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インタビュー
double-techou.hatenablog.com
2016年7月26日未明、神奈川県相模原市の障害者入所施設やまゆり園で連続殺傷事件が発生。19人の命が奪われた。 本稿では問題を1点に絞る。施設・家族会・県・警察・検察・地裁・報道機関等のアクターのいずれからも犠牲者の氏名が明かされなかった結果、6年経った今もなお十数名の方々が匿名であり続けていることだ(以後、これを「匿名化」と表記する)。 施設の是非や地域生活の課題等、容易に正解の出ない複雑な問題は扱わない。障害当事者ご本人と周囲の方々が日々理想と現実の狭間で格闘しておられることと拝察する。ここではそのことに対して率直に敬意を表すにとどめたい。 以下、私は匿名化の話しかしない。 【不明瞭な経緯】 なぜ障害者は命だけでなく生前の名前をも奪われねばならないのか。生を否定され尊厳を剥奪されて当然の存在なのか。一体誰がどんな理由で匿名化を決めたのだろう。 私は一障害者としてそれを知りたい一心で本
各々の哲学者に主張の中身とは別に自問してほしいことがある。人生の意味や存在の良し悪しについて哲学的に議論する際、不幸・苦痛・害悪等の顕著な例として、障害をあまりに引き合いに出し過ぎてはいないだろうか。 前記事で言及した森岡氏の著書*1にも「たとえば、重い病気や障害を例にとって考えれば、」*2のように「重い病気や障害」という定型句が繰り返し登場する。これはベネターや森岡氏に限らず多くの哲学者に言える。その頻度の高さから察するに深い考えがあってのこととは思えない。むしろパッと思い付く不幸の代名詞、苦痛や害悪のワイルドカードのように認識されている感じがする。 もしよく知らないままにそうした理由で濫用しているのだとすれば、現に重い障害を生きる私にとってはおもしろくない。障害者が社会や創作物に理由なく登場することは私が常々願っていることだ。しかし障害という属性が抽象的な形で幸不幸の議論に重宝されるの
「ここじゃ生きられない けどここが好き 好きって分かった うれしい」*1 本稿ではべネターの反出生主義*2に私なりに向き合ってみたい。 誰にとっても、この世に生を受けることは、生まれてこないことよりも必ず悪い。生まれてくることは常に害悪であるーー そう主張する彼の本は、人生に悲観的な私にとっては極めて魅力的な思想に映った。彼の思想は障害者差別や優生思想ではない形で、私の辛さを説明し受け止めてくれるように思えたからだ。 しかし次第に疑問が頭をもたげてきた。ベネターが倫理的な問題を説こうが何を言おうが、人々はお構いなしにどんどんと生殖を行う。物理的に可能で、禁止されておらず、やりたいことであれば、人はそれをやるだろう。別に第三者の許可など微塵も必要としてなかろう。現にできるのだ。それにどう対応していくのかについて、私は現実的な筋道を聞いた例が無い。物理的な手段であれ法律を通じてであれ、理想を実
西梅田こころとからだのクリニックへの放火事件で亡くなられた26名の方々に哀悼の意を表します。 ※※※※ 事件後は喜び・希望・価値観を悉く見失い、ずっと見知らぬ世界にいる感じだ。だがその間も容赦なく時は経ち、昨日で早くも百箇日となった。 もちろん忌日は単なる仮初めの数字かもしれない。本当の意味での心の区切りは、今後も到底付けられないだろう。 それでもどこかを節目にするしかないのだとすれば、私もこの機会に今一度、現実を受け止め、言葉をまとめてみようと思った。 ※※※※ 私は長らくネット、ラジオ、テレビ、新聞、その他一切に耳目を閉ざしていた。事件の話が出てくるかもと思うだけで激しい吐き気や動悸に襲われるからだ。この時期は事件自体の衝撃に打ちのめされていたように思う。 それが徐々に収まると「自分はこの事件でどう傷ついたのか」「今後そこからどう回復し生きていくのか」が問題の中心となってきた。勿論それ
本稿は、私がある哲学者に宛てたメールを和訳・要約・加筆修正したものである。 "The accelerationist left"(左派加速主義者)には、テクノロジーが持つ力を高く評価する楽観的な側面と、「なればこそ、それがより良い作用をもたらすようにコントロールしつつ使わねばならない」という慎重な側面があるように思う。 今回のメールは前者の側面に比重を置いた内容である。しかし、その後私の中で「NIPT(新型出生前診断)の急速かつ無秩序な広がりによる『命の選別』」への懸念が高まってきた(下記ツイート参照)。従って、今は後者の側面についても、この時よりも真剣に考えるようになったことを予め付記しておく。 新型出生前診断自体を悪と断じる気は無いですが、障害者本人が指針策定やWG等の会議体に殆ど委員として参加できないまま、非認定施設による無秩序な検査がなし崩し的に広がる現状には憤りを覚えます。 昨日
