日本原子力開発史前史
ウラン核分裂の発見と原子力開発の始まり
原子爆弾構想の現実化
原爆開発の進展
日本における原爆研究
参考資料

 

ウラン核分裂の発見と原子力開発の始まり

 原子力利用の歴史は一般に、1938年、ドイツのオットー・ハーンとリーゼ・マイトナーがウランの核分裂を発見したことに始まったとされる。その後しばらくして、ウランの核分裂反応によって放出される複数の中性子は、さらに他のウラン原子に当たって連鎖反応を引き起こすということも予想されるようになった。それを受けて早くも1939年3月にはイタリアからアメリカへ亡命していた物理学者のエンリコ・フェルミが米海軍代表との会議の場で「遅い中性子を利用すれば制御できる反応、速い中性子を使えば爆発性の反応が得られる」と発言していたらしい。「遅い中性子を利用した制御できる反応」とは原子炉での反応、「速い中性子を使った爆発性の反応」とは原子爆弾を示唆している。フェルミはドイツから亡命していたハンガリー生まれのユダヤ系物理学者L.シラードと共にこの年の7月には黒鉛を減速材とし天然ウランを燃やす原子炉の構想を立てていた。 
8月ローズヴェルト大統領に宛てて、原子爆弾の開発を進言した、有名な「アインシュタインの手紙」が送られるが、実際これはシラードが執筆した手紙にアインシュタインが説得されて署名したものだった。この中では天然ウランを使った爆弾と原子炉の構想が語られ、ウラン諮問委員会(後にウラン委員会に改組)の設置につながった。ただしこの段階では原爆の現実性については懐疑的で、むしろ天然ウランを使った黒鉛炉の研究の方に具体的な財政援助が行われた。核分裂を起こすウランの同位体ウラン235が天然ウラン中には約0.7パーセントしか含まれていないということが、天然ウラン原爆開発の技術的ネックになっていた。

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原子爆弾構想の現実化

 原子爆弾の開発が実現に向けて動き出す一つのきっかけはイギリスでウラン235を濃縮するアイデアが生まれたことだった。ドイツからイギリスに渡り、バーミンガム大学で天然ウランを使った原子爆弾の研究をしていたR.パイエルスは、同じバーミンガム大のフリッシュ(L.マイトナーの甥で、ドイツからイギリスに亡命)による、原子炉のためのウランを濃縮する研究を知り、二人は1940年2月、高純度のウラン235を用いた爆弾の構想を初めて提出した(「フリッシュ・パイエルス・メモ」)。これは広島型原爆(ウラン爆弾)の工学的理論の基礎を与えるものだった。このメモを受けてイギリス政府は原子力エネルギーの戦時利用の可能性を検討するための委員会を組織し、モード委員会と命名した。モード委員会はほぼアメリカのウラン委員会に相当する組織で、1941年7月に「フリッシュ・パイエルス・メモ」にあった核分裂の過大評価を訂正した上で、ウラン爆弾の臨界量を5.1-42.7kg、妥当な大きさを10kgとする最終報告を出した。
 一方、長崎型原爆(プルトニウム爆弾)の可能性についての最初のアイデアもイギリスで生まれていた。ケンブリッジ大学のフェザーとブレッチャーは、ウラン238が中性子を吸収してウラン239に変わった後、二回ベータ崩壊を繰り返すことによって生成する原子番号94番の新元素(プルトニウム239)はウラン235よりも大きい核分裂特性を持つだろうと予想し、このことをモード委員会に報告した。しかし当時イギリスにはプルトニウム試料を作るのに必要な強い中性子線を発生させるサイクロトロンのような装置がなかったため、イギリスの科学者たちはプルトニウムの核分裂特性を国内で実験的に確証することができなかった。結局プルトニウム爆弾についてはモード委員会の最終報告でもわずかに言及されたのみにとどまった。
 一方米国にはE.O.ローレンスが所長を務めるカリフォルニア大学放射線研究所に磁極面直径60インチの当時世界最大のサイクロトロンがあった。やはりプルトニウム239の原子核特性に興味を持っていたフェルミは1940年12月にローレンスらと会合を持ち、放射線研究所の60インチサイクロトロンを中性子線源としてプルトニウムを生成する実験が始められることになった。さらに、ウラン委員会委員長のL.J.ブリッグスもローレンスにプルトニウムの核分裂特性の研究を依頼した。ローレンスはウラン委員会に対しプルトニウムがウランと同様に核分裂特性をもつという実験結果を報告し、1941年7月の報告につけた付録「94番元素の核分裂に関する覚え書き」の中でプルトニウム爆弾の構想を示した。
 1941年の夏にモード報告の概要がイギリス側からアメリカへ伝えられると、アメリカの科学者の中に原爆が実現可能なものだという認識が急速に高まった。科学研究開発局局長V.ブッシュは10月9日にホワイトハウスでローズヴェルト大統領と会談し、モード報告の内容を伝える。この結果大統領は、原爆開発計画を本格的に発足させることを決定した。これが事実上原爆開発へのゴーサインであった。11月には全米科学アカデミーによるモード報告の再検討結果が出され、アメリカの科学者たちも初めて原爆の実現可能性について肯定的な判断を下した。

