本ブログを書き始めたころ、伯父がテニアン島で戦死したことは疑っていなかった。子供のころ祖父母や両親からそう聞いていたし、2016年になって静岡県庁から取り寄せた軍歴証明書にもテニヤンで戦死と明記されている。
このため最初にマリアナ諸島から始めた拙ブログの序盤は、右下の「テーマ」(ジャンル)でいうと、②マリアナ諸島【第一部】になるが、当然テニアンの戦いが中心になっており、サイパンとグアムについては、当時の記事も手持ちの資料も少ない。
このたびの【第二部】においては、サイパンと同様、グアムについても補強したい。ただしグアムは、第一次世界大戦後から委任統治領だったサイパン・テニアン・ロタなどと異なり、昭和十六年(1941年)の対米戦開始後に占領した。
このため日本の統治下にあった年数は短い。グアムの戦いに関する資料は、かつては拙宅に戦史叢書しかなく(初めて買った「第006巻 中部太平洋陸軍作戦<1>マリアナ玉砕まで」)、しかもグアムについては余り読んでいなかったが、今は追加の情報もあるので併せて記録に残そう。
三十代から四十代にかけて、グアムには確か二回か三回、職場の夏季休暇を利用して観光旅行に出かけた。最初に行ったときに遊んだビーチは、次に行ったとき外国人立入禁止になっていた(現状は知らない)。
グアムには、米軍が日本軍から島を奪い返した昭和十九年(1944年)に、ノース・フィールドという名の基地が置かれ、後にアンダーセン空軍基地と改名された。この基地に付属するビーチに、かつては手続きをすれば入ることができた。珊瑚の海にゴマモンガラが泳いでいたのを覚えている。
ところが次に行ったときは、ホテルに訊くともう民間人は入れないという。理由は明確で、同時多発テロ以降、警戒厳重になってしまったのだ。ちなみに2001年に起きたあの事件は日本ではテロ扱いだが、米語では”September 11 attacks”という。
すなわち、”Pearl Harbor attack"と同類の表現になっている。日本軍はあのとき民間の施設を狙い撃ちにしていない。他方で、意図的に民間人を巻き込んだアルカイダと同様、艦砲射撃や都市空襲や原子爆弾で我が国を蹂躙した米国からそういう扱いを受ける筋合いはない。
その事件の少し後に中米へ業務出張に出かけたとき、途中ロサンゼルスで一泊した。かつては素通りに近かったLAの空港の通関も厳しくなっていて、東アジア風の顔面と名札を付けた通関職員の傲慢な若い男が、私のパスポートや入国書類に、際限なく、いちゃもんを付けて来た。
こちらも負けずに反論したり無視したりしていたら、後ろに長蛇の列ができてしまい押し問答は打ち切られたが、手の指10本全部の指紋を取られたうえで関所を抜けた。国際指名手配されたら、きっと捕まる。おかげで悪いことはできなくなった。
ウミネコのように傲慢であった。
落ち着こう。足掛け5年、日本の領地であったグアムは、一時期、観光名所になって私ですら行けるほどに便利で安価な旅行先だったが、今はどうなっているのだろう。ニュースでは時おり米海兵隊の移転についての話題が出てくる。
防衛庁・自衛隊のサイトにある「グアム移転」の記事をご案内。アンダーセン空軍基地の項目もある。それにしても、日本はなぜこんな多額の出資をしているのか。アジア方面に喧嘩を売るための出城なのだが。
https://www.mod.go.jp/j/approach/zaibeigun/saco/iten_guam/index.html
次回からは、まず戦史叢書で外観をみる。そのあと手元にある資料三点。いずれも個人の回想記で、現地に当時いた人たちの記録を読む。大まかにいうとグアムの地勢はサイパンと南北が逆。北側が平坦で空軍基地も北部にあり、南側に山や丘がある。
マリアナ諸島は日本の冬が乾季、夏が雨季。いつか夏休みに一週間、家族旅行でグアムに行ったが、二つの台風がずっと上空に居座り、全く海に入れなかった。アメリカの準州で、米国の商品をいろいろ買えるため買い物は楽しい。チャモロ人の土地だ。
(おわり)
上野寛永寺根本中堂にある紅白の梅 (2025年2月23日撮影)
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