【不可能を可能にした95年センバツ】田名部和裕さんの知見/連載〈1〉

甲子園球場は昨年、100歳の誕生日を迎えました。戦禍をくぐり、近年は酷暑という難敵に悩まされながらも阪神タイガースの本拠地、高校球児のあこがれの舞台として、リニューアルを重ねて生き続けています。1995年は阪神・淡路大震災を耐え抜きました。球場所在地の兵庫・西宮市が被災地となりましたが、震災発生の1月17日から約2カ月後、センバツ開催にこぎつけました。不可能を可能にした運営の中枢にいたのが、日本高野連の当時の事務局長、田名部和裕さん(78)。知恵を絞り、被災者への配慮を重ねた経験が、未来につながる知見を育みました。

高校野球

◆田名部和裕(たなべ・かずひろ)1946年(昭21)2月27日、兵庫県生まれ。葺合(ふきあい=兵庫)から関大を経て、68年に日本高野連事務局入り。93年に第6代日本高野連事務局長に就任。05年まで同職で4人の会長のもと、阪神・淡路大震災直後の大会運営、特待生問題などに尽力した。参事を経て10年から日本高野連理事を務め、同高野連の70年史を編さん。21年に退任した。

「3年は野球できへんな」

当時の日本高野連・田名部事務局長の1995年1月17日の阪神・淡路大震災発生時からセンバツ閉幕までの予定を記した手帳。1月17日は甲子園球場との打ち合わせの日だった

当時の日本高野連・田名部事務局長の1995年1月17日の阪神・淡路大震災発生時からセンバツ閉幕までの予定を記した手帳。1月17日は甲子園球場との打ち合わせの日だった

この世のものとは思えなかった。

30年前の1月17日、午前5時46分。兵庫・西宮市の自宅で、田名部は強烈な縦揺れに飛び起きた。

田名部うちは阪神競馬場の近くやから、あそこに隕石でも落ちたんかなと。地震とは思わなかった。ただただ、こら、えらいこっちゃと。

目をこすりながら、ラジオをつけた。

アナウンサーの切迫した声が、震災発生を伝えていた。

パジャマの上にどてらを羽織り、家族の無事を確かめると、近所の安否確認に動き出した。

奥まった路地に、16軒の家が向かい合わせに建ち並ぶ。

古い8軒の家屋はつぶれていた。

「大丈夫ですか?」

「ご無事ですか?」

声をかけ合い、壊れた家の中で痛い…痛いとうめき声をあげていた婦人を救出。

病院に送り届けたときには9時近くになっていた。

ガスタンクが爆発したというニュースを知り、芦屋市に住む日本高野連会長、牧野直隆の自宅にバイクを走らせた。

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古代の王国トロイを発見したシュリーマンにあこがれ、考古学者を目指して西洋史学科に入学するも、発掘現場の過酷な環境に耐えられないと自主判断し、早々と断念。
似ても似つかない仕事に就き、複数のプロ野球球団、アマ野球、宝塚歌劇団、映画などを担当。
トロイの 木馬発見! とまではいかなくても、いくつかの後世に残したい出来事に出会いました。それらを記事として書き残すことで、のちの人々が知ってくれたらありがたいな、と思う毎日です。