人の、および市民の権利宣言 第1条 人は自由で、権利において平等なものとして生まれて生きつづける。社会的に区別できるのは、共同の利益にもとづいてのみである。 第6条 (前略)およそ、市民は、法律の目には平等であるのだから、その能力にしたがい、その徳性と才能以外の区別をすることなく、等しく、あらゆる公的な高位、地位、職位への資格がある。*1 一、われらは、健全者文明を否定する。(日本脳性マヒ者協会青い芝の会『綱領』) ーーどうやって? 【目次】 【目次】 【本稿の目的】 【まえがき】 【『障害者』の本稿での定義】 【「能力」と『障害者』の関係】 【「能力」批判と「能力主義」批判の違い】 【静的な多様性(「能力」のものさしの上限)】 【動的なカオス(「能力」のものさしの経時的流動性)】 【「能力」のものさしと民主主義の前提条件】 【「能力」を攪拌する方法(理論編)】 ①ものさしの角度をめちゃく
令和は純愛の時代である。 アニメ映画『ジョゼと虎と魚たち』のレビューを文春オンラインに書かせていただいた。 bunshun.jp youtu.be 本稿は上記記事を補足する内容であり、本作及び『ジョゼ』の他のバージョンのネタバレを含む。 ◆執筆過程 思えばこの2ヶ月近く、さながらフランソワーズ・サガンの小説に登場するベルナールのように、朝から晩までジョゼのことを考えていた。漫画版、雑誌版、実写、原作、そして原作で言及されているサガンの恋愛小説三部作… これらを穴が開くほど何回も見て、アニメの試写会にも2回参加して内容を確認し、友人の婚活体験も聞き取り、ひたすら愛について考え続けた。そもそも愛とは何だろうか? 人を好きになるとはどういうことなのか? だがやはり自分が殆ど経験していないことを考えるのは大変だった。あまりに煮詰まり過ぎて「ヘルパーさんにコンドームを買ってきてもらって、その写真を記
いつもお世話になります。 下記の通り文春オンラインに乙武洋匡氏へのインタビュー記事を掲載させていただきました。今回は今まで以上に手応えがあります。どうかお読みください。お願いします。 #1(前編) bunshun.jp #2(中編) bunshun.jp #3(後編) bunshun.jp 乙武氏の発言や当日の取材の様子などは記事本編に全て譲ります。ここでは、本編に書く性質のものではない、あくまで私のごくごく個人的な感慨や考察などを補足させてください。 乙武氏の資料にあたる中で感じたことなど 多くの障害者がおそらくそうであるように、私も長年「乙武さん」について冷静に語ることはできませんでした。このブログで今まで一度も言及してこなかったのもそのためです。言いたいことはあるが、うまく形にならない。彼は画面の中に居て手が届かない。あまりにも大きくて遠い存在。 ところが、取材前の調査で改めて彼の著
トークテーマ「神×サークラ×非モテ 当事者研究はどこへゆく」 11月24日(日)10:00~11:30 於:京都大学文学部新棟第1演習室 D:ダブル手帳(神様同好会) N:西井開(ぼくらの非モテ研究会) H:ホリィ・セン(サークルクラッシュ同好会) Y:雪原まりも(司会者) D 私、ダブル手帳という名前でツイッターとか、ブログをやってるライターです。 文春オンライン様にも時々書かせていただいてるので、お名前を知っていただいてる方がいらっしゃるかもしれないです。 神様同好会をなぜ作ったかっていうことは、この配布資料(※本稿末尾に記載)の「教団の目的」っていうところに書いてあります。 自分もそうだし周りも自己肯定っていうのができてないっていうことがあって、自己の生を肯定できるようになるにはどういう風にしたら良いか考えるようになりました。 いろんなアプローチがあると思うんですけども、私は宗教って
文春オンライン様に記事を書かせていただきました。 bunshun.jp 執筆依頼を下さった文春オンライン様はもちろんのこと、こんな未熟者をライターとしてのオファーが来るまでに育てて下さったこのブログの読者の方々には感謝しかありません。今回のことは皆様のおかげです。本当にありがとうございます。 以下、紙幅の都合で記事に書ききれなかった点を若干補足させて頂きたいと思います。今回の参院選で重度障害者の方が議席を得たことにより、以下の二点のような波及効果も考えられると思います。 第一に、合理的配慮の解釈の範囲が拡大されることです。彼らには国会内で前例のない様々なサポートが必要になります。彼らがそれらを要求した時、それがいかにコストがかかるものであったとしても、議員としての活動を成り立たせるために必要であれば受け入れざるを得ません。彼らの議席数がいかに少なくとも、正論を正面切って否定することは絶対に
