たった一冊の「ネタ本」を頼りに、Twitterでその道の専門家に「論戦」を挑む。おそらくは「インターネットで真実に目覚める」ことが可能になり、またSNSの登場によって「論戦」を吹っ掛ける環境が整った2000年代後半以降の文化だと思われるが、そうした「歴史戦」に挑む人は後を絶たない。
どうして人は、そうした「クソリプ」みたいなことをしたくなるのか。
世の中全体の風潮として、学問の軽視というものがおそらくあるだろう。その上で、「朝日・岩波的なもの」への忌避感みたいなものもずっとあるだろうし、本書で著者らが言うように、歴史学が積み上げた定説を相対化することによって、「ポリコレ」の説教臭さに抵抗した気にもなれるのだろう。
そうした「教科書に書いていない(のに、なぜかインターネットには書いてある)真実」への目覚め、というのは、個人的には今さら干渉不可能な「信仰」に近いものだと思っているが、本書は、徒労に近い困難さを自覚しつつも、そのような「言論」状況に対するカウンターとして書かれている。
田野先生のTwitterをフォローしている人には今さら概要説明など不要だろうが、タイトルのとおり、「ナチスは良いこともしたのだ」という主張に対するカウンターである。そうした状況そのものへの言及も含む本書は、ナチスの概説書であると同時に、現代のインターネット空間における「逆張り」欲がどこから来ているのか、についての考察でもあるわけだ。
ブックレットとは言え、それで一冊の本が書かれるというのはよほどの事態だと思うが、では、実際にどのような「主張」がなされているのか?
それがそのまま本書の構成になっているのだが、総じて言えば、「ナチスは世界を変えるようなオリジナルで先進的な政策を数多く打ち出したが、その後の戦争やホロコーストのイメージが悪すぎて、歴史的に正しく評価されていない(ので、俺たちがポリコレ寄りの歴史学者に代わって正しく再評価してやるぜ!)」というのがざっくりしたイメージである。
なるほど、あの悪名高いナチスのしたことにも「良いこと」があったのだと証明できれば、何かすごいことをしたような気持ちになれそうだ。
では、実際のところはどうなのか。
本書では3つの視点から検証(ファクトチェック)がなされている。1、その政策がナチスオリジナルだったのか。2、その政策がどのような目的を持っていたのか。3、その政策が実際に肯定的な結果を生んだのか、である。
1は、素朴に考えればそれ自体が必ずしも「良い/悪い」の価値判断には影響しないように思えるが、先述のように、この歴史戦においては「オリジナルであること」にも価値が置かれているので、そこはひとまず「相手の土俵」に乗ってみるわけだ。
その上で、2では、その政策を部分的に取り出したり、特定の角度からのみ眺めたりすると一見「良い」と思えるようなものでも、歴史的な文脈を踏まえれば、実は「悪い」目的によって推進されていたんじゃないの、ということを厳しく検討する。
さらには3で、「で、結局、2の表向きの目的は達成されたの?」という具体的な成果を客観的に見ていく。
まずは大きなところを先に言ってしまおう。ナチ体制においては、何といっても「民族共同体」というのが重要なキーワードになっていたという。人種差別や優生思想に基づく「包摂と排除のダイナミクス」が強烈に作用していたのである。
要は、勤勉な「普通の」ドイツ人は徹底的に優遇し、ユダヤ人はもちろんのこと、共産主義者や障がい者などは「共同体の敵」と見なされ、徹底的に排除されたのだ。
経済政策やこども家庭政策、環境保護政策など、どのようなテーマであろうと、前者にだけ着目すれば、その限りにおいて「良いこと」は発見しうる。ただし、それは後者の排除、より直接的に言えば「最終的解決」という名の虐殺があって初めて成り立つ論理なのだ。
誇大な陰謀論を打ち出し、ユダヤ人を「黒幕」として描くことで、第一次世界大戦の敗北と戦後処理に苦しむドイツ人に「民族共同体」の必要性を説き、「生存圏拡大」の夢を見させた。しかも、映画『関心領域』が描いたように、「ナチ体制下のユダヤ人迫害に際しては、人びとが様々な『利益』を得ることができた」のである。
それを本当に「良いこと」と言えるのか? 答えはもちろん「否」だし、基本的にはこのような前提のなかで各テーマでの検証が行われていく。
