信長には常に勝ち続ける軍隊が必要だった
天正元年(一五七三)七月に将軍足利義昭を追放した信長は、京都を中心とする畿内政治を担当することになった。
天正三年五月に長篠の戦いに快勝した彼は、同年十一月に常設の武官の最高位である右近衛大将に任官して名実ともに将軍相当者となった。足利という血脈と、伝統と権威に支えられた室町時代とは決定的に異なって、信長は常に勝ち続けねば政権を維持することができないという厳しい現実に直面した。
そのためには、国家的軍隊を編成し「常勝システム」を構築せねばならなかった。信長は、翌天正四年二月からは安土に本城を移し、日本の東西(東山道)と南北(太平洋と日本海を結ぶ近江商人が利用したルート)の流通の結節点を抑えた。
天下統一、信徒拡大…利害が一致した信長とイエズス会
この段階までに、鉄炮鍛冶の拠点である近江国友村(滋賀県長浜市)や和泉堺(大阪府堺市)を押さえ、今井宗久などの堺の国際商人との関係をもち、さらにイエズス会との友好関係も確保したのである。
イエズス会が日本における布教の拠点としたのが国際港湾都市長崎であり、宣教師たちは近隣の大村氏や有馬氏、そして大友氏らキリシタン大名に大砲を供与するなど軍事的に援助しながら、九州の戦国史に大きな影響力もちつつあった。そんな彼らが目をつけたのが、天下人信長だった。
宣教師たちの布教活動を様々に支援するかわりに、イエズス会によってインド→タイ→中国と続くアジアにおける鉛と硝石の道が確保された。かたや信徒の拡大、かたや天下統一という目的のために、互いに利用しあう関係を築いたのである。
これには、デマルカシオン(スペインとポルトガルによる世界分割)という相当に生臭い世界政治の現実が横たわっていたことは、拙著『戦国日本の軍事革命』で詳述した。
武田、北条、今川ではダメだった…信長だけが「天下人」になれたワケ
鉄砲隊を中心とする国家的軍隊を編成するために、莫大な資本をいかに集中させるのか、この段階の信長にとって最大の課題となった。
信長が注目したのは、検地を介する石高制の導入という一大制度改革だった。
既に北条氏・今川氏・武田氏をはじめとする諸大名は貫高制検地(永楽銭で田畑から年貢を徴収し、あわせて家臣団に対して軍役を賦課するための土地調査)を始めていたのだが、信長は石高制を採用することで、軍事と資本の集中ばかりか国家改造に着手したのだ。