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石井裕の“デジタルの感触” 第28回

石井裕の“デジタルの感触”

テレビの未来

2008年01月26日 14時37分更新

文● 石井裕(MITメディア・ラボ教授)

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テレビが内包するボトルネック


 私の家にはテレビがない。

SONY KV-1310

Television in the 60s (SONY KV-1310)

 そのことを特別に誇りに思ったり、あるいは恥ずかしいと思ったことは今までなかったが、普通の人から見るととても奇異に映るらしい。テレビを持たない理由は、単純にその必要性を強く感じないからである。

 刻々と変化する世界の情報は、インターネットから愛機PowerBook G4を通して入って来る。コンピューターは、ネット上の複数の情報ソースへの同時並行アクセスを、スムーズにサポートしてくれる。

 サーチエンジンとマルチウィンドウ、ウェブブラウザーのタブ機能(FirefoxやSafariで「command」+「T」キーを押すだけ!)やブックマークを駆使することで、情報収集と分析、加工編集のスピードにおいて、コンピューターはテレビを大きく引き離す。積極的に情報を追い求めるユーザーにとっては、コンピューターが可能にする情報への「ランダムアクセス」と「サーチエンジン」が強い味方になる。

 一方、一度にひとつのチャンネルに縛られ、時間軸に沿ってシーケンシャルにしかアクセスできないテレビは、かつての磁気テープ装置と同じような、本質的な効率のボトルネックを内包している。もちろん、受動的に番組を視聴し、時間を消費することをよしとするユーザーにとっては、これ以上はない適切なメディアだと言えよう。しかし残念ながら、私の場合、漫然とテレビを眺めながら費やせる時間は皆無である。



放送型メディアの低すぎるS/N比


 さらに、コンテンツの質の問題がある。

 良質なニュース番組やドキュメンタリーなどがあることに異論はないが、その半面、公共の電波を使って放送する意義を問いたくなるような娯楽番組も多く、結果的に私にとってテレビのS/N(信号/ノイズ比)は低すぎる。

 確かにテレビは広く一般大衆を相手にしなければならない宿命から、番組も質の格差を含めて多様なものを提供せざるを得ないのだろうが、最大公約数的「大衆」というマーケットが消失しつつある現在、放送型メディアは、どのようにしてユーザーひとりひとりの個別要求に応じることができるのだろうか。

 コンピューターとネットワークの組み合わせは、まさに「オン・デマンド」のために生まれて来たメディアであり、目的を持って積極的に情報を探すユーザーに適したメディアなのである。現在の公共放送型のテレビがこれに太刀打ちできないのも仕方がない。

 出張中に、一日の仕事を終えてホテルに戻り、部屋で何気なくテレビのスイッチを入れる。その結果しょうもない番組をダラダラと眺めてしまい、貴重な時間を無駄にした自分に激しく落ち込むこともかつては多かった。

 従って最近は自分自身を律して、BGM的にCNNやBBCの放送をボリュームを抑えて流すだけの利用法にとどめている。あとはひたすら、ホテルの机の上に広げたPowerBook G4を通して世界に接続している。

 何となくテレビの娯楽番組を眺めながら一日の疲れをいやすという生活は、私にとっては幻想に過ぎない。


(次ページに続く)

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