まずは、関連リンクの整理。
- 鄭玹汀「SEALDsについて」
https://www.facebook.com/permalink.php?id=100004420802283&story_fbid=480331362124220 - SEALDs綱領の該当部分
http://www.sealds.com/#opinion の中の三つめ。NATIONAL SECURITYの部分。 - 高橋若木氏による反論
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=1412446015750101&id=100009541482871&fref=nf&pnref=story
僕としては、鄭玹汀氏の批判は的を射たものであり、SEALDsのみならず、日本全体で受け止めるべき大事な論点を提起するものと考えています。その点について、高橋若木氏による鄭玹汀氏への反論を検討しながら、考えを述べてみたいと思います。
1 高橋氏の反論の整理
まず、高橋氏の反論の内容を整理します。おおむね、次のような構成で書かれています((*)は第*パラグラフを指す。)
- (1) 導入。
- (2・3)第一の論点。
SEALDs「北東アジアの協調的安全保障体制の構築へ向けてイニシアティブを発揮するべきです」「特に東アジアの軍縮・民主化の流れをリードしていく、強い責任とポテンシャルがあります」に対する、
鄭「独善的かつ傲慢な姿勢のあらわれ」とする批判、
これに対する高橋氏の反論 - (4~6)第二の論点。
SEALDs「侵略の反省を経て」「平和主義/自由民主主義を確立した」に対する、
鄭「しかし日本は過去の侵略戦争についてきちんと謝罪したことも反省したこともなく、平和主義と自由民主主義を「確立」したこともありません。彼らの無知と無自覚に、「危惧」を感じている」とする批判、
これに対する高橋氏の反論 - (7)高橋氏によるまとめ。一部引用。
「……背景には、「戦後民主主義」と「主体」をどう評価するかをめぐる思想の違いがある。だがそれ以上に、思想的に異なる無名の若者たちなら、文意を曲げて軽く誹謗しても問題ないだろうという憶断を感じる。……」 - (8)その他。
2 第二の論点についての検討
まず、第二の論点(4~6)について述べます。
もし、SEALDsの綱領が「平和主義/自由民主主義を『実質的に』確立した」と述べたものであるならば、鄭さんの批判はまったく的を射たものです。歴史改竄主義者の書籍が山と売られて、これがまた結構売れており、民主的に選ばれた首相からしてその歴史改竄の共感者であるような社会が、「侵略の反省を経た」と述べることは無理でしょう。言うまでもなく、「経た」ということは、「経て、終わった」ということなのですから。
また、自衛隊の軍備拡張路線と海外派遣の活発化に見られるように、より具体的にはアフガニスタン・イラク戦争での戦争犯罪への協力に見られるように、日米安保条約に基づく在日米軍基地の自由使用黙認(当然、その帰結としての戦争犯罪の黙認)に見られるように、日本には平和主義も確立していません。そして、これをほとんど批判できていない日本の民主主義の現状を見るかぎり、「自由民主主義が確立した」と述べることは困難なように思います*1。
ですから、これに反論するならば、SEALDsの綱領は「平和主義/自由民主主義を『実質的に』確立した」と述べたものではない、と言う以外にはありません。そして、実際、高橋氏は「ここでSEALDsが確立されたとしているのは日本国憲法とその体制だ(その実質的な確立ではない)」と述べることで、鄭さんの批判に反論しているわけです。
しかし、一見して、この反論は苦しい。たとえば、この趣旨に沿ってSEALDsの元の文章を書き換えるなら、次のようになります。
先の大戦による多大な犠牲と侵略の反省を経て平和主義/自由民主主義「に基づく憲法を確立したが、依然としてその実質は平和主義/自由民主主義とは評価しがたい状況にある」日本には、世界、特に東アジアの軍縮・民主化の流れをリードしていく、強い責任とポテンシャルがあります。
いかがでしょうか。かなり滑稽な話にしかなっていません。世界や東アジアをリードしていくポテンシャルより、まずは、日本国内をどうにかするポテンシャルを発揮しましょう、と言いたくなるでしょう。このような読み替えはさすがに無理です(あるいは、その読み替えをしてもいいですが、それかえってSEALDsの皆さんに失礼ではないですか?)。
3 第一の論点の検討
次に、第一の論点(2・3)に戻ります。
この部分は「字義通りにミクロに読解する」というだけのスタンスで考えるなら、まったく零点というわけでもありませんが、しかし、文章というものは全体としてのメッセージを持つものでもありますから、不十分な読解である点は否めません。
