Beauty Science, Beauty Marketing. バイオな理系出身の化粧品マーケターが、美容や化粧品に関わるサイエンスやマーケティングと、それらにおけるコミュニケーションのことなどを中心に、日々感じたことを綴ります。
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Beauty Science, Beauty Marketing. バイオな理系出身の化粧品マーケターが、美容や化粧品に関わるサイエンスやマーケティングと、それらにおけるコミュニケーションのことなどを中心に、日々感じたことを綴ります。
noharraさんから続いてトラックバックをいただきました。 大阪の得点が低いことについての「イチビリ説」は引っ込められたとのこと。 (元のエントリ) http://d.hatena.ne.jp/noharra/20080918#p1 (撤回のエントリ)http://d.hatena.ne.jp/noharra/20080930#p4 これだけでも自分が応答した意味はあったように思います。 さて後のいただいたトラックバックの二つについては、もう対話としてはスタックしかけている印象(これは私の応答も含めてですが)があって、なかなかここから生産的な話につながらないのではないかと思えます。 まず先にいただいた(3)の方、 http://d.hatena.ne.jp/noharra/20080930/p1 ここでnoharraさんが力を入れてやられているのは、私が「どう言ったか」という表現について
自分に起こる出来事に対して、はじめから納得できる結果が出る、なんてことはないでしょう。 理想と現実に折り合いをつけることによって、納得できる。そこの折り合いがつかないといつまで経ってももやもやとし続けるのですね。自分に責任がないとき、あるいは自分に責任があると考えたくないとき、納得のハードルは上がります。自分では制御できない部分に委ねなきゃならないからね。といっても、相手に「あいつは極悪だ」とかレッテルを貼って満足する、ということもあります。それはそれで精神的には健全。ただし、言わなきゃ。言っちゃうと相手も黙ってレッテル貼られるわけには行かないもんね。 でも、言ってしまうことはよくありますね。相手の顔が見えなかったり、直接の利害関係がないウェブでは尚更。 泥沼に陥った議論の収束のさせ方でもあるんだけど、もうこうなっちゃったらフェイドアウトする以外にお互いが納得する形での幕引きは出来ないよう
良く「はてな村にはエスパーが多すぎる」と言われることがあります。 本当かどうかわからないことを決め付けるな、くらいの意味で言っているだと思うんだけど、そんなこと言って考えをやめてしまう位だったら、積極的にエスパー足らんとしていた方がよいんじゃないか。 そもそも、そこに書かれていること自体がその人の本心なのか、あるいはちゃんとわかって言っているのか、ということすらわからないわけです。別にウェブに限った話じゃなく。色々な情報、あるいは経験知、あるいは論理、あるいは学んできたこと。そういうものを駆使して相手が何を言わんとしているのかを類推し、きっとこうだと思って応答する。普段の会話だってそうしているんじゃないかと思う。 ウェブではそこにおかれている文章以外の情報は手に入りにくい。リアル友人だったり、長い間やりとりがあったり、オフ会行ったりするとだいぶ違うと思うけど、そういうのがないと、顔を付き合
「いじめ/ファシズム/引きつった笑い - 過ぎ去ろうとしない過去」あたりの話。 「ニコニコ大会議*1」で、話者のストリーミングビデオにリアルタイムに罵倒語が書かれたということで、それは「いじめ」と同じだろう、いや違うという議論が起こっているようだ。 「悪意はないんだからいいじゃないか。」とか、「本人は問題を感じていないのだから問題じゃない。」とかいう「いじめじゃない派」の話を聞くと、水からの伝言と道徳の問題を思い浮かべてしまうのは、きっとニセ科学批判脳。 個人的には、罵倒語を書き込むということに嫌悪感を感じるし、ニセ科学批判脳が勝手に水からの伝言と道徳の問題に結び付けてしまったので、「いじめじゃない派」に反発を感じる。 しかし、「さぶい」とか「空気よめ」とかいって、正当化する必要性すら感じない人*2は、正当化のための議論をしている「いじめじゃない派」の人よりも問題を孕んでいるのかもしれない