2018-09-21 アニメの中の障害者キャラクター アニメ 身体障害 趣味 私は重度障害者のアニオタだが、もっと障害者がアニメに何の理由もなく出てくるようになってほしい。そこで、本記事ではアニメにおける障害者キャラの取り扱いについて考察する。 まず、日本のアニメに出てくる障害者のうち、殆どは後天性の障害者である。何… 2024-10-18 ここ2年の状況と今後のアウトプットなど このブログについて アイデンティティ 夢 趣味 身体障害 大変ご無沙汰しております。今日はタイトルにある2つの件につきご報告したく存じます。 ①ここ2年の状況 だいたい2年前に小説のオンラインクラスに通いました。ノンフィクションでは表現できないことが表現できると思ったからです。実際アイデアやプロット… 2024-02-25 NIPTを知らない子供たち 替え歌 激情噴出 障害者 NIPTが終って僕等は生まれた NI
この記事は、2018年11月の京都大学NF祭で販売された「サークルクラッシュ同好会会誌7号」に寄稿した文章と基本的に同内容である。 本稿では、私が大学時代に「ぼっち」を支援する活動を行った経験について述べる。加えて、サークルクラッシュ同好会(以下サークラ)との比較を通じて、サークラの優位性を明らかにする。 「ぼっちの会」設立までの個人的経緯 大学入学当初の私はやる気に満ち溢れていた。大学で人脈を作りまくって脱オタしてリア充になるぞ。そこで参加できそうなありとあらゆる集まりに参加した。ところが対人経験の乏しい私はどの集団にも全く馴染めなかった。そもそも、集団では自分がいつ発言して良いのかすら分からなかった。自分が発言することによって会話の流れを止めてしまうことが怖くて、ただ曖昧な笑顔を浮かべて頷いているうちに終わってしまう。周りの人達も何となく私のことを扱いかねている感じがして、いつも消えて
本稿では、障害者を「感動ポルノ」として消費することへの批判、及びそれに対する反論について検討したい。 「感動ポルノ」とは何か まずはじめに、「感動ポルノ」とは何だろうか。現在ではその定義も拡散しているが、本稿ではこの言葉が人口に膾炙するきっかけとなった下記のスピーチに準拠したい。 www.ted.com ステラ・ヤング氏は感動ポルノを「障害者をモノ扱いし、健常者が感動したりやる気を起こしたりするために利用すること」と定義する。そして「障害者が特別視されるのではなく真の成果で評価される世界」を望む。 私の見解 結論から先に言うと、このスピーチに対する私の意見は「基本的に賛同できないが、一部もっともな部分もある」というものである。その理由を下記に列挙したい。 第一に、他者が自分をどのように消費するかは他者の問題であって、自分ではコントロールできないし、すべきでもないし、する必要も無いからだ。そ
一時期政治家を目指していたこともあり、大学在学時に二カ月ほどとある若手政治家(以下A先生)のインターンシップに参加した。全く知らない世界で色々と面白かったのでその時の体験を書いていきたい。 A先生の人物像 自民党所属の若手都道府県議会議員。イケメン、イケボ。演説では舞台俳優のような貫禄がある。 家族に政治家はおらず、正義の味方になりたいという理由で中学の時から政治家を志したマジモンの人。 高齢世代から若者・子ども世代への社会保障の再分配を主張。いわゆる財政再建派。 とても良い人で、私の車椅子をいつも事務所まで担いでくれた。 誰に対しても温厚に接し笑顔で話を聞くが、相手が帰った瞬間に「話が長え」と吐き捨てる二面性も持つ。それくらい切り替えが早くないと政治家にはなれないということだろう。 高邁な理想を持ち、利他心と自己犠牲精神に溢れた好人物。ただ、私が「アニメが好きです」と言ったら「声優抱きて
