私が学問に目覚めた時

     法学部教授・蒲島郁夫

 皆さんと違って私が歩いてきた道は、名門高校から東大に一直線に進むようなエリートの人生ではなく、たいへんな回り道でした。しかし、その回り道人生から得られた教訓は、人間の可能性は本当に無限だということです。

 私が生まれた所は、熊本県の小さな村です。昔は稲田村と言っておりましたから、村の風景が想像できると思います。私は高校を卒業するまで一度も勉強した思い出がありません。全然勉強をしないものですから、高校時代は大変な落ちこぼれで、同級生220人中200番台の成績でした。私の高校時代の姿から、誰も私が東大教授になるとは思わなかったでしょう。

 勉強はしませんでしたが、本は誰よりたくさん読みました。これが後になって私の人生に影響を与えたように思います。自分の経験していないこと、知らない世界を本によって想像する。それがいつしか自分の夢につながっていったのではないかと思います。

 少年時代は3つの夢を持っていました。一つは『レ・ミゼラブル』を書いた、ビクトル・ユーゴのような小説家になりたいと思っていました。文章を書くのが好きだったのです。『レ・ミゼラブル』は私が小学3年生の時読んだ最初の本です。もう一つの夢は、政治家になりたかったことです。それは、やはり小学生のとき読んだ『ブルータクの英雄伝』に影響を受けたのかも知れません。3つ目は、阿蘇山の見えるところに住んでおりましたので、阿蘇の大平原で牧場を経営する夢をもっておりました。振り返ってみると、私の人生はこれらの夢を追いかけてきたようなものです。

 落第すれすれで高校を卒業し、地元の稲田村農協に勤めました。農家に肥料やプロパンガスを配達したり、収穫期には米俵を担いで倉庫に入れたりするのが仕事です。勤めて1、2年もすると、どうも自分は農協の仕事に向いていないと思うようになりました。そこで、第3の夢、阿蘇で牧場を開くことを考えたのです。そのためにはまず資金が要る。それより前に知識がいる。その当時、派米農業研修生といって農家の青年をアメリカに研修に行かせる制度があり、そのプログラムに応募し合格しました。

 農業研修生としてアメリカに渡ったのは、21歳のときです。私の専門は牧場経営でしたから、アイダホ州の農場に研修生として配属され、数百頭の肉牛と羊の面倒をみました。研修生といってもなかなかつらい仕事です。朝夕に牛や羊に餌をやり、昼は広大な畑を耕します。アメリカは大規模農業です。その中にあって、あまり農業の経験のない私が、農場主の期待に添うように働くのは大変です。

 そのような苦しみのなかで、3か月間、ネブラスカ大学で学科研修があり、畜産学を学びました。私はそこで生まれて初めて、学問の喜びと面白さを実感したのです。それまでは、農奴のように働いていましたから、勉強だけして生きていられる生活が天国みたいに感じられました。学問とは何と簡単で楽しいものかと思いました。そこで「大学に行ってもっと勉強をしたい」と痛切に思いました。その時が本当の人生の転機だったかも知れません。私は、再渡米してネブラスカ大学に是非入学したいと思いはじめていました。

 この農業研修プログラムが2年で終了し、1970年に日本に帰国しました。ネブラスカ大学に帰ると言ってもその旅費が必要です。名古屋で義兄が牛乳の販売所をやっていましたので、そこで牛乳配達を半年ほどして旅費を稼ぎました。航空運賃を払うと50ドル残りました。たったの50ドルもって再渡米したわけですから、後がありません。アメリカで大学入試の共通テストであるSATを受けましたが、数学も英語もあまりできませんでした。しかし、農業研修生の学科研修を担当した教授の強力な推薦もあって農学部に条件付きで入学を許可されました。24歳の時です。

 わが家からの仕送りはもちろんありませんから、生活のためによくアルバイトをしました。農業研修生プログラムの通訳をはじめ、大学の農場で働いたり、教授の研究の手伝いをしたりしました。そして、初年度の成績がストレートAでしたので、特待生となり、授業料が免除されいくつかの奨学金を貰えることになりました。また、特待生になると必修科目がなくなり、学部の枠を超えて自由にコースを選択することができます。唯一求められるのは、指導教授のもとで研究論文を書くことです。

 私は、畜産学、そのなかでも繁殖生理学に興味を持ちました。とりわけ豚の精子の保存の研究をしました。人間とか牛の精子は非常に鈍感で、冷凍で長期に保存できます。豚の精子は敏感で長期保存が困難です。1日保存が伸びればいい性質をもつ雄豚の精子を繁殖に使うことができるので、世界的規模では測り知れない経済的効果があります。指導教授のジーママン教授はこの分野の権威で、豚を何百頭も使って実験し、その結果は教授と共同で学会で発表されました。

 そこで研究するうちに、ジーママン教授から大学院に残るように言われました。そのとき私はふと考えました。このまま、大学院に残って、繁殖生理学を続けるのが一番楽かもしれない。しかし、私にはもう一つの夢がありました。それは政治を勉強することです。政治学をやるならハーバードと決めていた私のために、ジーママン教授は推薦状を書いてくれました。ところが、私は一度も政治学のコースを取ったことがないのです。その上、ネブラスカ大学を卒業するときには4人家族になっていました。ハーバード大学に願書を出したときに、家族がいるので奨学金がなければ行けないと明記しました。政治学を履修したこともない貧乏な外国人を、いきなり博士コースに、それも奨学金付きで入学させてくれたハーバード大学にはいまでも感謝しています。

 ハーバードではとても豊かな研究生活を送ることができました。最初に私が履修した政治学の科目は、S・ヴァバー教授の「民主主義と政治参加」です。それ以来、民主主義と政治参加はいまでも私の主要研究テーマです。『文明の衝突』で有名なS・ハンティントン教授との出会いには、自分の博士論文を全部書き直すくらい衝撃を受けました。彼のセミナーに提出した論文はハンティントン理論を批判するものでしたが、それにもかかわらず、雑誌に投稿するようにいわれ、あとで『ワールド・ポリティクス』という雑誌に掲載されました。教授から認められることは嬉しいものです。政治学者として生きる勇気を与えられました。

 ハーバードで、博士課程を終了するのに普通5〜6年かかりますが、私は3年9カ月で終了しました。別に優秀だったというわけではなく、早く卒業しなければ食べられない事情があっただけです。どうやって早く卒業できたかというと、3年目の奨学金をもらったときに、日本までの切符を家族の分も全部買ってしまったわけです。早く予約すれば安く買えますが、日付は変更することができません。切符を捨てるか、その前に卒業するかの2つチョイスしかありません。私は博士論文を帰国の前日に提出して予定通りの飛行機で帰りました。人生を生きていく時にそういう時期があると思います。自分で自分にプレッシャーをかけなければならない時期が。

 あとは普通の学者人生です。筑波大学を経て今は法学部で教えています。

 皆さんの中には進路選択で悩んでいる人、希望している進路に進めないで苦しんでいる人がいると思います。すでにお話ししたように、私は24歳で大学に入り、卒業するときにやりたいことが分かって方向転換しました。本当に人生というのは何が起こるか分からないと思います。可能性を信じて、失敗や方向転換も恐れることなく、夢を持って一生懸命に生きてください。

 最後に一言。法学部は先だってロースクール構想を発表しました。入学定員のおおよそ3分の1が、他の学問分野を学んだ人などに開かれています。理工系から弁護士を目指すなど、弾力的な進路設計の一助となるでしょう。


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