(コンピュータ)ゲームって、ゲームとしての面白さと、物語としての面白さと、リアリティとしての精緻さは重なり合うところもあるが、重なり合わない部分もある。
そういう目で艦これを眺めると、さしあたってゲームとしての面白さ・あるいは爽快な手触りみたいなものを重視した現路線がありがたいと感じる。一部のマゾい任務は(やりこみユーザー向けというのは重々承知しているとしても)マゾいけれども、あれはマゾい人がマゾくやりこめばいいのであって。
問題点の無いゲームというわけではない。けれども「ハレとしてのイベント」と「ケとしてのデイリー」を色分けしたキャンペーンゲーとしての面白さは今のまま大切にして欲しい*1。いただけなかったアニメ版も含めて、物語としての面白さをどうこう言う人もいるし、リアリティに対してあれこれ言う人や、史実文脈との関係であれこれ言う人も見かけるけれども、さしあたって艦これはゲームとしての面白さに主軸があり、キャラクターとその二次創作性が外骨格としてしっかり機能しているから、そこのところがブレなければとりあえずありがたがっておいてもいいのかな、と私なんかは思う。
ところで、「私の艦これ」、今の今になっても夢中になって続けているところがあって、嬉しいような、めんどっちいような、複雑な心境にならざるを得ない。『提督の決断』をやっていた経験上、連合艦隊モノはへたに手を出したら“たいへんなことになってしまう”と予め気づいていて、どこかで避けていたところがあったけれども、いざやってみれば予想通り、なんやかんや言いながら艦娘を育てる日々が続くことになってしまった。ゲームを面白がるのはゲーオタ的には適切なことだけれど、この歳の一個人としては、そのゲームに一身を捧げること、もはや限られた私的な時間を投入することに、一抹の躊躇いは感じる。
まして、己の精神的支柱であったシューティングゲームの技倆が徐々に低下している今、自分自身の動体視力性に賭けるところのないゲームにリソースを(多少なりとも)投入していることに、ちょっとした罪悪感のようなものは感じる。これならまだしも、パズドラでゼウス討伐でもやっていたほうが良かったのではないか?
しかし過ぎた時間にあれこれ言っても仕方ないし、今、動体視力性の高いゲームや操作精密性を問うゲームをあまりやらず、我が身がブラウザゲームに流れたのはそれなり道理にかなったものなのだろうと思うところもある。まさに↓これの話みたいなもので。
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いけないいけない。暁と響と電と雷は素晴らしいし、我が家の妙高は鬼神のごとく、我が家の瑞鶴と羽黒は不良品のごとしなので、ここで文句を言うのは罰当たりというもの。しっかり鎮守府の日常を営み、地獄の夏に備えよう。