禅と日本文化、鈴木大拙著、読了、濫読日記風 2018、その17
岩波書店の広報誌「図書」の臨時増刊「はじめての新書」(岩波新書創刊80年記念)は各界の著名人が自分にとっての「はじめての新書」を薦めている。そのリストを眺めるだけで楽しいし、こんな人がこんな新書を薦めているということを読むだけでも興味深い。自分が読んだことがある新書の薦め方というのも自分とは違った観点から本を薦めるという点からも興味深い。
若手気鋭の研究者落合陽一さん(メディアアーティスト)のオススメの禅と日本文化 (岩波新書)を読んだ。
本書は鈴木大拙が英米で行った講演をもとにして英文で著されたものである。1940年翻訳刊行いらい今日まで読みつがれている古典的名著である。
今回はじめて大拙の著を読んでみたのだが、自分は禅も詫び(わび)も寂(さび)も全くもって知らぬ門外漢で、その意味で日本文化について全く前提知識を持たない欧米人という想定読者に近いものだと言える。
のっけから剣道の達人が弟子に武道を教えるというエピソードが出て来てのけぞるのだが、(こんな漫画みたいなことは流石にありえないだろうとツッコミを入れながら読んだのだけど)、『禅のモットーは「言葉に頼るな」(不立文字)というのである』(7ページ)という記述にドキッとする。
禅は身をもって体験するという身体性を何よりも重視する。ここに言語化できぬものには価値がないという立場と鋭く対立する何かを見出す。理論化というものは「野球をやるときや、工場を建てるときや、各種工業製品を製造するときなどには、結構なことであるかもしれぬが、人間の魂の直接の表現である芸術品を創ったり、そういう技術に熟達したりする場合、また正しく生きる術をえんとする場合には、そういう訳にはゆかぬ」(7ページ)
禅は体験的であり、科学は非体験的であるという。
言葉は禅の妨げとなる。言葉は代表するものであって、実体そのものでない、実体こそ、禅において最も高く評価されるものなのである。(8ページ)
大拙は、禅の予備知識からはじめて、禅と美術、禅と武士、禅と剣道、禅と儒教、禅と茶道、禅と俳句を論じている。
正直言って大拙の主張を十分理解できたかとは言い難い。自分にはまだ十分な読解力(リテラシー)がない。大拙の別の著作や茶の本などを読んでみたいと思った。お薦めです。
濫読日記風 2018
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