既に検討したように、二つめの論点の内容は明確です。日本は「侵略の反省を経て」いないし、「平和主義/自由民主主義を確立し」ていないにもかかわらず、SEALDsは「反省を経た」「確立した」から問題を語ってしまったわけです。ここに「戦争責任及び植民地責任が果たされていないままの戦後ウン十年がある」という認識が欠けているのは明らかです。この点を踏まえるならば、「北東アジアの協調的安全保障体制の構築へ向けてイニシアティブを発揮するべきです」「特に東アジアの軍縮・民主化の流れをリードしていく、強い責任とポテンシャルがあります」という表現に対して、「独善的かつ傲慢」と評価することは、残念ながら的を射た評と受け止めざるをえないと思います。
ただし、重要な注釈を述べておきたいと思います。彼らがなぜこのような表現を選んだのかと言えば、一つの可能性としては、彼ら自身の認識がそうだったからであり、その認識は、この社会の中で育まれたものです。もう一つの可能性としては、社会の多数派の認識に配慮しようとしたからです。おそらくはこの両方の理由があったのだろうと思います。
いずれにせよ、彼らがこの表現を選択するにあたって、日本社会に充満する空気が大きく作用していたことは否めません。つまり、彼らの表現は彼らの選択であると同時に、この日本社会において戦争責任・植民地責任の問題が十分に共有されてこなかったことの結果でもあるわけです。ゆえに、鄭さんのこのSEALDsへの批判は、SEALDsに対する批判である以上に日本社会そのものへの批判であったと、僕は理解します。
そして、そのような空気の存在に大きな責任があるのは、彼らよりもずっと年長の、僕を含む日本社会に暮らす人間たちでしょう。元より、SEALDsのメンバーたちが発表した文章の中に、先に述べたような問題があったのだから、そのかぎりにおいて彼らにまったく責任がないと言うことはできません。ただし、その責任は僕も含めて日本社会全体で担われるべき責任であるし、僕らはそのように述べることができるし、また、そのように述べるべき義務もあると僕は思います。
4 おわりに、鄭玹汀氏へのバッシングについて
鄭玹汀氏のSEALDsへの批判は、十分に理由と根拠のある批判でした。SEALDsメンバーは元より、僕ら日本社会に暮らすすべての人間が真摯に耳を傾けるべきものでもありました。歴史問題に対する、ひいては人権問題に対する日本社会の鈍感さが、変わっていく可能性を開くものでもありました。
この点から考えるとき、SEALDsよりも先に、鄭氏に対して(批判と言うより)攻撃をしかけた一群の人々のやり方は、強く批判されるべきことと思います。その問題として、鄭氏に対する加害という面がもっとも重大であることは言うまでもありませんが、ご本人が法的な対応を行っている最中でもありますので詳しくは論じることはやめておきます。
ここでは、二番目に大事な(と僕が考える)問題を指摘しておきたいと思います。鄭氏の批判はSEALDsに向けられたものですから、どのように対処するかはSEALDsのメンバーが考えるべきことであったと思います。SEALDsの中には、鄭氏の批判への反発もあったでしょうが、その内容を受け止めようとする反応もあった。そう聞き及んでいます。このような状況において、第三者の(それも年長者の)集団が鄭氏を激しく攻撃することは何を意味するか。当然のことながら、これはSEALDs内部での議論に対して抑圧的に作用します。批判を真摯に受け止めようという方向性の意見は表明しにくくなり、逆に黙殺しようとの意見は後押しを受けるわけです。
もちろん、単に鄭氏への見解を表明するだけでも、次に何か意見を表明しようとする人はある種の圧力を受けるわけですから、こうした作用を完全になくすことはできません。ですが、程度問題というものがあり、モノには限度というものがあります。鄭氏への批判的意見を表明する場合でも、「肯定的な意見も、当然表明されて検討を受ける権利があるでしょう」と付け加えるだけでも、事態は大きく変わるのです。なんらかの介入をするにせよ、意見表明をするにせよ、鄭氏を攻撃した人たちには(SEALDs防衛隊を名乗るグループやそれに近い人々のようですが)、こうした配慮が微塵もなかったことは明らかであると思います。ここに姿を見せているパターナリズムの問題は、鄭氏が批判した事柄とは別の、深刻な問題であると、指摘しておきたいと思います。
以上の議論の全体において、SEALDsの責任は限定的にしか語られていないことに注意してください。発端となった綱領への批判について、その責任はSEALDsの責任である以上に、日本社会全体の、そこに暮らす自分を含めた、とりわけ年長者の責任として引き受けられるべきだと考えています。また、鄭氏への攻撃の問題も、第一義的には、SEALDs防衛隊を称する第三者の責任だと考えます。
しかし、このいずれについても、SEALDsをめぐって生じている問題である以上、状況を黙認することには、別の責任が生じてくるであろうことを指摘しておくべきかと思います。言うなれば、これは戦争責任と戦後責任の関係に似ています。鄭さんが指摘した歴史認識の問題も、鄭さんに対する攻撃の問題も、黙認するならば、どこかの時点では、SEALDsの皆さんの責任と理解しなければならない段階に至るでしょう。そのことは、よく皆さんで議論してほしいと願います。