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京都アニメーションと、山本寛監督のこと

 僕はいま、仕事で韓国に滞在している。ソウル市の主催するマンガ、アニメ、ゲームなどのサブカルチャーの未来を考えるイベントに招待されたのだ。今年の春に僕の本(『若い読者のためのサブカルチャー論講義』)が翻訳出版されたことが影響しているらしい。滞在中は市のイベントに登壇するほかに、現地の出版社の企画したファンミーティングに出たりメディアから取材を受ける予定だ。そしてこのタイミングで日本から来た以上、必ずこの話題について尋ねられるだろう。そう、京都アニメーションの事件のことだ。

 最初に断っておくけれど僕はこの件について、特に事件直後に話題を集めている段階で言及するのは本当に嫌だった。
 僕は特に京都アニメーションの熱烈なファンというわけではない。けれどそれなりにこのスタジオの作品は見てきたし、感心させられた作品も多い。だからこの事件は本当に残念で仕方ない。いや、それ以前にあまりに卑劣な犯人の行為とその凄惨な結果に、純粋に怒りを覚える。だからこそ僕はインターネットで、特にこのTwitterでの「祭り」に「大喜利」に参加したくなかった。

 僕には仲のいい京都アニメーション出身の演出家がいて、彼はTwitterで関係者でもない人間が、ここぞとばかりに善人ぶるなと憤っていた。それはさすがに行き過ぎた要求だと思うけれど、気持ちは分からなくも、ない。僕も普段から同業者(ジャーナリストとか批評家とか、言論人とか呼ばれるそのたぐいの人)がTwitterの潮目を読むことばかり考えて自分の株をあげようと一生懸命拡散されそうな発言を試みているのを見ると、とてもウンザリするからだ。だから僕は、少なくともTwitterで何か言うのはやめようと思った。

 それにテロリズム(と、この犯罪については言ってよいと思う)とは、殺人と破壊で日常性を脅かすことで効果的にメッセージを伝える行為だ。だからいちばんの対抗法は、その犯罪を全力で軽蔑し、徹底して殲滅し、再発を防止するための措置を講じながらも決してテロリストの主張に耳を傾けないこと、だ。正確に言えば、耳を密かに傾けその内面を冷静に分析しつつも、そのことで僕たちの日常性を失わないことだ。当たり前のように仕事をして、当たり前のように飲み食いし、そして当たり前のようにアニメを見る。それが一番の抵抗なのだ。

 一年と少し前に、僕は別の仕事でパリに出張していた。そこで、初日の夜にテロに遭遇した。いや、正確に言えば遭遇していたのにそのことに気づかなかった。仕事相手とレストランで夕食をとっていたとき、数百メートルも離れていない場所でテロが起こり、1名だけだけど死者も出た。僕はそのことを、ホテルに戻って報道を目にするまでまったく気づかなかった。気づかないまま、空腹を満たしながら明日以降の段取りを打ち合わせていた。

 そして驚いたのが、翌朝街に出るとテロの現場となったこの街が当たり前のように日常を迎えていたことだ。パリの市民は、当たり前のようにカフェで新聞を開いて朝食を取り、当たり前のようにランニングしていた。僕も恐る恐るランニングウェアに着替えて走り始めた(以前にも述べたように、僕は出張先の街で走るのが好きだ)。市内は剥き身の小銃を構えた警官(?)たちがウロウロしていて、ちょっとギョッとしたけれどそれ以外は驚くほど緊張感がなかった。ああ、この街は(それは不幸なことだけれど)こうした惨劇の反復も含めて「日常」になっているのだなと思った。そしてこれが、この街の「強さ」のようなものなのだなとも思った。

 『らき☆すた』『けいおん!』、そして『日常』ーー京都アニメーションはまさにこの「日常」の豊かさを主題にした作品を数多く送り出していたスタジオだ。『けいおん!』の劇中歌に「ごはんはおかず」という歌がある。
本来は主食であるはずの「ごはん」が「何にでも合う」おいしさをもつがゆえに、むしろメインディッシュ的な存在として捉えなおされる。僕にはこの曲が『けいおん!』という作品そのものに思える。つまり「日常の」「何も起こらない」「他愛もないやりとり」幸福な空間こそが今、もっともアニメと言う虚構性の高い表現で描かれるべき「夢」のようなものだという逆説がここにある。ごはん=日常の中の幸福感こそが究極の「おかず」=描かれるべき「夢」なのだ。その京都アニメーションがテロリズムの標的になってしまったことは、とても象徴的でそして皮肉な現実だけれども、だからこそ僕たちは京都アニメーションが提示したこの日常の豊かさを見失わないことで、テロリズムに対抗すべきなのだと思う。誰かを中傷して溜飲を下げるのでは、なく。あくまで「ごはんはおかず」であるように。

 僕の友人の京都アニメーション出身の演出家は山本寛といって、在籍時代は『涼宮ハルヒの憂鬱』や『らき☆すた』を手がけて注目を集めた。彼がスタジオを辞めた背景にはいろいろな対立やトラブルがあったらしく、それに加えて彼はよく近年の京都アニメーションの作品について批判的な感想を述べていた。ゴシップの好きなインターネットのアニメファンはこの関係を面白がって囃し立てたり、あるいは山本監督に対して中傷めいた投稿を繰り返したりする人も少なくなかった。だからこの「事件」が起きた瞬間に、無関係なはずの山本監督に批判が集中した。当日、傍目にも彼は混乱していて、やりきれない気持ちがあまり良くないかたちでTwitterに漏れ出ていたのは間違いない。前述したように、京都アニメーションに無関係な文化人のたぐいが次々と哀悼を表現する状況に彼は不快感を表明した。それはたしかに、行き過ぎた行為だったかもしれない。しかし、それを理由にインターネットのファンの一部(かもしれないが、それは一人の人間を袋叩きにして追い込むには十分な数だ)は山本監督に今も中傷を続けている。彼が何かを投稿するたびに「お前こそ何も言うな」と批難が殺到している。
 この人たちは、テロとの戦い方を間違えている、と僕は心底思う。

 僕は山本監督と、事件の前々日に彼の新作についてインターネット番組で議論していた。放送が終わると、彼は私用で大阪の実家に週末帰省するのだと述べていた。新作映画『薄暮』の公開で露出が大きくなると、それに比例して嫌がらせもひどくなっていったらしく彼は明らかに疲れていた。週末の帰省は一仕事終えた後の骨休めでもあったはずだ。そしてまさに彼が関西に向かおうとしているときに事件は起きた。

 たぶん、やりきれない気持ちを抑えられなかったのだと思う。新華社通信が報じた事件現場の映像に献花する山本監督が偶然写り込んだ。僕はそれをソウルのホテルで目にすることになった。そっと手を合わせる彼は、涙をこらえていた。怒りと悲しみが複雑に入り混じった涙だったと思う。彼とはもう10年近い付き合いだが、あんな表情は初めて見た。

 山本監督は絶望していたのだと思う。起きてしまったあまりにも凄惨な現実に、そして、その現実を受け止めきれない人々が、かつての同僚を、先輩を、後輩を殺された相手にゲーム感覚で石を投げてくるもうひとつの現実に。彼は改めて直面してしまったのだと思う。京都アニメーションを襲った犯人の悪と、こうして自分に石を投げて楽しんでいる人々の悪とが、確実に地続きであるということを。あの涙は、たぶんそういうことなのだと思う。

 だから僕はいま、この乾いた絶望にどう抗うのかを考えている。そしてその手がかりを少しでも、韓国の仲間たちと話せたらと思う。

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宇野常寛
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