問うことを止めれば知ることはできない。私がすべてを知ってはいない以上、何に対してであれ問うことを止めるわけにはいかない。 学級委員長たちは自分の意見を何としても正当化したいのですね、わかります - ニート☆ポップ教NEO 記事の主張には余り関係ないが。それが「いじめ」かどうかを問うことは止めるべきではない。 まず例え話で申し訳ない。「レイプが犯罪か否か」等の問いも同様。何度同じ結論が出ようとも問い自体は止めるべきではない。しかし、レイプ被害者の前でその問いを口にすることには配慮が必要であろう。 さて、ネット上での議論は公開される故、それを当事者が見ることもある。極端な話、どのような問いであろうと、それを快く思わない人は存在すると仮定すべきだろう。ならば、当事者に配慮し過ぎると議論全般を禁ずることになる。 故に、問いを止めないのであれば、ネット上の公開された議論を見る側にも心構えが必要となる
ニセ科学 | 自分と信念を異にする相手と客観的に議論を進め、ひとつの合意に至ることは本当に難しい。 自分の方が明らかに客観的かつ論理的であり(と自分が思っており)、相手の方が明らかに主観的かつ非論理的である(と自分が思っている)場合は、なおさら難しい。 その相手と関わり続ける必要がないならそれでよいが、どこでもかしこでも国交断絶ばかりしているわけにもいかないのが、人間社会のシンドイところ。 客観性と論理性は、人間どうしが理解しあうためのツールであるはずなのに、それらだけでコミュニケーションがうまくいく場合は多いとは言えない。なんでだろう? ムチャなことを言いがちな相手と議論をするとき、「客観的」を自認する人は、まず「相手が間違っているのではないか」という前提で思考を開始する。より正確な結論を導き出すことを目的とする場合、この態度が正しくないかといえば、もちろん正しい。議論の相手が、どうにも
皮肉と当てこすりとでは世界は変わらない。 - novtan別館という記事を読んだ。私も皮肉や当てこすりで他人の行動を変えることができるとしたら、それはネガティブというか破壊的な方向だと思います。 対話において重要なのは他者理解です。他者理解を妨げるバイアスも色々とあるようです。人には、自分の失敗は外的(環境や状況、タイミングなど)な理由で説明し*1、他人の失敗は内的(性格など)な理由で理解する傾向があります。特に、他人が自分と異なるグループに属しているか、嫌いな人物であれば、そういう傾向は高まります。これは「基本的帰属錯誤」とか「究極的帰属錯誤」なんて呼ばれるものです。 人は他者を理解しようとしますが、ちゃんと理解するよりは自尊心を守るように方向づけられているのかもしれませんね。面倒な話です。 批判的思考でも、他者理解のために共感や相手の尊重が必要になるということが指摘されています。理解を
モトケン先生の所読んでがっくりきた。子供の喧嘩を始める方もどうかと思うし乗る方も。もっとも論旨がシフトしてしまえば仕方がないのか。でもなあ。 それが必ずしも良いことではないのかもしれないけど、世界を変えることができる言葉は圧倒的な説得力か、共感をもたらすものでしょう。皮肉や当てこすりが世界を動かすとしたら、それに対する怒り。でもそれはきっかけに過ぎません。まあバカにされた独裁者が核のボタンを押すなら皮肉が直接の原因となりうるかも。 別に自分が間違っていることを認める必要なんてないのかもしれません。相手が正しい可能性「も」少なからずあることを念頭において話せば、上手く折り合う地点が見えてくるかもしれない。 追記 なんだか全然違う文脈で某所から何度もリンクされててうんざりだ。なんかアレなんで置いとくよ。 オンもオフもねーよ - novtan別館 所属先に抗議が行くことは極めて正しい - nov
「こうのとりのゆりかご」の利用状況について熊本市が短期的検証を発表しました。 昨日ニュースで一報を聞いた時にはまだ熊本市のサイトにはあげられていませんでしたが、今はいくつかのpdfファイルで見ることができます(→サイト)。 発表を行なった熊本市要保護児童対策地域協議会「こうのとりのゆりかご」専門部会でこの検証を行なったのは、法医学の教授(座長)と精神科医、心理学の教授、弁護士、小児科医によって構成されるグループでした。 ■「こうのとりのゆりかご」の運用状況に関する短期的検証(1年間) (pdf) ■「こうのとりのゆりかご」の運用状況の検証に関する報告書 (pdf) これは平成19年8月末日までの「ゆりかご」の運用状況の報告です。ここではその運用に刑法上の「明らかな違法性」が認められなかったこと、システムのトラブルもあったが改善されたこと、そしてその運用を契機として妊娠・出産に関する相談業務
