だったら、そんな行動は間違っていると声をあげるべきなのではないかと僕は思う。

誰も傷つかないのであれば、善意に基づいた「ズレたアクション」は許容されうるだろう。だけど、今回はそうじゃない。明確に嫌な気分になる人々がいるわけで、だからこそ僕はこうやって書いているわけだ。その善意はもっとよい使い方があるんじゃないだろうか。

「Taejunが正しいことを誰が保証するのか」という質問もあるだろう。そんなことは分からないし、僕は自分が絶対的に正しいとは思っていない。だけど、自分が色んな現場を訪れて信じていることを語っているだけだ。

■自分自身の反省
僕自身が反省しているのは、このタイガーマスク運動や「明日、ママがいない」のように、実際に子どもたちの尊厳を傷つけるようなもの以上に、社会的養護の関心を高めるキャンペーンができなかったことだ。これは自分の力量不足で、この点についていえば、この「伊達直人」さんには頭が上がらない。


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