これはいささか品のない引用になるが、Twitterに内蔵されたAI、Grokに訊いても、「でもそうした政策は戦争準備と結びついていたし、強制労働や抑圧的な手段に頼っていた部分も多いんだ。だから、『良いこと』を切り離して評価するのはほぼ不可能だよ」と返ってくる。SNSに内蔵されたAIでさえこうなのであり、おそらくはこれがグローバル・スタンダードなのだろう。
こうした「大きな前提」がわかっていると、経済、労働、家族、環境、健康といった各分野での検証を、ここで事細かに再現していくには及ばないかもしれない。
そもそも、第一次世界大戦後の経済危機、政治的混乱に対するカウンターとして登場したナチ党が、旧政権の政策を引き継いでいたり、アメリカをはじめとした他国を模倣したりしていたとしても、それを素直に喧伝するはずはなく、それを極端なほど大規模に実施することで国民にアピールし、「誇大な宣伝」などによって自分たちの手柄として演出したのである。
その上で言うなら、経済分野での「神話」と呼んでも過言ではないアウトバーンの建設は、むしろ「民族共同体」可視化のための象徴という役割が大きく、雇用創出効果は「きわめて限定的」だったという。当時のドイツ経済を回復させたのは、「軍需経済にほかならなかった」のだ。しかも、その軍需経済も「裏技」に近いスキームでの資金調達によって行われており、それをペイするには「武力による領土拡大と占領地からの収奪」しかなかった。
こうなってくると、労働分野における様々な福利厚生措置も、労働者に対するある種のガス抜きであり、「総動員体制」確立への伏線だったというのは理にもかなっているし、家族分野における子沢山な「母親」への様々な報奨制度や優遇措置も、「将来の兵士や労働力を産み育てること」としてこそ求められていたのだ。
また、映画『関心領域』で、アウシュビッツ強制収容所の所長が周辺環境への配慮を部下に呼びかける場面があったが、あれも「民族共同体」の構築に向けた精神的な引き締めだったということが、本書を読んでよくわかった。環境分野での様々な政策や運動は「古き良きドイツ」を守っていくナショナリズム運動だったのであり、『関心領域』という映画に、「黒」や「白」と同じくらい多く「緑」が氾濫していたことも納得である。
以上、かなり大雑把ではあるが、ナチスが「民族共同体の構築」と「戦争の準備」をいかに巧みに進めていたのか、その一端はお分かりいただけたのではないかと思う。検証項目の3、「で、結局、表向きの目的は達成されたの?」という点の答え合わせは、ぜひ本文を当たっていただきたい。900円のブックレットとは思えないほどのボリュームで詳しく検証されている。
とはいえすでに述べたように、本書自体がある種の「言論状況」に対するカウンターとして書かれているので、何かを順序良く学んでいく構成にはなっていない点には留意が必要かもしれない。
世界史に疎い私は、本書を「たった一冊のネタ本」にしないためにも、巻末のブックガイドで「ヒトラーやナチ体制について知りたい場合、最初に読むべき文献」として紹介されている、石田勇治著『ヒトラーとナチ・ドイツ』(講談社現代新書、2015年)を早速読み始めたところである。
まとめに代えて、最後に一つ。
これは田野先生がTwitterパトロールの中で再三指摘していることでもあるが、ナチスの「悪の極北」ぶりを相対化する文脈でよく見かける、子どもと笑顔で触れ合うヒトラーの写真は、ナチ・プロパガンダにおいて「写真報道のお決まりのテーマとなっていた」という。
こういう言い方が本書でストレートになされているわけではないが、まさしくこうした写真への反応が象徴しているように、総じて言えば、端的な個別の事実を指して「ナチスは良いこともした」と端的に主張することは、ナチスのプロパガンダに80年遅れで乗せられている、ということにほかならないのだ。
これも「説教臭いね」で終わってしまう話だろうが、そうした「罠」から逃れ続けるためにこそ、歴史学の蓄積があるわけだし、それを受取ろうとする努力がわれわれにも必要なのだと思った。このような本がある種の徒労を覚悟で出版されたことも、決して当たり前ではないのだから。
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