85年阪神V吉田義男監督 長打だけでなく意外な数字もリーグトップ/物語のあるデータ

1985年のシーズンが思い浮かびました。元阪神監督で日刊スポーツ客員評論家だった吉田義男氏死去の報に接したあとです。

監督復帰1年目に初の日本一。小さな体が、西武球場の空に舞いました。吉田監督は優勝の2文字を一切口にせず「土台作り」「挑戦」「チーム一丸」を繰り返しました。8月、中埜肇球団社長が日航機の墜落事故で急死します。動揺を隠せない戦いが続く中、それでも「一丸となって」ゴールになだれ込みました。

プロ野球

◆吉田義男(よしだ・よしお)1933年(昭8)7月26日生まれ、京都府出身。山城を経て、立命大から53年に阪神入団。遊撃の達人として一時代を築き、軽快な身のこなしから「今牛若丸」の異名を取った。54、56年盗塁王。ベストナイン9度は遊撃手最多。通算2007試合、1864安打はともに球団3位。同350盗塁は球団2位。同264犠打は球団最多。69年引退。75~77年、85~87年、97、98年と3期にわたり阪神監督。85年リーグ制覇、球団初の日本一で正力松太郎賞。背番号23は阪神の永久欠番。92年殿堂入り。90年から95年までフランス代表監督を務めた。座右の銘はひたむきに歩む意味を込めて「徹(てつ)」。現役時代は167センチ、56キロ。右投げ右打ち。

20年ぶりV前夜も「優勝」口にせず

85年10月15日付日刊スポーツ

85年10月15日付日刊スポーツ

もう40年も前になる。85年10月14日、阪神は広島を7―3で下し、王手をかけた。チーム124試合目のマジック1。それでも吉田監督は優勝を口にしなかった。

「ウチは挑戦者、次は東京でヤクルトに挑戦ですわ」

取り囲んだ報道陣が2文字を言わせようとするが、決めるとも、決めたいとも言わなかった。

阪神は64年を最後に20年間、優勝から見放されていた。自らの第1期監督時代(75年からの3年間)が3位、2位、4位。安藤統男監督が率いた前年84年は4位。監督に復帰するや「慎重居士」を貫いた。

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徳島・吉野川市出身。1974年入社。
プロ野球、アマチュア野球と幅広く取材を続けてきた。シーズンオフには、だじゃれを駆使しながら意外なデータやエピソードを紹介する連載「ヨネちゃんのおシャレ野球学」を執筆。
春夏甲子園ではコラム「ヨネタニーズ・ファイル」を担当した。