少なくとも僕は、応答があるなしでその人の性質を判断するのはちょっと短絡的だと考えている。mixiの素通り禁止みたいだし。 気力体力が充実しているときと疲労困憊しているときでは出せるアウトプットの種類も違う。ブクマも疲れがにじみ出ている、皮肉や諦観に満ちたものだったりして(じゃあやるな あるいは、出張や徹夜仕事で数日どころじゃなくアクセスできないことだってあるし。 だから、そもそも、スルーしていること自体が何らかの判断を伴った結果であるかどうかすら他人には定かではないんですよね。本人が公言している場合は除く。その場合はスルーしたりしなかったりする行為が本人の性質の一端を現していると考えることはできると思う。あくまで一端だけど。 ウェブはインタラクティブだと捉えられがちなんだけど、実際には時間を超越する変わりにその連続性と一貫性を失っている(ただし時系列は重要)疑似インタラクティブメディアなの
どうすればブクマコメントを気にしないでいられるか - novtan別館 id:NOV1975さんが、含蓄深い文章を書いていました。自分自身の脆さや弱さ・相手の凄さや醜さが、一方向的な受信だけでなく、双方向的なやりとりを通して浮き彫りになってくるというのは全くその通りと思いました。相手の発言や文章の一つ一つを吟味したり、双方向的なやりとりを通して、私達はお互いの対話可能性・コミュニケーション可能性も*1吟味しあっているように思います。それも、絶え間なく。 ただ、ともすれば、人は対話やコミュニケーションというものを誤解しがちです。対話というと、「お互いの距離を近づける」「理解しあう」「相手の良い部分に気づく」などとばかり連想する人もありますが、実際のコミュニケーションは、その正反対の効果をも含んでいます。コミュニケーションを万能お姉さんの如く空想している人をみると、僕は無残だなぁと思うほうです
なんか結論ありきの人とロジックありきの人が正しい検証「方法」についての議論を戦わせている印象。だんだん事実はどうでもよい話になっている気がする。しかも、7割方解釈論になっているから噛み合いどころがないよね。不完全なデータや記録から導き出される結論は不完全で、どちらがより説得力があるか、という仮説同士の戦いになったとき、どちらの仮説も絶対的な弱点と言うのは必ず存在して(だって元になるデータが不完全なんだもの)、そこを突付き合って楽しんでる感じ? 多分、タイムマシンにより現場を見ることができても解釈論に終始するような気がする。都合の悪いことを隠蔽するってのは現代の政府や企業でも行われていることで、時として政治的に強制された実行犯が全ての罪を被って自殺したり不審死を遂げたりすることは良くある。これを持って「疑惑が無かった」とすることはまあ普通無い。でも事実が闇に葬り去られるのは確かだ。 だから、
先のエントリのブクマコメントでは「住み分けは無理」ってのが結構上がっていました。そりゃあ完璧には無理というものですが、大抵の人はTPOを意識していたりしませんか?そうでもない?そうでもないよなあ。 認識の差異 大げさにいうとブログ論壇的な立場を規定して活動している人と、ただただ言い放つ人と、他愛のない感想を述べている人が不倶戴天的三角関係になっているように見えるのはやっぱりよろしくない。 前に土俵の話をしたけど、基本的にはWebという土俵に上がってしまったら批評されるのは交換条件みたいなもので、述べていることがどんなに単純な問題であっても批評されるってことは誰かにとって重大なことを述べているわけです。はい、ここ試験にでますよ。「自分にとって重大なことが他人にとっても重大とは限らない」「自分にとって些細なことが他人にとっても些細なこととは限らない」 どこからが議論か 感想を述べたら第三者があ
僕は四半期ごとに自分のエントリのいくつかを総括として取り上げているので、結構過去のブクマページを見るほうだと思います。そういえば、そろそろ今年も終わりなので見返さなきゃ…。で、「含む日記」「含むほかのエントリー」あたりを見ると意外と言及されていたりします。アクセス履歴から発見されることもあるけど。特にはてな内だとトラバか無くても載ってしまうので、ニヤニヤするには最適です。 …というわけで、たまに昔のブクマページを見ると結構面白かったりしますね。それ以上に自分が書いた内容がいろんな意味で面白いことが多いのですが…。たまに違う人なんじゃないかと思ってしまうのは僕が適当に書きすぎで考えがころころ変わりすぎだからなのでしょう。でも、最近書いている一連の話とほぼ同様のことを結構何回も書いているなあ。少しずつ、考えは変わっているようですが。上手く関連するエントリを抽出することはできないものかなあ。あま