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原爆開発の進展

 1941年12月6日、科学研究開発局の会議で原爆開発の担当者に三人のノーベル賞受賞者、E.O.ローレンス、A. H.コンプトン、H.C.ユーリーが任命された。
 1942年2月にはプルトニウムの生産と爆発的核反応に関する基礎研究を行うため、シカゴ大学にコンプトンを所長として暗号名冶金研究所が開設される。実験用黒鉛炉のウラン・パイルで4月には世界で初めて核分裂連鎖実現の実験的確証を得る。6月陸軍省技術本部内にマンハッタン管区が設置され、プルトニウム生産計画が陸軍に移管される。これが『マンハッタン計画』の名称の起源で、これ以後濃縮ウラン計画も含めた原爆開発計画全体が陸軍に掌握されるようになった。
 1943年3月には精製されたウラン235とプルトニウム239を用いた爆弾の開発を目的としてロスアラモス研究所が設立される。点火方法として当初は主として砲撃法が考えられていた。しかし1944年夏、原子炉で作られたプルトニウムに含まれるプルトニウム240の自発核分裂現象が発見され、点火前に核分裂連鎖反応が始まってしまう可能性が大きいことが発見された(「真夏の危機」)。この結果、プルトニウムの点火方法として爆縮法が急浮上することになる。爆縮法とは臨界量以下の核分裂性物質を、球面上に収縮していく衝撃波によって中心部に圧縮して臨界に到達させるという方法で、爆薬による衝撃波を極めて高度に制御する必要があった。この衝撃波の理論的研究はJ.L.フォン・ノイマンが行ったが、この時必要だった膨大な数値計算が有名なノイマン型コンピュータ開発の動機となったと言われている。7月16日アラモゴルド砂漠で行われたプルトニウム爆弾による人類史上初の核実験、「トリニティ実験」の主たる目的は爆縮装置のテストが本来の目的であった。
 一方、原爆が完成に近づくと開発の主導権は科学者から技術者の手に移り、時間に余裕のできた科学者たちは原爆の持つ社会的、倫理的意味や、原爆完成後の世界について懸念し始めるようになった。1945年6月11日、冶金研究所で組織された『原子爆弾の社会的政治的意味を検討する委員会』による報告(「フランク報告」)や、それに続いてシラードが大統領に宛てて出した請願文書では原子爆弾の対日無警告投下には反対すべきであり、「日本が降伏勧告に従わない場合は示威実験をすべき」という意見が表明されていた。しかし計画の指導者達により組織された暫定委員会はこれらの請願を無視あるいは封殺する一方で、「軽率で忠誠心の定かでない」科学者たちは計画終了とともに切り離すという方針を決定していた。

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日本における原爆研究

 日本においては、1941年4月に陸軍航空技術研究所所長の安田武雄中将が、理化学研究所に原爆製造に関する研究を依頼したことで、原爆開発がスタートする。理研には当時日本初のサイクロトロン(磁極直径26インチ)が設置されており、日本の原子核物理学の実験研究の中心地であった。原爆研究は当時日本の指導的物理学者であり、朝永振一郎らを育てた仁科芳雄が担当した。
 仁科はそれから2年後の1943年1月に報告書を提出し、彼はこの中で原爆製造は可能であり、ウラン235を熱拡散法で濃縮するのが最良であると結論付けていた。こうして日本版の原爆開発計画である「二号研究」が開始された。この研究に見られる顕著な特徴の一つはプルトニウムを利用するという観点が欠如していたことである。理研にはプルトニウム試料を作ることができるサイクロトロンが備えられていたが、それを用いて94番目の元素を生成するということは試みられなかったらしい。
 6フッ化ウランによるウラン濃縮実験は1944年7月より開始されたが、実験装置のウラン分離筒に6フッ化ウランによって腐食されやすい銅を使うなど設計上のミスもあり、1945年3月に得られたサンプルを分析した結果はっきりした濃縮の効果を見られず、計画は失敗した。
 一方戦時中の日本では、陸軍の『ニ号研究』とは別に、海軍の方でも「F研究」という原爆研究が進められていた。こちらは京都帝国大学の荒勝文策教授を中心とするグループが行っており、中間子論の提唱者の湯川秀樹も参加していた。こちらの研究も原爆の材料には濃縮ウランのみを選択し、濃縮方法には遠心分離法を採用していたが、実験装置は設計段階で敗戦を迎えた。
       

                    

参考資料

著書
「原爆はこうして開発された」 山崎 正勝・日野川 静枝 編著 青木書店 1990年
「原子力の社会史」吉岡斉著 朝日選書 1999年.
「幻の原爆開発」1-6 泊次郎著 朝日新聞 1995年8月21日-10月2日.

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