私は身体障害と発達障害の両方を持っているが、身体障害者及びその周辺と発達障害者及びその周辺を比べた時、「障害の社会モデル」の考え方の浸透具合が全く違うことに驚かされる。 身体障害者やその周辺(支援者・介護者・行政・医療関係者など)では、「障害の社会モデル」は現時点で広く共有されている。当事者団体の中では「障害は社会の側にある」という考え方は常識であり、周辺の健常者も殆どがそれを受け入れている。従って、障害を個人の側に帰し、身体障害者本人の意に反してリハビリや治療等の「自助努力」を強制されるようなことは殆ど無いと言っていい。それよりもむしろ「うまく人の手を借りながら自分らしく自己決定していく」「依存先を増やすことで生活の安定を図る」ことの方が推奨されている。 それに対して発達障害の場合は、「障害の社会モデル」は驚くほど浸透していない。「発達障害者はまず甘えを捨て、医療機関による適切な治療・訓
障害者の生活とヘルパーさんは切っても切れない関係にある。私はかれこれ数年間、毎日3時間以上ヘルパーさんのお世話になってきた。そこで本記事では、介護を受ける障害者から見たヘルパー、居宅介護事業所、居宅介護業界について書いていきたい。 なお、本記事はあくまで私の個人的な経験に基づくものに過ぎず、過度に一般化したりヘルパーの方々や介護事業所を貶めたりする意図は全く無いことを予め断っておく。 ヘルパーと障害者の関係 「障害者にとってヘルパーとはどういう存在か」と問われると難しい。長い時間を共に過ごし、身の回りの世話をして生活を支えてくれるという側面に着目すれば、家族のようなものとも言える。一方で、そんな綺麗な言葉で片付けられない面があるのも紛れも無い事実である。それは、障害者とヘルパーの利害が根本的に食い違っているからだ。障害者が丁寧な介護、柔軟なサービス時間変更を求めれば求めるほど、ヘルパーの負
発達障害者にはありがちなことと思うが、私は社交辞令とそうでないものを見分けるのが昔から大の苦手だった。相手の言葉が単なる社交辞令なのか、本心から発せられた言葉なのか、全く分からない。普通の人は相手の言葉の抑揚や身振り、状況などから直観的に判断できるのだろうが、私にはいくら考えても分からない。社交辞令を真に受けた結果傷付くこともたくさんあった。 私はその反動で相手の発言を極度に疑ってかかるようになった。この発言は社交辞令なのではないか? そうに違いない。だからそれを真に受けて舞い上がるようなことがあってはならない。相手の言葉の裏を読み、適切な距離感を保ち、抑制的に振る舞わなければならない… しかしこのように疑心暗鬼が行き過ぎると今度は全く友達ができない。相手からの好意的なアプローチも全て社交辞令として処理してしまうからである。 ではどうすれば良いのか? 私が悩んだ末に見つけ出した解は「社交辞
嫌いだった奴が落ちぶれている様をSNSで確認するのが好きだった。 私はTwitterを立ち上げ、「監視用」と名付けられた非公開リストを開く。そこには嫌いだった奴らのアカウントがぎっちりと詰め込まれている。私のことを散々見下し、コケにしてきた奴ら。特別なITスキルを持たなくとも、情報の断片からいくらでもアカウントは特定できる。あとはフォローフォロワーを辿れば芋づる式である。Twitterには負の感情がそのまま書き込まれている。それが私をハイにさせる。就活で失敗し続け自暴自棄になっている者。友達を全て失い、ひたすら学歴自慢だけをしている者。ネトウヨになってbotみたいな呟きしかできなくなった者。大口を叩いて人を見下しておきながら会社で精神を病んでしまった者。おいおい、てめえらなんだその様は。昔は散々こっちのことを馬鹿にしてくれたよなあ。舐めやがってよ。その結果がこれか?本当にしょうもねえなお前
ここ十数年、アニメは文化のメインストリームにいる。にも関わらず、アニメ業界が儲かっているという話を聞いたことがない。私の考える理由はシンプルである。つまり、アニメは公共財であるにも関わらず、そのように認識されていないからである。 まず、公共財の定義を確認しておきたい。 公共財 - Wikipedia ここから引用すると、公共財とは、「 非競合性あるいは非排除性の少なくとも一方を有する財として定義される」。「競合性とは、消費者(利用者)たちによるその財の消費が増えるにつれ、追加的な費用なしでは、次第に財の便益(質・量など)が保たれない性質を指す」。「排除性とは、対価を支払わず財を消費しようとする行為を実際に排除可能な性質を指す。この場合市場では、価格付けされた財が対価の支払いを条件として販売される」。非競合性、非排除性というのは競合性、排除性を満たさない状態である。公共財については市場原理が