http://d.hatena.ne.jp/NOV1975/20071201/p2 論点はそこではなく、それを通して相手の根本的な考えを変えるのは困難だと言うことなのです。価値観や思考の方向性が違う人の間で議論をするのはなかなか難しいですが、そこで浮き彫りになる事(考え方の差異とか)は議論として非常に重要です。 根本的には、「議論」という言葉の定義が人によってバラバラなのが問題なのだと思う。相手の思想を改造する事を主目的としない「対立点の洗い出し」とでも言うべき行為を「議論」だと思っている人もいれば、自分の正しさと相手の正しくなさを筋道立てて説明して相手の思想を改造するのが「議論」だと思っている人もいるし、さらにはよくテレビでやっているサルの縄張り争いみたいな物(相手が喋ってる途中で割り込んででかい声を出しまくって相手を黙らせれば勝ち)を「議論」だと思っている人もいる。この前提、いわばプロ
自由とは何か、という感じの話ですが。このあたりのことを言い出すと結構きりが無くて、マイ定義乱舞の様相を呈することがままありますが、とりあえず。 何事においても、何のために、という視点は常に大事で、自由と言うものについてもそれは例外ではありません。そのことを、以下を読んで思ったわけですが、これを当たり前のように了解している人もいれば、そんなものは自由とは言わないという人もいるでしょう。このへんは、公共とか社会とかいう言葉で何かしらの線が引かれているかどうかによるのかもしれません。 少数意見であるというだけで潰されることは問題であるが、妥当性を欠く意見が、支持者を得られないがゆえに淘汰されてしまうことは、自由な言論の場においてはなんら問題とされることではない。 WWWにおける言論行為 - 妄想日記 あらためて提示されると、実にすっきりとした話であることがわかります。淘汰されるということが少数派
どうも真意が伝わってない気配があるのであらためて。 僕が思っている事としては、議論そのものは大いにすべき、なのですが、意外と議論自体意味ないと受け取られている気配があります。論点はそこではなく、それを通して相手の根本的な考えを変えるのは困難だと言うことなのです。価値観や思考の方向性が違う人の間で議論をするのはなかなか難しいですが、そこで浮き彫りになる事(考え方の差異とか)は議論として非常に重要です。そのような差異の溝を埋めていくのが議論の目的とも言えるのですが、お互いに譲れない一線に抵触したときに、それをどう扱うか、と言う所でこの問題が出てくるのですね。 あくまで相手の考え方を認めず、自分の見方で相手を解釈するのは、確固たる考え方をもっている人としては気持ちのいい行為かもしれないし、なんで分かってくれないのだろうというもどかしい気持ちかもしれないし、まあ色々あると思いますが、それは通じ合う
ブロガーに意見して考えが変えられるなんて思ったら大間違い 日常でもなかなか相手の考えを変えさせるのが難しいわけですから、ネットでも難しいに決まってますよね。 この記事の通り、相手の意見を改めさせる事は非常に難しい事ですが、討論する事自体は無意味ではないと思います。そもそも討論とは、相手を言い負かしたり、考えを改めさせる事だけが目的ではありません。その討論を聞いた第三者の人間の考えを変えさせる事も目的の1つです。日本や外国で、政治家が討論番組に出演するのは、自らの政策や考えを披露しながら相手の意見の弱点を突くことで、視聴者の支持を集めるためです。相手を参ったと言わせなくとも、ギャラリーの支持を集めれば勝ちです。ですから、ブログ上で行われる討論も決して無意味ではありません。その討論をきっかけに、読者の考えを変えることもできます。 私の行きつけのサイトの1つ「週刊オブイェクト」というブログは、軍
一見筋が通っているようでも、どうにも無理がある理屈ってのをそのまま筋の部分で押し続けると議論は成立しません。論者として重要なことは、自分の論にしろ他人の論にしろ、(そこにより全体が破綻するようなものでない限り)枝葉末節を論じることよりも、全体の整合性が取れていることではないかと僕は思っています。常に一歩も引かない、相手の粗が自分の利になるような論戦をしているわけでないのであれば尚更。 いわゆる屁理屈と言われるものは 無理筋(単品で見ても論理的整合性があやしい。俺は正しい的) 前提の誤り・無視(泥棒に人権はない、等) 文脈整合性無視 などに分類されると思いますが、特に前提の誤りについては、間違った前提と言う認識自体が論者毎に統一されていなかったりするので、相手にとっては屁理屈でも自分にとっては前提になっているものもあります。そこで揉める場合、それが議論になることが正しい(つまり、前提そのもの
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