第47回  シリーズ秀吉① 高松城水攻めと毛利輝元

高松城水攻めと毛利輝元 3週連続で天下人・豊臣秀吉に屈した武将たちの敗北に注目する。第1回となる今回は、備中高松城の戦いにおける毛利輝元の敗北から現代に通じる教訓を探る。豊臣政権の五大老の一人として秀吉を支えた輝元は、19歳の時に祖父・元就が他界し、名実共に毛利家の主導者となる。輝元より16歳年上の秀吉はちょうどその頃、天下布武を掲げ、上洛を果たした織田信長の家臣として浅井氏、朝倉氏との戦いに身を投じていた。

当時、毛利家は織田家と同盟関係にあったが、信長が都から追放した室町幕府十五代将軍・足利義昭を輝元が庇護したことで両家の対立は決定的となる。信長に中国攻めを命じられた秀吉は毛利方の城を次々と落とし、いよいよ、備中高松城の戦いが始まる。秀吉の奇策、水攻めに苦戦し、窮地に追い込まれた輝元は不利な条件で停戦に応じ、城主・清水宗治の切腹を受け入れる。輝元はなぜ、秀吉との停戦を決断したのか?

輝元と停戦協定を結んだ秀吉はすぐさま中国大返しを敢行。輝元が本能寺の変を知ったのは、その翌日のことだった。謀叛人・明智光秀を下した秀吉が信長の後継者として天下統一事業を進めると、輝元は四国攻め、九州攻めに協力し、秀吉に臣従。叔父の小早川隆景と共に豊臣政権の五大老となり、秀吉を支える存在となる。もし、輝元がいち早く上洛を果たしていたら、その後の展開はどうなっていたのか?

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