張春穎
山の仕事が地域の花形だった時代、彗星(すいせい)のごとく山間部を駆け抜けた作業車が、重労働から人々を解放したと耳にした。その名はデルピス。伝説となった「農山村の救世主」を探しに、かつて製造されていた群馬県下仁田町を訪ねた。
「山を知りつくした男が到達した最高傑作」「まさに山からのメッセージを具現した車」
開発から携わったという神宮開さん(82)らが大切に保管していたパンフレットを見せてもらうと、それ以上ないくらい力強い言葉が並ぶ。
山に囲まれたこの地域は農林業の機械化が難しく、重労働と生産性の向上が課題だった。神宮さんや資料によると、戦後まもなく林業や養蚕業を営んでいた佐藤智太郎さん(故人)を中心に開発を始めた。農作業後や雨の日に、自動車に関する溶接技術などを独自に学び、失敗を重ねながら約10年かけて1956年ごろに第1号を完成させた。「自分たちの欲しい物を作ることができて楽しかった」と神宮さん。
1人乗りで全長約4・7メートル、幅は約1・2メートルの3輪タイプ。ダイハツ製のエンジンを積み、基本形とされる「DP―100型」は最高時速14・2キロ、最高出力18馬力、総排気量356cc。最小回転半径は2・8メートルと小回りがきき、斜度25度も登れ、小型特殊自動車として公道も走行できる。後部左右に車輪がついたトレーラーを連結すれば長さ6メートルの丸太も運べ、クレーンも追加できた。馬や牛が荷物を運んだ狭い道や急坂も丸太を積んでグイグイ進み、「谷(デルタ)を素早くピストン輸送する」というイメージから名付けたという。
評判が広がった65年、量産化に向け製造会社「農林機械研究所」が町内に設立された。森林組合を通じて全国に約1万5千台が販売された。また町内の山中には幅員1・5メートルのデルピス専用道が120キロ以上整備されたという。
ただ、林業の衰退や軽トラックの普及などにより研究所は30年ほど前に倒産。最終的には50馬力まで性能をアップさせたデルピスの生産も終わった。
では、今なお現役のデルピスはいるのか。情報を頼りに細い道に入り、シイタケ専業農家の吉田栄彦さん(62)の農園を訪ねると、あった。
吉田さんは自慢げだ。「かっこいいだろう。日本一だよ」
傾斜のある幅約2メートルの狭い道を、まるで線路上を走るがごとく機敏に行ったり来たり。約40年前にシイタケ栽培を始めた時からの付き合いで、簡単な故障なら自分で直す。「部品がなくてお金はかかるけど、代えがたい存在なんだ」と吉田さん。
吉田さんら「デルピスト」がどうしても修理できない時に頼るのが、町内に住む元工場長の今井弘さん(69)。研究所で約20年間、製造や営業に携わった。いまもシイタケの原木販売といった本業のかたわら、修理に出かける。今井さんによると、いまも50~60台のデルピスが現役だ。
「デルピスを30年、40年も使ってくれるから、(使用者との)付き合いも自然と長くなって友達になっちゃう。修理は頼まれれば行くしかない。逃げられないんだよ」と笑う。(張春穎)
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