本題に入る前に、先に私のスペックを書いておきます。私は脳性麻痺で身体1級の重度障害者です。脳性麻痺のため、歩くことも、支え無しで立つこともできません。常に電動車いすで移動します。上半身にも麻痺があるため、背筋は湾曲し、右手も自由になりません。就活時は関西の大学の文系学部に在籍していました。 このような私が、民間企業の就職活動をしてみた感想を以下に書きたいと思います。なお、公務員試験については別の機会に譲ります。 ・健常者枠(一般枠)では相手にもされない。 初めの数社は健常者枠にも普通に応募したり、インターンや説明会などにも参加したのですが、これは全くの無駄でした。露骨に嫌な顔をされたり、無視されたり、そこまでいかなくてもそれとなく辞退を勧めてくるのが常でした。これは考えてみれば当たり前で、企業としては健常者枠で障害者を雇う理由が全く無いですし、雇うつもりのない人間に一秒でも時間を割きたくな
この記事では、関西の大学から国家公務員総合職試験に合格し官庁訪問で全落ちした私が、官庁訪問のことを中心に採用プロセスで印象に残った諸々を書いていきます。 まず、国家総合職試験や官庁訪問のあらましについては総合職試験採用情報|国家公務員試験採用情報NAVIをご覧ください。私が国家総合職(以下、官僚)を目指していたのは数年前なので体験談と現行制度に食い違いが生じるかもしれませんがご了承下さい。また、本記事は伝聞情報を多く含みますが、その正確性は保証いたしかねます。本記事を参考にされた結果生じたあらゆる事象に対して一切責任は負いかねますのでご了承下さい。 官庁訪問前 1.大学歴編 2.京僚会 3.内定者の実像 官庁訪問 独特の熱気 官庁の序列 控室 面接のシステム 色々な人々 不採用の瞬間 出口面接 職員と会食 採否を分けるもの 後から思ったこと 千里眼の持ち主 原課面接を行う職員のやる気 官庁
私はVtuberが大好きである。ときのそら、富士葵、もちひよこ、ねこます、芙容セツ子、輝夜月、スズキセシル、つのはねあかぎ…(敬称略) 好きなVtuberの方々は他にも数え切れないほどいるが、私が最も感銘を受けた動画はこれである。 誰もがなりたい自分になれる時代 / バーチャルとファッション【neralの難しくない話】#002 淡々とした語り口でありながら、聴く者の心を激しく高揚させる。天才的イデオローグとしか言いようがない。 詳しくは是非neral氏の動画をご覧頂きたいのだが、私が感動したのは「生まれ持つ体は選べないのに、それを”ありのままの自分”として愛せるべきだって考え方も疑問だなって」「選ぶことのできない生まれ持った体を愛せなくてもそれは悪じゃないはずです」「むしろ、自分の意思が何ら反映されていないものの責任を取らされて、生涯有利になったり不利になったりしていることのほうが理不尽な
本記事では、障害者雇用率水増し問題に関して私が各所に働きかけた結果をまとめておこうと思う。何か世の中に異議申立てしたいという人の参考になれば嬉しい。 はじめにこの問題についての私の主な主張を再度まとめておく。 私は、官庁訪問を経験した障害者として、 水増し期間中に官庁訪問した全ての障害者に対し、再度官庁訪問の機会を与えるべき。 不足が明らかになった約3400人分の障害者を今後雇用する際、可能な限りプロパーの職員として政策立案に携わらせるべき 国家公務員採用において障害者枠を創設すべき の3点を主張した。詳しくは下記エントリを参照頂きたい。 double-techou.hatenablog.com 私にはコネも何も無いので、影響力のありそうなところに片っ端から自分の主張をメールで送った。その結果を下にまとめる。 ①マスコミ 朝日新聞 一番親切だった。すぐに電話取材があり、結果として8月28日
私は重度障害者のアニオタだが、もっと障害者がアニメに何の理由もなく出てくるようになってほしい。そこで、本記事ではアニメにおける障害者キャラの取り扱いについて考察する。 まず、日本のアニメに出てくる障害者のうち、殆どは後天性の障害者である。何かの事故で、あるいは事件や戦いの中で傷を負い、障害者となるパターンが圧倒的に多い(コードギアスのナナリーなど)。このパターンだと、障害を持っている理由を簡単に説明できるうえ、過去のトラウマ・因縁との対決という図式で話も作りやすい。つまり対決すべき暗い過去としての障害である。 稀に先天性の障害者が出てくることもある。だがそういう場合、大抵は障害と引き換えに超人的な能力を持っている(例:盲目だが敵の気配を全て察知する剣士など)。いわゆる強キャラポジションである。この場合、障害はキャラの強さに対する箔付けや、キャラの能力をピーキーにするための理由付けとして用い
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