Content-Length: 38252 | pFad | http://anond.hatelabo.jp/20140925003134
誰かのために何かをしてあげたいと思ったら、それを実行した段階でお返しを心の中にもらっていると思う。
見返りが欲しいとか、相手の変化を見たいとか、相手の喜ぶ顔が見たいとかは、私の基準では欲の範疇(確かに喜ぶ顔が見れたらうれしいではあるけどね)。
人は欲で行動してもいいと思うけど、私は自分の欲で行動しているという自覚は持っていたいし、私と関わる他人にもできれば持っていて欲しい、と常々思ってる。
具体例を挙げるなら「インド人の乞食にお金をあげてもたいてい感謝しない」ってのもそういうことだと思う(お金をもらった瞬間に相手の心に対価は与えているし、徳を積ませているのでイーブン。互いに上も下もないし、貸しも借りもない)。
誰かのため、なんて無い。すべてが自分のため(自分の心が満足するため)に行動してると思う。
そういう感覚が当たり前なら、自らが与えた乞食がありがとうと言わなかったり、飲食店も態度悪かったりありがとう言わない(対価の食事は渡しているから)ことに対して文句も出ないはず。そういう感覚に触れたいってのもインドに惹かれる理由の一つ。あー、また行きたいなぁ。
でもよく考えたら20年くらい前から考えてたな。この感覚(「○○してあげるというくらいならやってくれるな」が口癖だった)。
インドに数年前行ったのに、インド人がそういう思考で礼を言わないとは知らなかった。 でもあの状況を見てしまうと、それは階級への恨み(ルサンチマンとか言うのかな?)を発生さ...
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